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第十章 蝙蝠小町、ひた走る
十の十四(完)
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冬至郎が日本橋まででいい、と言うのに、小源太は高輪の大木戸まで京へと帰る兄を見送りにきた。おまけに、来なくていいと断ったのに、大家の久右衛門もついてきて、疲れた疲れたとぼやくから、うるさくてしかたがない。
神田明神下のけやき長屋から、この大木戸まで二里(八キロ)ちょっともあるから、普段、神田、日本橋界隈しか歩かない老人にはきついことであろう。
途中、芝の増上寺に旅の無事を祈願するために詣でて、茶屋で団子などを食い、朝早くに出たはずなのに、大木戸に着いた時にはもう昼近かった。旅人はもっとはやくに旅立っているからだろう、大木戸の周辺は、それなりに旅人や見送りの人が行き来しているものの、混雑しているというほどではなかった。
「なあ、やはり、お前もいっしょに帰らないか?私を捜すために江戸に出てきたのだから、目的を果たした以上、京に帰るのが当然だろう」
大木戸の脇で立ち止まって、冬至郎が小源太にすがるように言う。
「大叔父様にも私にも黙って、京の家を出奔したのは、兄上です。ご自分が悪いのですから、大叔父様にぞんぶんに怒られるといいでしょう」
「殺生なことだ。それでも血のつながった妹か」冬至郎はいい歳して、大叔父に怒られることを恐れてぐずぐず言っているのだった。
「私は今少し、江戸で世間というものを学びます」
「ふむ、おふたりの大叔父様は、そんなに恐ろしいおかたなのですか」
久右衛門が訊くのに、小源太が答える。
「大叔父は怒るとまさに雷が落ちるような大声で怒鳴るから、子供の頃から私も兄も、大叔父を怒らせないようにずいぶん気をつかってきたものだ」
「大叔父様の雷にもめげず、お転婆を続けたお前を尊敬するよ」と冬至郎が嫌味を言う。
「しかし、おふたりをこれほど立派にお育てになった。いちどお会いしてみたいものです」
「ははは、大家殿とは、けっこう気が合うかもな」
と冬至郎が笑った。が、すぐに笑みをひっこめて、
「本当は、お家再興の知らせを持って京に帰るつもりだったんだ。それが、駄目になって、結局はわずかな報酬しかもらえなかったからなあ。手土産もなしでは、大叔父様の怒髪が天を突く姿が目に見えている」と、冬至郎は溜め息をついた。
冬至郎が松平伊豆守の間諜として、張孔堂に潜入する役目につくとき、良い功績を収めれば、伊豆守の家中に取りたててもらえる契約であったが、冬至郎は結果を残せなかった。特に、無断で勾坂甚内の隠し金を探索し、あげくの果てに、張孔堂に資金をあたえる結末になったのが、痛恨事であった。
「紅穂が隠し金探しに関わってきたから、道筋がおかしくなった。お前は関わらなくていいことに首をつっこみたがる。お家再興が頓挫したのは、すべてお前に原因があるのだからな」
「兄上、そんなこと言われましても、私は関わりたくて関わったわけではありません」
「張孔堂の者達と交友を深めたのは、お前の意思によるところであろう」
「冬至郎様」と久右衛門が口をはさんだ。「小源太様は、すべて無自覚なのです」
「そうそのとおり、紅穂は無自覚に周りに迷惑をかける」冬至郎がうなずく。
「そんな、兄上も大家さんもひどうございます」
小源太は頬をふくらませて、ぷいとそっぽをむいた。
冬至郎と久右衛門が笑った。まわりを温かくつつむような、なごやかな笑いだった。
「久右衛門殿、今後もふつつかな妹が迷惑をかけると思うが、よろしく頼む」
「おまかせください」
「さて、そろそろ出立せねば。わがままもいい加減にして、早早に京に帰ってくるのだぞ、紅穂」
「では、お元気で、兄上」
兄はくるりと振り向くと、大木戸をくぐって旅立って行った。
旅日和とでもいうのか、太陽がうららかに照り、空は高く、鳶が弧を描いて飛んで、冬至郎の旅立ちを見守っているようだ。
小源太は、兄の姿が道の彼方の景色に混じって見えなくなるまで、じっと見送った。
そうしてひとつうなずくと、家に向かって歩き出した。
「あ、ちょっと待ってくださいよ。老人を少しは気づかってくださいな」
たちまち久右衛門の不平が始まった。
小源太は、にっこりと笑って聞き流す。
さわやかな海からの風が、小源太の背を押すように吹き過ぎていった。
四海波しずかにて、天下太平こともなし。
日日まことに晴朗なり。
(おしまい)
神田明神下のけやき長屋から、この大木戸まで二里(八キロ)ちょっともあるから、普段、神田、日本橋界隈しか歩かない老人にはきついことであろう。
途中、芝の増上寺に旅の無事を祈願するために詣でて、茶屋で団子などを食い、朝早くに出たはずなのに、大木戸に着いた時にはもう昼近かった。旅人はもっとはやくに旅立っているからだろう、大木戸の周辺は、それなりに旅人や見送りの人が行き来しているものの、混雑しているというほどではなかった。
「なあ、やはり、お前もいっしょに帰らないか?私を捜すために江戸に出てきたのだから、目的を果たした以上、京に帰るのが当然だろう」
大木戸の脇で立ち止まって、冬至郎が小源太にすがるように言う。
「大叔父様にも私にも黙って、京の家を出奔したのは、兄上です。ご自分が悪いのですから、大叔父様にぞんぶんに怒られるといいでしょう」
「殺生なことだ。それでも血のつながった妹か」冬至郎はいい歳して、大叔父に怒られることを恐れてぐずぐず言っているのだった。
「私は今少し、江戸で世間というものを学びます」
「ふむ、おふたりの大叔父様は、そんなに恐ろしいおかたなのですか」
久右衛門が訊くのに、小源太が答える。
「大叔父は怒るとまさに雷が落ちるような大声で怒鳴るから、子供の頃から私も兄も、大叔父を怒らせないようにずいぶん気をつかってきたものだ」
「大叔父様の雷にもめげず、お転婆を続けたお前を尊敬するよ」と冬至郎が嫌味を言う。
「しかし、おふたりをこれほど立派にお育てになった。いちどお会いしてみたいものです」
「ははは、大家殿とは、けっこう気が合うかもな」
と冬至郎が笑った。が、すぐに笑みをひっこめて、
「本当は、お家再興の知らせを持って京に帰るつもりだったんだ。それが、駄目になって、結局はわずかな報酬しかもらえなかったからなあ。手土産もなしでは、大叔父様の怒髪が天を突く姿が目に見えている」と、冬至郎は溜め息をついた。
冬至郎が松平伊豆守の間諜として、張孔堂に潜入する役目につくとき、良い功績を収めれば、伊豆守の家中に取りたててもらえる契約であったが、冬至郎は結果を残せなかった。特に、無断で勾坂甚内の隠し金を探索し、あげくの果てに、張孔堂に資金をあたえる結末になったのが、痛恨事であった。
「紅穂が隠し金探しに関わってきたから、道筋がおかしくなった。お前は関わらなくていいことに首をつっこみたがる。お家再興が頓挫したのは、すべてお前に原因があるのだからな」
「兄上、そんなこと言われましても、私は関わりたくて関わったわけではありません」
「張孔堂の者達と交友を深めたのは、お前の意思によるところであろう」
「冬至郎様」と久右衛門が口をはさんだ。「小源太様は、すべて無自覚なのです」
「そうそのとおり、紅穂は無自覚に周りに迷惑をかける」冬至郎がうなずく。
「そんな、兄上も大家さんもひどうございます」
小源太は頬をふくらませて、ぷいとそっぽをむいた。
冬至郎と久右衛門が笑った。まわりを温かくつつむような、なごやかな笑いだった。
「久右衛門殿、今後もふつつかな妹が迷惑をかけると思うが、よろしく頼む」
「おまかせください」
「さて、そろそろ出立せねば。わがままもいい加減にして、早早に京に帰ってくるのだぞ、紅穂」
「では、お元気で、兄上」
兄はくるりと振り向くと、大木戸をくぐって旅立って行った。
旅日和とでもいうのか、太陽がうららかに照り、空は高く、鳶が弧を描いて飛んで、冬至郎の旅立ちを見守っているようだ。
小源太は、兄の姿が道の彼方の景色に混じって見えなくなるまで、じっと見送った。
そうしてひとつうなずくと、家に向かって歩き出した。
「あ、ちょっと待ってくださいよ。老人を少しは気づかってくださいな」
たちまち久右衛門の不平が始まった。
小源太は、にっこりと笑って聞き流す。
さわやかな海からの風が、小源太の背を押すように吹き過ぎていった。
四海波しずかにて、天下太平こともなし。
日日まことに晴朗なり。
(おしまい)
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良い文章ですね。
弾む様な語感で読みやすい。
テーマがテーマなだけに伸びにくいとは思われるけれど、めげずに頑張ってほしい。
ありがとうございます!