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 入れ墨を入れ終わると、涙を浮かべながら枕を抱いて痛みに耐え続けていたアリアナの頬に、ロゼは優しいキスを落とした。
「アリアナ、終わったわ。おめでとう、これであなたは正式に私のクルーになったわ」
「ぁ…終わり?」
 終わりの言葉にアリアナは緊張してこわばっていた体からフッと力を抜き、ぐったりと疲れた様子でベッドに沈み込んだ。
「よく頑張ったわね。宴が始まるまで、ここで休んでいいわ」
「ありがとう、ございます」
 ロゼはアリアナの頭をサラリと撫でると部屋を出ていき、アリアナも一人になったことで緊張が完全に解け、襲ってきた眠気に身をゆだねて眠りに落ちた。


 部屋を出たロゼは、扉の前で壁に寄りかかって待っていたデュオに少し目を見開いて驚いた表情を一瞬浮かべたものの、すぐに笑顔に戻る。
「こんな所で何をしているのかしら? 買い出しに行ったんじゃなかったの?」
「私の買い出しなんて、すぐに終わりますよ。だから、なぜあの子を連れ帰ってきたのか直接聞きに来ました」
「あら、嫉妬?」
「そうかもしれませんね」
 お互いに笑顔だが、その間に漂う雰囲気は穏やかなものではなく、油断をすれば食われるというような雰囲気だった。
「連れ帰ってきた理由なんて簡単よ。私があの子を嫌悪しなかったから。でも、なんでアリアナだけ嫌悪感を抱かなかったのかは分からないわ。分からないからこそ、手元に置いてその理由を探りたいと思っただけよ」
「はぁ…ロゼ。貴女が一番分かっているでしょう? この船は海賊船なんです。一般人を連れてきて、無理やり海賊に落とす。ロゼの気まぐれで一人の人生を狂わせているのですよ」
 強い口調でたしなめるデュオだが、ロゼは腕を組んで興が削がれた言わんばかりの表情でデュオを見つめ返す。
「この船が海賊船であることは、誰よりも理解しているわよ。私が船長だもの。分かった上で連れてきたのよ。それにしても意外ね。医者のくせに冷酷非道のあなたが他人の人生…しかも幸せを願うような発言をするなんて」
「連れてくるのは大体野郎ですからね。野郎の人生なんてどうでもいいんですけど、今回は女性です。私は女性には優しいんですよ」
「あら初耳」
 からかうように笑うロゼに、デュオはいら立ちを隠せず大きなため息を吐いた。
「からかうな、ロゼ。…いいか、この海賊船はロゼという最高の蜜のもとで絶対的な忠誠を掲げている。そこに、新たな蜜が現れればどうなるか」
「私への忠誠が薄れるって言いたいの? そんな簡単に寝返る男を選んだつもりはないわ」
「甘いですね、ロゼ。ほかの蜜があれば、その蜜も味わってみたいと思うのが男のさがです。そして、その蜜を気に入らないとも限らない」
 ロゼの認識の甘さに危機感を示すデュオだが、ロゼは気にすることなくクスクスと笑ってデュオに詰め寄った。
「味見くらいで目くじらを立てるような船長じゃないわよ、私は。それに、あの子をここに留めるくさびになってくれる男がいるなら、それはそれでいいわ。私の宝が逃げずにすむでしょう? 宝を持ち逃げしようって言うなら話は別だけど、この船の中で宝を愛でるくらいなら何の問題もないわ。デュオだって、褒美として望むのならあの子を貸してあげるわよ」
「別に、私はロゼがいればいいので今のところ望む予定はないですよ」
「あら、そう。じゃあ、私が目いっぱい愛でることにするわ。話はもう終わりかしら? 暇ならアリアナのために痛み止めを作ってあげて。もし痛みで泣いていたら渡すから」
「分かりました。用意しておきましょう」
 ひらひらと手を振って甲板の方へ行くロゼに、デュオはその背中を見送りながらやれやれと苦笑を漏らした。
「ロゼと一緒にいると、飽きないな」
 ぽつりとひとり呟いた言葉は、誰の耳に届くことなく波の音に消され、デュオは調薬室へ向かった。

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