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第十章 蝙蝠小町、ひた走る
十の十三
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小源太が母屋をまわって裏へと来ると、数人の捕手達がひとりの牢人を取り巻いていた。
いや、牢人は後ろ手に縛られたひとりの男の肩をつかみ、刀を首にあてていて、
「近づくな、こいつを刺すぞ」
そんなことを、声を引きつらせて叫びながら、捕手達を威嚇している。
人質にされているのは――、
「兄上っ」
小源太が叫んだ。
「かまわないから、ひっ捕らえろっ」
与力らしき男が命じている。人質の命など気にもかけぬ態度である。それはそうだ、北町奉行所にしてみれば、人質の冬至郎はまったく無関係な男である。無関係な男がひとり刺されたとて、町方役人達の心は毛の先ほども痛まない。
こういう事態に陥って欲しくなかったから、小源太はこの捕物が始まる前に、兄を救出したかったのだ。
小源太は捕手達が動くのを制するように、列から数歩前に出た。
「その人を放してくれ。その人は私の大切な兄なんだ」
と必死な面持ちで懇願するように言った。
追い詰められた男が、放してくれと言われて、せっかくの人質をやすやすと放すはずもない。かえって人質の有効性を高めたようなものであった。
「どうせ、打首獄門の身だ。ひとりやふたり道連れにするのに、俺はためらいはしない」
男は自暴自棄になっている。
非常にまずい、と小源太は焦った。額から大粒の汗が流れ落ちる。
「放せ、放せば地獄の閻魔様が罪を免じてくれるかもしれんぞ」
もはや言ってる小源太自身、訳がわからない。何を言っているか自分でも理解できないくらい気持ちが動転してしまっている。
すると、母屋の反対側を回り込んできたのだろう、香流隼人が、足音もたてず、しかし何食わぬ顔で相手の背後に近づいて来ている。
「放せ、放してくれ」
香流が近づく気配を牢人に悟らせないように、小源太はむやみに大声をだした。
捕手達もそれに同調してくれた。放せ、放せと大声で叫びたてる。
「やかましい、黙って道をあけやが、れっ!?」
牢人が叫び終わらぬ間に、香流が牢人の刀を持った手首をつかみ、ねじりあげて地面に押さえつけた。
「動くな、下手に動くと骨が折れるぞ。てめえなんぞ、どうせ打首だが、それまで苦しみたくねえだろう」
香流は牢人を恫喝した。
小源太は素早く走り寄り、兄の緊縛を解いた。
そうして、
「兄上っ」
力いっぱい兄の胸に抱きついた。
捕手達が見ている中であっても、はしたないという気持ちは、まったく湧いていなかった。ただ、こみあげる歓喜のまま、兄の胸に飛び込んだ。
「まだ捕物は終わっちゃいねえ、お前達はさっさとこの場を離れろ」
香流が、怒気をふくませて命令する。
「邪魔だ、邪魔だ」
牢人を縛りあげて、本当に目障りだと言わんばかりに香流が手を振った。
せっかく囚われの身であった兄と会えたのだ、少しぐらい感涙にむせぶ時をくれてもよさそうなものだ、と小源太はむっとして香流を睨んだ。
「同心殿の言う通りだ、紅穂、我らは早く立ちのくぞ」
冬至郎は抱きつく小源太を、鬱陶しそうに引きはがしながら言った。
香流同心ばかりでなく、兄の口からこうも思いやりのない言葉を聞こうとは思わなかった。
「助けていただき感謝いたす」冬至郎が香流に礼を言った。
「なに、役目をはたしたまでだ」香流はそっけなく応じる。
そうして、さっさと立ち去って行く冬至郎の後を、小源太はふくれっ面をして追うのだった。
そのふたりの背に、香流が声をかけた。
「おぬしらには問いたださねばならぬことが、あまたある。後日番所に出頭しろ」
小源太は振り向くと、苛立ちのまま香流を睨みつけたが、香流はそしらぬ顔をして、捕手達に何か命じている。
神田川まで出ると、もう捕物の喧騒はまったく聞こえず、さらさらと静かに流れる川の音と虫の声が聞こえるばかりであった。冷たい秋風が川を吹き渡ってきて頰をなで、小源太は蝙蝠羽織の衿をかきあわせた。
ふと冬至郎が立ちどまり、空を見上げた。
「終わったな」
深くしみじみとした調子で冬至郎がつぶやいた。
そう、終わりなのだ、と小源太は思った。もう一生、由井正雪とも金井半兵衛とも丸橋忠弥とも、会うことはない。人生のほんの一刻ではあったが、彼らとの出会いは小源太に大切なものをあたえてくれ、成長させてくれた。そういう人達と二度と会えないと思うと、胸の中いっぱいに寂寥がこみあげ、かけがえのない人の欠けたこの江戸という大きな町が、なにかむなしい虚像のように思えるのだった。
小源太も夜空を見上げた。
小さくまたたく星星と、眩しいほどの下弦の月がふたりを照らしている。
慶安四年七月二十六日、由井正雪、駿河にて自刃。
八月十日、丸橋忠弥、品川鈴ケ森において磔。
八月十三日、金井半兵衛、大坂にて自害。
いや、牢人は後ろ手に縛られたひとりの男の肩をつかみ、刀を首にあてていて、
「近づくな、こいつを刺すぞ」
そんなことを、声を引きつらせて叫びながら、捕手達を威嚇している。
人質にされているのは――、
「兄上っ」
小源太が叫んだ。
「かまわないから、ひっ捕らえろっ」
与力らしき男が命じている。人質の命など気にもかけぬ態度である。それはそうだ、北町奉行所にしてみれば、人質の冬至郎はまったく無関係な男である。無関係な男がひとり刺されたとて、町方役人達の心は毛の先ほども痛まない。
こういう事態に陥って欲しくなかったから、小源太はこの捕物が始まる前に、兄を救出したかったのだ。
小源太は捕手達が動くのを制するように、列から数歩前に出た。
「その人を放してくれ。その人は私の大切な兄なんだ」
と必死な面持ちで懇願するように言った。
追い詰められた男が、放してくれと言われて、せっかくの人質をやすやすと放すはずもない。かえって人質の有効性を高めたようなものであった。
「どうせ、打首獄門の身だ。ひとりやふたり道連れにするのに、俺はためらいはしない」
男は自暴自棄になっている。
非常にまずい、と小源太は焦った。額から大粒の汗が流れ落ちる。
「放せ、放せば地獄の閻魔様が罪を免じてくれるかもしれんぞ」
もはや言ってる小源太自身、訳がわからない。何を言っているか自分でも理解できないくらい気持ちが動転してしまっている。
すると、母屋の反対側を回り込んできたのだろう、香流隼人が、足音もたてず、しかし何食わぬ顔で相手の背後に近づいて来ている。
「放せ、放してくれ」
香流が近づく気配を牢人に悟らせないように、小源太はむやみに大声をだした。
捕手達もそれに同調してくれた。放せ、放せと大声で叫びたてる。
「やかましい、黙って道をあけやが、れっ!?」
牢人が叫び終わらぬ間に、香流が牢人の刀を持った手首をつかみ、ねじりあげて地面に押さえつけた。
「動くな、下手に動くと骨が折れるぞ。てめえなんぞ、どうせ打首だが、それまで苦しみたくねえだろう」
香流は牢人を恫喝した。
小源太は素早く走り寄り、兄の緊縛を解いた。
そうして、
「兄上っ」
力いっぱい兄の胸に抱きついた。
捕手達が見ている中であっても、はしたないという気持ちは、まったく湧いていなかった。ただ、こみあげる歓喜のまま、兄の胸に飛び込んだ。
「まだ捕物は終わっちゃいねえ、お前達はさっさとこの場を離れろ」
香流が、怒気をふくませて命令する。
「邪魔だ、邪魔だ」
牢人を縛りあげて、本当に目障りだと言わんばかりに香流が手を振った。
せっかく囚われの身であった兄と会えたのだ、少しぐらい感涙にむせぶ時をくれてもよさそうなものだ、と小源太はむっとして香流を睨んだ。
「同心殿の言う通りだ、紅穂、我らは早く立ちのくぞ」
冬至郎は抱きつく小源太を、鬱陶しそうに引きはがしながら言った。
香流同心ばかりでなく、兄の口からこうも思いやりのない言葉を聞こうとは思わなかった。
「助けていただき感謝いたす」冬至郎が香流に礼を言った。
「なに、役目をはたしたまでだ」香流はそっけなく応じる。
そうして、さっさと立ち去って行く冬至郎の後を、小源太はふくれっ面をして追うのだった。
そのふたりの背に、香流が声をかけた。
「おぬしらには問いたださねばならぬことが、あまたある。後日番所に出頭しろ」
小源太は振り向くと、苛立ちのまま香流を睨みつけたが、香流はそしらぬ顔をして、捕手達に何か命じている。
神田川まで出ると、もう捕物の喧騒はまったく聞こえず、さらさらと静かに流れる川の音と虫の声が聞こえるばかりであった。冷たい秋風が川を吹き渡ってきて頰をなで、小源太は蝙蝠羽織の衿をかきあわせた。
ふと冬至郎が立ちどまり、空を見上げた。
「終わったな」
深くしみじみとした調子で冬至郎がつぶやいた。
そう、終わりなのだ、と小源太は思った。もう一生、由井正雪とも金井半兵衛とも丸橋忠弥とも、会うことはない。人生のほんの一刻ではあったが、彼らとの出会いは小源太に大切なものをあたえてくれ、成長させてくれた。そういう人達と二度と会えないと思うと、胸の中いっぱいに寂寥がこみあげ、かけがえのない人の欠けたこの江戸という大きな町が、なにかむなしい虚像のように思えるのだった。
小源太も夜空を見上げた。
小さくまたたく星星と、眩しいほどの下弦の月がふたりを照らしている。
慶安四年七月二十六日、由井正雪、駿河にて自刃。
八月十日、丸橋忠弥、品川鈴ケ森において磔。
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