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◇二章【晴天艱難】
二章……(六) 【蒼穹に立つ】
しおりを挟む――思わず冷や汗が流れる状況。
何故ならば、たどり着いた空間、ソラは注連縄を乗り越えた先。もう数歩と行けば断崖から落下してしまう危うげな位置で踞っていたのだから。
リンリが声を掛けると「おリンちゃん」と。
彼女は肩を跳ねさせ。小さく呟く。
「どうして、走り去ったりなんて……?」
よって、やんわりと訊ね。対応を考える。
リンリは刺激しないようそっと彼女に寄って行き。
注連縄を引き締めている木杭に触れたところで、
「……お待ちを。お待ち下さいませ!」
「おっと」
その木杭から音が鳴り、接近を気付かれたか。
掌を向けられ静止されてしまい。
「……申し訳、ありません。まだ……。
ほんの少しだけ、お待ちいただけますか?」
間を空けての、か細い返答の声。
背中を向けたままの彼女より、そう求められる。
「…………」
「…………」
再度の相黙。沈黙と沈黙が交り合う重苦しさ。
やはりこういった空気はリンリには荷が重くて。
然れども。事を案ずる以前に、残秋の温もりを残さず浚って行ってしまうような風の仲立ち。北方より吹いた木枯らしが二人の間を持たせた。
唾を飲み、咽を鳴らすリンリ。
「ソラさん、わかりました……。
必要なだけ待ちますよ。だから何があったのか詳しく知りませんが、焦らないで下さい。落ち着いて」
これは、求めに応じる他にあるまい。
内心を表して立ち、小刻みに動いてしまう尻尾を押さえ。口下手な言葉で『了承』の意を伝えると、半歩後退だ。自分からは余計な行動をせずに、暫し立ち尽くして待つとしたリンリ。
「…………」
「…………」
鳥類の羽ばたきの音が、頭上を越して行く。
木枯らしの誘いにでも乗ったのだろうか。
翼を広げ視界の外の樹木より飛び立った烏が、蒼穹の彼方へ消えるまでと等しい時間を掛けてようやくソラは頭を上げていた。境界に張られた縄区切りの内と外。陰日向の立ち位置。彼女はフラつきつつもリンリと向き合う形で起き上がり。着物に付いた枯れ葉や土汚れを払ってから、
「――おリンちゃん……。
いいえ。これは失礼いたしました。
改めまして、リンリ様で宜しいでしょうか?」
丁寧な一礼の後、控え目な声量で言う。
「リンリ、さま……と?
あのぉソラさん? 俺に『様』ってのは?」
彼女の言下に首を捻るリンリ。
そう呼ばれる事にもう慣れてしまい、この頃はむしろ彼女からの親しみなのだと割り切っていた『愛称』を改められ。今更になって自分に『様』を付けられる理由を探す。
浮かんだ心当たりとして、禍鼠の件で感謝しているから『恩人として様を付けている』とするならまぁ納得する。けれど何かが違う。おかしい。おかしいだろう。控え目で悲しそうに。探るよう慎重に。眉をひそめて強張るように。距離を取り、近付けもさせずに。それこそ警戒でもしているかのように彼女は構えていて。そんな対面の体をしている相手に『様』を付けるなぞ、どう捉えても普通ではない。
銀髪を木枯らしに靡かされながら視線を送る。
ソラは何とも難い表情をしてしまった。
「不肖の身である私にはとても、その故は、その御心は伺い知ること叶いませんが。リンリ様は“真の姿”を隠していらっしゃったということですね。本来の、統巫としての身分さえ偽って……」
「――は?」
「その美しい御姿を。様相を顕になされるまで、此方側にはリンリ様が高貴な御身で有らせられると知る術が無かったとはいえ。ここに至るまでのご無礼の数々、どうかお許し下さいませ」
「あの、その。えーと?」
「また此度の一件につきまして。
衷心より謝罪と感謝を申し上げます。リンリ様」
感謝。感謝か。彼女に何かを『感謝』されているというなら、とても喜ばしいこと。一方の『謝罪』と合わせて、統巫屋の代わりに個人的に“勝手に”被った禍鼠からの被害の『謝罪』と『感謝』だろう。そこは『謝罪なんて必要ない』と伝えて。一言『どういたしまして』で良い。だが、
「まことの姿、身分……と?」
リンリは眼を細めて、頭に疑問符を乗せる。
問題は、ソラがその前に述べた部分であり。
変わり果てた狐娘に成っているが。別に『まことの姿』なんて顕にした覚えはない。正体を隠していたなんて設定が生えてきてたまるものか。生憎そんな愉快な設定は持ち合わせていないし、身分も偽ってないぞと。裏表なく嘘偽りもなく。生まれも育ちも冴えない普通の男だ。……だった。
何やら、ややこしく勘違いでもされている。
だけどもひょっとしたら、リンリの方が大きな勘違いをしている可能性も鑑みておく。
ソラが自分の事を正しく認識してくれている分、それがかえって疑問に疑問を絡ませていた。疑問符が尽きない。
其は、呼び起こされる記憶。
『――人として逝きたい?』
『――或いは、人を捨ててまで生きたい?』
記憶に刻まれた、系統導巫様の言ノ葉だ。
生死の境で交わした約束。統巫屋で得た知識。
自然と腑に落ち、勝手に決め付けていたが。因果関係を整理して考えないといけないだろう。
まず『正体を隠していた』という言い方をされたのなら、統巫屋と系統導巫様は、リンリの身体の変容には関係していない風であり。やはりどうにもおかしい。
変容したリンリの姿は『使従』の皆のように、系統導巫様との契約で『人を捨て』その代償を払ったことで、生かされ。結果として『眷属』に近しい存在に成った。……のではない。ということか?
「俺は――」
どくり、と。心の臓が脈を打つ。
何故か? 何故だ? 何故、何故……?
……待て。落ち着かなくてはいけない。認識しなくてはならない。目を向けなければならない。
聞き流すな、聞き逃していないのだから。
事の『前提』から、自分の『根底』から。全て矛盾して成り立たなくなる『固有名詞』を、まさかの自分に対して使われていたのだ。どうしたって無視できぬ言ノ葉だ。しかし、あり得るわけが――。
「――俺が、統巫……と言いましたか。
いやいや、なんでそうなるんですか。俺はただの何処にでも居る平凡な人間です。人間でした。そんなわけが無いでしょうに。ははは……」
「リンリ様。羽衣が見えておりましたよ?」
リンリは自分の背中を見遣る。
当然にして、揺れる尻尾以外は何も無い。
「統巫の証。あの羽衣みたいなヤツか……。
でも。んほら、そんなん肩に無いでしょう。俺にはあんな神々しいオプションはありませんから!」
「――本当に、でしょうか?」
「いや……あの、そう言われましても――」
背中に意識を向けさせている内に、ソラはさっと懐より取り出したのか。何やら細長い布包みを手に握ると、振りかぶりの形。狙いを定めておき。
それを「投げますよ」と知らせ。リンリが正面を向いた瞬間に、そのまま無遠慮に投げ放った。
「――なっ!?」
予想だにしなかった彼女の行動。
咄嗟の事で、何も反応できずに投擲物を受けた。
受けた。受けている。……はずであったか。
しかし、何かが身体にぶつかった衝撃は無い。
あぁそれもそのはずで。当たってなどいないのだ。正しくは『護られた』と言えば良いやら。
干渉は寸断され、御身には及ばない。かの系統導巫様の弁。悪意や敵意を帯びた干渉、あるいは本人が身構えたり精神的に拒絶した干渉を阻む絶対堅牢の障壁……と、説明された記憶が過る。
頭部に向かって飛来した投擲物は言葉のままにリンリの“目と鼻の先”で静止していたのだから。
時間の流れから切り取られたように。
非現実的に、宙に浮く状態で静止する元投擲物。
――目を見張り、言葉を失うリンリ。
言葉にはできずに『何故、止まっている?』と。目を丸くして、その理由を虚空の宙に問いかけた。
存在をほぼ認知され、問いかけられたのなら。
ならば、存在を秘匿され続ける理由もなし――。
そこで持ち主の意を汲んだか、姿を顕す。
空中の清澄を染め上げるが如き、または清澄の遠景をそこだけ奪い去るが如く。徐々に輪郭とともに現出する純白の帯。正しく羽衣、神々の巫女の揺籃たる権能の一端。統巫の証とされるもの。
羽衣は「これは、俺の……!?」困惑する持ち主の呟きに優雅に揺れてから、巻き付いて保持していた件の布包みを離し、さらさらと空中を流れ、持ち主もといリンリの背後に控えた。
困惑と混乱の波は、一層に高まる。
「リンリ様の、お探しの物はその中に。
私が預かっておりました。真意を知りたく」
「何かを探してた覚えは、無いですけど」
いやしかし。今は会話を優先しなければと。可能な限りの平常を装い。リンリは地面に落下した布包みを拾い、すぐさま解く。その中身は、抜き身のままで小刀が一本。小刀か……覚えがある。
何も装飾が無されていない、ただの脇差だ。
なのに直接触れれば、熱を帯び、刀身に幾何学的な刃文が浮かび上がる。結ばれた糸が張り詰めていくような、血液が巡るような深い繋がり。欠けていた、欠けてしまった何かが補われるような感覚。表現としてどうかとは思うも、喪われた己の陰茎が戻ってきたような心弛びと高揚感。それらにより自分と密接な縁が存在するのだと本能的に勘づいてしまって耳を伏せる。もうただのならざる物品だと認める事しか叶わず。
「これは、統巫の、えだ。その、
エムシだったか……まさか、これも俺の?」
放心するリンリを他所に、ソラは告げる。
「けれど、やはり、私は……。
リンリ様が、おリンちゃんが禍巫だとはとても。結果的に祓われる運びになったとはいえ……。一時でもこの地に禍をもたらす類いの存在であるとは思えなくて。だから返上致しました。深く重ねて、ここにお詫び申し上げます」
「――どういう意味ですかッ?」
耳を傾け、小刀から視線を戻し。
目を細めて怪訝な声質で言表したリンリ。
対してのソラは悲しそうに「いえ」と。首を降ってから、ぐっと顔を歪め。言改めるのだ。
「というのは、半分は建前で。この地に禍をもたらしたのは、禍を呼び込んだのは、私です。全て私のせいなのです――」
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