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第3章 虚ろの淵より来たるもの
城下にて
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少年がリィンスタット王国の王宮に来てから一週間。ようやくここでの生活に慣れ始めた彼は、昼下がりの中庭でスケッチブックと向き合っていた。真剣な目で紙に鉛筆を走らせていく彼の目の前には、濃い黄色の毛並みをした大きな獣、リィンスタットの王獣であるリァンがいる。畏れ多いことに、黄の王の計らいでリァンの写生をさせて貰えることになったのだ。
黄の王がそれを言い出したとき、リァンはとても不服そうに唸っていたのだが、王が半ば無理矢理説得してくれたため、こうして大人しく少年に付き合ってくれている。
勿論少年は、高貴な王獣様にさせることではないと断ったのだが、どうやら黄の王自身、赤の王から頼まれたことだったらしく、ここでお前に断られるとリィンスタット王としての面子が丸潰れだと言い募られ、丸め込まれてしまったのだった。
そんなことを言われても、乗り気ではなさそうな王獣の時間を貰ってスケッチをするなんて天罰がくだりそうだ、と尻込みしていた少年だったが、いざスケッチブックと向き合えば、そんな心配はすっかり忘れて筆を走らせることに集中してしまった。王獣たるリァンの美しさは、少年の心を奪うのに十分だったのだ。
少年のストールから這い出たティアが王獣によじ登って、その背をぺちんぺちんと叩き出したときはさすがに肝を冷やしたが、それ以外は至って平穏な時が過ぎていった。
基本的に常に少し離れた場所に控えているアグルムも、少年のことを気遣ってか、必要以上に存在感を出すことはなかったし、少年からすれば至れり尽くせりな環境である。それがまた罪悪感を煽ってくるのだが、そこはまあ卑屈な少年の特性なので仕方がないだろう。
ほぼ天頂にあった日がやや傾き始めた頃、ようやくスケッチを終えた少年が、ふぅと息を吐いて筆を置く。王獣の姿を見る機会などなかなかないので、思わず時間をかけて丁寧に描いてしまった。だが、その分自分でもかなり満足のいくものが仕上がったので、良しとしよう。そう思って少しだけ頬を緩めた少年が、スケッチブックを閉じる。そして立ち上がった彼は、王獣に向かって深々と頭を下げた。
「お時間を取らせてしまって申し訳ありません。ありがとうございました」
そう礼をすれば、王獣はちらりと少年に視線を向けてから、地を蹴ってどこかへと飛んで行ってしまった。一瞬、怒らせてしまっただろうかと心配になった少年だったが、リィンスタットの王獣はドライな性格だと聞いているから、あれが素なのだろうと思い直す。
「……怒らせちゃった訳じゃ、ないよね……?」
恐る恐るそう呟けば、ストールからひょっこりと顔を出したトカゲが、こくこくと頷く。上位の幻獣であるらしいこの炎獄蜥蜴は王獣の言葉が判るようなので、彼がそう言うのなら、実際そうなのだろう。
そう考えて少しだけほっとした少年に、後ろに控えていたアグルムも頷く。
「リァン様は陛下と違って不必要に愛想をばら撒く方ではないからな。興味がない相手にはいつもあんな感じだ」
「あ、やっぱりそうなんですね……」
黄の王に対するトゲを感じる言い方だな、と思った少年だったが、それについてはコメントしないでおいた。なんとなく、赤の国の宰相を思い出したのだ。
(……きっと、どこの国の王様も、家臣に迷惑掛けてるんだろうな……)
これまた、北方国の王が聞いたら怒りそうな感想である。事実、金の国以外の南方国と黒の国はその気が非常に強いが、北方国と白の国の国王は、家臣の胃を痛めるような真似はしない。
「それで、この後はどうする?」
「え、あ、えっと……」
特に何もやる予定がない少年が言い淀んでいると、アグルムが少しだけ目を細めた。
「……城下にでも出掛けてみるか?」
その提案に、少年が少しだけ驚いた顔をする。
「え、で、でも、僕が外に出るのは、あまり良くないんじゃ……」
王宮内は兵も多く安全だが、城下街となるとそうはいかない。それに、人の多い場所に行けば行くほど護衛もしにくくなるだろう。少年の置かれた状況を考えれば、このまま王宮に留まって動くべきではない筈だ。
そう思った少年だったが、アグルムは首を横に振った。
「王宮にずっとこもっていても暇だろう。それに、陛下はお前を監禁したいと思っている訳ではないんだ。だから、こちらの護衛の手が回る範囲でなら、好きに出掛けてくれて構わない。勿論、一人で何処かへ行かせる訳にはいかないし、あまり遠くへ行かせる訳にもいかないんだが」
その点については悪いと思っている、と謝罪してきたアグルムに、少年が慌てて首を横に振る。
少年からすれば、その心遣いすら過剰なほどである。本来であればやはり少年を王宮に閉じ込めておくのが最善の策だろうに、できるだけ自由を与えようとしてくれているのだ。感謝こそすれ、責めようなどという気が起きるはずもない。
しどろもどろにそう伝えれば、アグルムは少年のストールから顔を出しているトカゲに視線をやった。
「感謝するなら、グランデル王陛下にしろ。炎獄蜥蜴がいなければ、お前を王宮の外に出す訳にはいかなかっただろう」
「……あ、あの、炎獄蜥蜴って、やっぱりそんなに凄いんですか……?」
お日様を浴びてころんころんと転がっている姿を思い出すと、とてもそうとは思えないが、確かに砂蟲に対して噴射した炎は凄まじかった。
そんな少年の問いに、アグルムが怪訝そうな顔をする。
「お前、炎獄蜥蜴がどういうものかも知らないで飼っているのか」
「う……、す、すみません……」
うなだれた少年の頬に、トカゲがすりすりと鼻先を擦りつける。どうやら慰めようとしているらしい。
「別に謝る必要はない。……そうだな、判りやすく言うと、炎獄蜥蜴が本気を出せば、街半分くらいの広さなら焼け野原にすることができる」
「ま、街半分!?」
確か、グレイから教わった極限魔法の規模が、街ひとつ分くらいだった筈だ。となると、炎獄蜥蜴はその半分程度の威力を発揮できるということになる。極限魔法を使えるのが四大国の国王しかいない事を考えると、これはかなり凄いことなのではないだろうか。
「炎獄蜥蜴は炎しか扱えないから水系統の相手とは相性が悪いが、それでも幻獣としては破格の生き物だ。たった一人の人間につける護衛として、これ以上はないだろう。……グランデル王陛下は、相当過保護なお方なんだな」
その言葉に、少年がトカゲを見る。視線を受けて、こてんと首を傾げたトカゲは、とてもではないがそんなに凄い生き物には見えなかった。
「……ティ、ティアくんて、本当に凄い子だったんだね……」
そう言った少年に、トカゲはやはり首を傾げただけだった。本人にはあまりその自覚がないのかもしれない。
「という訳で、こいつと俺がいれば、城下に出るくらいならば問題はない。……どうする?」
少年は別に、外に出たいとは思わない。元々王宮に閉じこもることになるだろうと覚悟していたのだし、それを不自由だとも思わなかった。だが、だからといって国王やアグルムの気遣いを断るのは、気が引けるというものである。
「……あの、じゃあ、折角なので、お願いしても良いですか……?」
「勿論だ。それでは早速出掛けるとしよう。……ティア、だったか。お前の力にも期待しているからな。こいつの護衛として、よろしく頼む」
アグルムの言葉に、トカゲが任せろと言わんばかりに胸を張る。
こうして、二人と一匹は城下へと足を運ぶことになったのだった。
騎獣に運ばれ、城下の商店街へとやってきた少年は、活気溢れる街並みに圧倒された。金の国の商店も賑やかではあったが、ここ黄の国の商店は賑わいの方向性が違うのだ。金の国よりも、もっとずっと親しみやすいというか、とても庶民的な印象を受ける。店はしっかりとした家屋の内部に構えられているものよりも、地面に直接敷かれた布の上に商品が並べられた、露店のような様相のものが多い。照り付ける陽光から身を守るように、屋根代わりの布が張られてはいるが、どちらかというと簡素な店構えである。
だが、少年なりに職人として目利きしてみれば、売られている品の質が低いということはないと判った。王宮までの道中で見た店もやはりこういう造りをしていたから、この国の店ではこういうスタイルが一般的で、それは首都でも変わらないということなのだろう。
(それにしても、見たことがない品がたくさんあるな……)
旅の途中ではあまり見る時間がなかったが、こうして改めて眺めてみると、金の国ではあまり目にすることのない品が結構並んでいる。金の国の貿易祭では、希少価値の高いものや汎用性のあるものが優先的に仕入れられるため、各国の庶民的な特産品というのは意外と出回らないものなのだ。
色々と面白いものはあったが、特に少年の目を引いたのは、店先で調理工程自体を見世物に客寄せをしている料理店だった。雷魔法らしきもので食材である砂兎を華麗に捌き、スパイスの香りが強く漂うスープへと入れていく様子は、まるでショーを見ているような気分にさせる。
(……でも、あの雷魔法、なんかどこかで見たような気が……)
じっと調理ショーを見ている少年に気づいたアグルムが、ああ、と呟いた。
「“雷の包丁”か」
「とる、ぴさう?」
「てっとり早く食材を切り分けるための雷魔法だ。この前陛下がザナブルムに対して使った筈だが、見ていなかったのか?」
言われ、記憶を探った少年だったが、スロニアの街で黄の王が繰り出した魔法と店先で食材を切っている魔法とが同じ物だとは到底思えない。
「……お、同じ魔法、なんですか……?」
恐る恐るといった風にそう尋ねれば、アグルムが頷く。
「“雷の包丁”は、食材それぞれに適した切り分けをする雷魔法だ」
「しょ、食材に適した……」
「砂兎なら、胸肉、もも肉、すね肉、といったように部位分けされるし、魚なら基本的には三枚おろしにされる」
「す、すごいですね……」
あの短い呪文の中に一体どれだけの情報が詰まっているのだろうか、という少年の疑問を察したのか、アグルムが再び口を開く。
「陛下が、火霊と風霊に代表的な食材の扱いを覚え込ませたんだ。だから、火霊と風霊が勝手に判断してくれる」
「…………ええと……?」
言っている意味が判らなくて思わず聞き返した少年に、アグルムは少しだけ不思議そうな顔をした。
「まさかお前、知らないのか? リィンスタット王国のクラリオ王と言えば、次々と新しい魔法を開発していることで有名だと思うんだが」
「そ、そうなんですか……?」
隣国のことすらよく知らない少年が、更に離れた黄の国のことなど知る筈もない。冗談抜きで初耳だった少年が驚けば、アグルムは呆れたような顔をしてから、それでも話を続けてくれた。
「トル・シリーズと言ってな。頭にトルがつく魔法は全て、うちの陛下が新しく創った魔法だ。例えば“雷の包丁”なら、こういう料理屋用に開発された料理魔法だな。うちの国では店先で調理の様子を見せる形式の店が多いから、そういう場で使えるだろうと思って創ったらしい。だから、本来はザナブルムに使うような魔法ではないんだが……」
まあ、目立ちたかったんだろうな、と続いた言葉に、少年は内心で、ああ、と呟いた。確かにあの王様ならあり得ることだな、と思ったのだ。
「陛下だから問題はなかったが、生半可な人間がザナブルム相手にあの魔法を使えば、それこそ魔力を根こそぎ持っていかれるだろう。“雷の包丁”は、使用対象に応じて消費魔力も変動する魔法だからな」
人間を丸呑みにできそうな巨大な生物相手に使ったならば、当然消費魔力も桁違いに大きいのだろう、と少年は思った。そしてそれをなんでもないことのようにやってのけてしまうあたり、国王というのはやはり規格外らしい。
だが、実力者であればあるほど呪文や詠唱の類を必要とせず、ときには精霊の名前を呼ぶだけで魔法を発動できると聞いていたが、どうして黄の王はわざわざ魔法を新たに確立しているのだろうか。王であれば、要点を言うだけで同様の現象を引き起こせそうなものだが。
抱いた疑問を素直に口にすれば、アグルムはそれにもきちんと答えてくれた。
「確かに陛下ならば、わざわざひとつの魔法として確立する必要はないのだろうが、それでは陛下以外が使えないからな。きっと、自分だけの魔法を作りたいのではなく、この国の魔法自体の底上げを考えているんだろう。……ああ見えて、お優しい方なんだ」
「そうなんですね……」
「あとは、単純に魔法として確立した方が効率が良い。いちいち要点を説明するよりも、呪文ひとつで発動できる方が早いだろう?」
「あ、はい、確かに。……でも、それなら他の王様もそうしていてもおかしくないと思うのですが……?」
当然の疑問に、アグルムは肩を竦めた。
「新しい魔法を確立するためには、相当な根気がいるんだ。なにせ、全ての精霊に現象についての共通認識を持って貰う必要があるからな。かなり高度な説明力と、精霊が飽きずに話を聞き続けてくれるようにするための工夫がいる。クラリオ王陛下は、そのあたりの才能がずば抜けていたんだろう」
どうやら、魔法に優れていれば誰でもできる、というものではないらしい。確かに、火霊の制御が苦手らしい赤の王にはできなさそうな芸当だ。
「それで、どうする?」
「え、っと……?」
「あの砂兎料理が気になったんだろう? 買って食うのか?」
「あ、じゃあ、折角なので……」
別にお腹が空いていた訳ではなく、単純に魔法で食材を捌いている様が珍しくて見ていただけだったのだが、そういう流れになってしまったので取り敢えず頷いておく。そのまま財布を取り出そうとした少年だったが、アグルムがその手をそっと抑えた。
僅かに肩を震わせた少年に、申し訳なさそうな顔をしたアグルムが手を離す。
「すまない。咄嗟に手が出てしまった」
「い、いえ、あの、……すみません……」
「いや、口で言えば良かったな。金を出す必要はない。ここは俺が支払う」
その申し出に、少年が慌てて首を横に振る。
「いえ、あの、これくらい自分で払いますので……」
「客人に払わせる訳にはいかない。大丈夫だ。経費で落とす」
「ええ……」
こんなことで経費を使って大丈夫なのか、と思った少年だったが、ここ数日のアグルムを見る限り、彼はかなりの頑固者である。断ろうとしたところで、きっと徒労に終わるのだろう。
仕方なくアグルムの申し出を受けた少年は、しかし渡された砂兎のスープを口にした途端、思わず頬が緩んでしまった。辛めのスパイスが効いたスープと砂兎の甘い肉との組み合わせが、思った以上に美味しかったのだ。野菜も長時間煮込まれているのか、口に入れた瞬間にとろけるようだった。
「あの、とても美味しいです。ありがとうございます」
「そうか。それは良かった」
結局、おやつにしては少々重めなスープを綺麗に平らげてしまった少年は、その後もアグルムに連れられて様々な商店を巡り、リィンスタット王国を堪能したのであった。
黄の王がそれを言い出したとき、リァンはとても不服そうに唸っていたのだが、王が半ば無理矢理説得してくれたため、こうして大人しく少年に付き合ってくれている。
勿論少年は、高貴な王獣様にさせることではないと断ったのだが、どうやら黄の王自身、赤の王から頼まれたことだったらしく、ここでお前に断られるとリィンスタット王としての面子が丸潰れだと言い募られ、丸め込まれてしまったのだった。
そんなことを言われても、乗り気ではなさそうな王獣の時間を貰ってスケッチをするなんて天罰がくだりそうだ、と尻込みしていた少年だったが、いざスケッチブックと向き合えば、そんな心配はすっかり忘れて筆を走らせることに集中してしまった。王獣たるリァンの美しさは、少年の心を奪うのに十分だったのだ。
少年のストールから這い出たティアが王獣によじ登って、その背をぺちんぺちんと叩き出したときはさすがに肝を冷やしたが、それ以外は至って平穏な時が過ぎていった。
基本的に常に少し離れた場所に控えているアグルムも、少年のことを気遣ってか、必要以上に存在感を出すことはなかったし、少年からすれば至れり尽くせりな環境である。それがまた罪悪感を煽ってくるのだが、そこはまあ卑屈な少年の特性なので仕方がないだろう。
ほぼ天頂にあった日がやや傾き始めた頃、ようやくスケッチを終えた少年が、ふぅと息を吐いて筆を置く。王獣の姿を見る機会などなかなかないので、思わず時間をかけて丁寧に描いてしまった。だが、その分自分でもかなり満足のいくものが仕上がったので、良しとしよう。そう思って少しだけ頬を緩めた少年が、スケッチブックを閉じる。そして立ち上がった彼は、王獣に向かって深々と頭を下げた。
「お時間を取らせてしまって申し訳ありません。ありがとうございました」
そう礼をすれば、王獣はちらりと少年に視線を向けてから、地を蹴ってどこかへと飛んで行ってしまった。一瞬、怒らせてしまっただろうかと心配になった少年だったが、リィンスタットの王獣はドライな性格だと聞いているから、あれが素なのだろうと思い直す。
「……怒らせちゃった訳じゃ、ないよね……?」
恐る恐るそう呟けば、ストールからひょっこりと顔を出したトカゲが、こくこくと頷く。上位の幻獣であるらしいこの炎獄蜥蜴は王獣の言葉が判るようなので、彼がそう言うのなら、実際そうなのだろう。
そう考えて少しだけほっとした少年に、後ろに控えていたアグルムも頷く。
「リァン様は陛下と違って不必要に愛想をばら撒く方ではないからな。興味がない相手にはいつもあんな感じだ」
「あ、やっぱりそうなんですね……」
黄の王に対するトゲを感じる言い方だな、と思った少年だったが、それについてはコメントしないでおいた。なんとなく、赤の国の宰相を思い出したのだ。
(……きっと、どこの国の王様も、家臣に迷惑掛けてるんだろうな……)
これまた、北方国の王が聞いたら怒りそうな感想である。事実、金の国以外の南方国と黒の国はその気が非常に強いが、北方国と白の国の国王は、家臣の胃を痛めるような真似はしない。
「それで、この後はどうする?」
「え、あ、えっと……」
特に何もやる予定がない少年が言い淀んでいると、アグルムが少しだけ目を細めた。
「……城下にでも出掛けてみるか?」
その提案に、少年が少しだけ驚いた顔をする。
「え、で、でも、僕が外に出るのは、あまり良くないんじゃ……」
王宮内は兵も多く安全だが、城下街となるとそうはいかない。それに、人の多い場所に行けば行くほど護衛もしにくくなるだろう。少年の置かれた状況を考えれば、このまま王宮に留まって動くべきではない筈だ。
そう思った少年だったが、アグルムは首を横に振った。
「王宮にずっとこもっていても暇だろう。それに、陛下はお前を監禁したいと思っている訳ではないんだ。だから、こちらの護衛の手が回る範囲でなら、好きに出掛けてくれて構わない。勿論、一人で何処かへ行かせる訳にはいかないし、あまり遠くへ行かせる訳にもいかないんだが」
その点については悪いと思っている、と謝罪してきたアグルムに、少年が慌てて首を横に振る。
少年からすれば、その心遣いすら過剰なほどである。本来であればやはり少年を王宮に閉じ込めておくのが最善の策だろうに、できるだけ自由を与えようとしてくれているのだ。感謝こそすれ、責めようなどという気が起きるはずもない。
しどろもどろにそう伝えれば、アグルムは少年のストールから顔を出しているトカゲに視線をやった。
「感謝するなら、グランデル王陛下にしろ。炎獄蜥蜴がいなければ、お前を王宮の外に出す訳にはいかなかっただろう」
「……あ、あの、炎獄蜥蜴って、やっぱりそんなに凄いんですか……?」
お日様を浴びてころんころんと転がっている姿を思い出すと、とてもそうとは思えないが、確かに砂蟲に対して噴射した炎は凄まじかった。
そんな少年の問いに、アグルムが怪訝そうな顔をする。
「お前、炎獄蜥蜴がどういうものかも知らないで飼っているのか」
「う……、す、すみません……」
うなだれた少年の頬に、トカゲがすりすりと鼻先を擦りつける。どうやら慰めようとしているらしい。
「別に謝る必要はない。……そうだな、判りやすく言うと、炎獄蜥蜴が本気を出せば、街半分くらいの広さなら焼け野原にすることができる」
「ま、街半分!?」
確か、グレイから教わった極限魔法の規模が、街ひとつ分くらいだった筈だ。となると、炎獄蜥蜴はその半分程度の威力を発揮できるということになる。極限魔法を使えるのが四大国の国王しかいない事を考えると、これはかなり凄いことなのではないだろうか。
「炎獄蜥蜴は炎しか扱えないから水系統の相手とは相性が悪いが、それでも幻獣としては破格の生き物だ。たった一人の人間につける護衛として、これ以上はないだろう。……グランデル王陛下は、相当過保護なお方なんだな」
その言葉に、少年がトカゲを見る。視線を受けて、こてんと首を傾げたトカゲは、とてもではないがそんなに凄い生き物には見えなかった。
「……ティ、ティアくんて、本当に凄い子だったんだね……」
そう言った少年に、トカゲはやはり首を傾げただけだった。本人にはあまりその自覚がないのかもしれない。
「という訳で、こいつと俺がいれば、城下に出るくらいならば問題はない。……どうする?」
少年は別に、外に出たいとは思わない。元々王宮に閉じこもることになるだろうと覚悟していたのだし、それを不自由だとも思わなかった。だが、だからといって国王やアグルムの気遣いを断るのは、気が引けるというものである。
「……あの、じゃあ、折角なので、お願いしても良いですか……?」
「勿論だ。それでは早速出掛けるとしよう。……ティア、だったか。お前の力にも期待しているからな。こいつの護衛として、よろしく頼む」
アグルムの言葉に、トカゲが任せろと言わんばかりに胸を張る。
こうして、二人と一匹は城下へと足を運ぶことになったのだった。
騎獣に運ばれ、城下の商店街へとやってきた少年は、活気溢れる街並みに圧倒された。金の国の商店も賑やかではあったが、ここ黄の国の商店は賑わいの方向性が違うのだ。金の国よりも、もっとずっと親しみやすいというか、とても庶民的な印象を受ける。店はしっかりとした家屋の内部に構えられているものよりも、地面に直接敷かれた布の上に商品が並べられた、露店のような様相のものが多い。照り付ける陽光から身を守るように、屋根代わりの布が張られてはいるが、どちらかというと簡素な店構えである。
だが、少年なりに職人として目利きしてみれば、売られている品の質が低いということはないと判った。王宮までの道中で見た店もやはりこういう造りをしていたから、この国の店ではこういうスタイルが一般的で、それは首都でも変わらないということなのだろう。
(それにしても、見たことがない品がたくさんあるな……)
旅の途中ではあまり見る時間がなかったが、こうして改めて眺めてみると、金の国ではあまり目にすることのない品が結構並んでいる。金の国の貿易祭では、希少価値の高いものや汎用性のあるものが優先的に仕入れられるため、各国の庶民的な特産品というのは意外と出回らないものなのだ。
色々と面白いものはあったが、特に少年の目を引いたのは、店先で調理工程自体を見世物に客寄せをしている料理店だった。雷魔法らしきもので食材である砂兎を華麗に捌き、スパイスの香りが強く漂うスープへと入れていく様子は、まるでショーを見ているような気分にさせる。
(……でも、あの雷魔法、なんかどこかで見たような気が……)
じっと調理ショーを見ている少年に気づいたアグルムが、ああ、と呟いた。
「“雷の包丁”か」
「とる、ぴさう?」
「てっとり早く食材を切り分けるための雷魔法だ。この前陛下がザナブルムに対して使った筈だが、見ていなかったのか?」
言われ、記憶を探った少年だったが、スロニアの街で黄の王が繰り出した魔法と店先で食材を切っている魔法とが同じ物だとは到底思えない。
「……お、同じ魔法、なんですか……?」
恐る恐るといった風にそう尋ねれば、アグルムが頷く。
「“雷の包丁”は、食材それぞれに適した切り分けをする雷魔法だ」
「しょ、食材に適した……」
「砂兎なら、胸肉、もも肉、すね肉、といったように部位分けされるし、魚なら基本的には三枚おろしにされる」
「す、すごいですね……」
あの短い呪文の中に一体どれだけの情報が詰まっているのだろうか、という少年の疑問を察したのか、アグルムが再び口を開く。
「陛下が、火霊と風霊に代表的な食材の扱いを覚え込ませたんだ。だから、火霊と風霊が勝手に判断してくれる」
「…………ええと……?」
言っている意味が判らなくて思わず聞き返した少年に、アグルムは少しだけ不思議そうな顔をした。
「まさかお前、知らないのか? リィンスタット王国のクラリオ王と言えば、次々と新しい魔法を開発していることで有名だと思うんだが」
「そ、そうなんですか……?」
隣国のことすらよく知らない少年が、更に離れた黄の国のことなど知る筈もない。冗談抜きで初耳だった少年が驚けば、アグルムは呆れたような顔をしてから、それでも話を続けてくれた。
「トル・シリーズと言ってな。頭にトルがつく魔法は全て、うちの陛下が新しく創った魔法だ。例えば“雷の包丁”なら、こういう料理屋用に開発された料理魔法だな。うちの国では店先で調理の様子を見せる形式の店が多いから、そういう場で使えるだろうと思って創ったらしい。だから、本来はザナブルムに使うような魔法ではないんだが……」
まあ、目立ちたかったんだろうな、と続いた言葉に、少年は内心で、ああ、と呟いた。確かにあの王様ならあり得ることだな、と思ったのだ。
「陛下だから問題はなかったが、生半可な人間がザナブルム相手にあの魔法を使えば、それこそ魔力を根こそぎ持っていかれるだろう。“雷の包丁”は、使用対象に応じて消費魔力も変動する魔法だからな」
人間を丸呑みにできそうな巨大な生物相手に使ったならば、当然消費魔力も桁違いに大きいのだろう、と少年は思った。そしてそれをなんでもないことのようにやってのけてしまうあたり、国王というのはやはり規格外らしい。
だが、実力者であればあるほど呪文や詠唱の類を必要とせず、ときには精霊の名前を呼ぶだけで魔法を発動できると聞いていたが、どうして黄の王はわざわざ魔法を新たに確立しているのだろうか。王であれば、要点を言うだけで同様の現象を引き起こせそうなものだが。
抱いた疑問を素直に口にすれば、アグルムはそれにもきちんと答えてくれた。
「確かに陛下ならば、わざわざひとつの魔法として確立する必要はないのだろうが、それでは陛下以外が使えないからな。きっと、自分だけの魔法を作りたいのではなく、この国の魔法自体の底上げを考えているんだろう。……ああ見えて、お優しい方なんだ」
「そうなんですね……」
「あとは、単純に魔法として確立した方が効率が良い。いちいち要点を説明するよりも、呪文ひとつで発動できる方が早いだろう?」
「あ、はい、確かに。……でも、それなら他の王様もそうしていてもおかしくないと思うのですが……?」
当然の疑問に、アグルムは肩を竦めた。
「新しい魔法を確立するためには、相当な根気がいるんだ。なにせ、全ての精霊に現象についての共通認識を持って貰う必要があるからな。かなり高度な説明力と、精霊が飽きずに話を聞き続けてくれるようにするための工夫がいる。クラリオ王陛下は、そのあたりの才能がずば抜けていたんだろう」
どうやら、魔法に優れていれば誰でもできる、というものではないらしい。確かに、火霊の制御が苦手らしい赤の王にはできなさそうな芸当だ。
「それで、どうする?」
「え、っと……?」
「あの砂兎料理が気になったんだろう? 買って食うのか?」
「あ、じゃあ、折角なので……」
別にお腹が空いていた訳ではなく、単純に魔法で食材を捌いている様が珍しくて見ていただけだったのだが、そういう流れになってしまったので取り敢えず頷いておく。そのまま財布を取り出そうとした少年だったが、アグルムがその手をそっと抑えた。
僅かに肩を震わせた少年に、申し訳なさそうな顔をしたアグルムが手を離す。
「すまない。咄嗟に手が出てしまった」
「い、いえ、あの、……すみません……」
「いや、口で言えば良かったな。金を出す必要はない。ここは俺が支払う」
その申し出に、少年が慌てて首を横に振る。
「いえ、あの、これくらい自分で払いますので……」
「客人に払わせる訳にはいかない。大丈夫だ。経費で落とす」
「ええ……」
こんなことで経費を使って大丈夫なのか、と思った少年だったが、ここ数日のアグルムを見る限り、彼はかなりの頑固者である。断ろうとしたところで、きっと徒労に終わるのだろう。
仕方なくアグルムの申し出を受けた少年は、しかし渡された砂兎のスープを口にした途端、思わず頬が緩んでしまった。辛めのスパイスが効いたスープと砂兎の甘い肉との組み合わせが、思った以上に美味しかったのだ。野菜も長時間煮込まれているのか、口に入れた瞬間にとろけるようだった。
「あの、とても美味しいです。ありがとうございます」
「そうか。それは良かった」
結局、おやつにしては少々重めなスープを綺麗に平らげてしまった少年は、その後もアグルムに連れられて様々な商店を巡り、リィンスタット王国を堪能したのであった。
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