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一 幸せな日常
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爽やかな初夏の雨上がり。木漏れ日の煌めくリビングで、クリュアは、口をへの字に曲げて仁王立ちし、赤茶の三つ編みを怒りに震わせていた。
何故ならクリュアが昨夜ベッドに引き上げる前までは綺麗に整えられていたはずのリビングが、グチャグチャのドロドロだったからだ。
立ちこめるのは、新緑の薫りでもパンの香ばしい匂いでもなく、タバコと、血と、野良犬のような汗臭さ。
泥と血に汚れた白衣が椅子の背もたれにぐしゃりと掛けられ、吸いかけの紙タバコが灰皿に放置されたまま燃え尽きている。床には脱ぎ捨てられた泥だらけの靴と靴下、何かの薬瓶、試験管、書類がはみ出した黒革の鞄。テーブルの上どころか床にまで無造作に積まれた本や紙の山。泥だらけの足跡。
クリュアの青空色の目が、不機嫌に細まる。
ぶち切れそうになるクリュアはきっと悪くない。悪くないはずだ。
「……お兄ちゃんの阿呆んだら」
昨日の夜、片付けの苦手なクリュアが苦労して、やっとやっと片付けたばっかりなのに。お兄ちゃん――カイリが帰ってきたとたん、リビングは一晩で滅茶苦茶だ。
でも、ここで怒鳴り散らかしてもリビングは綺麗にならない。
クリュアは冷蔵庫にあったミカンジュースをカップに注ぎ、ググッと一気飲みすると一緒に怒りを飲み込んだ。カップを乱暴に置く音がダンッと響いたけれど、それくらいは許して欲しい。
文句もため息も、カイリが起きるまでいったんは棚の上に放り上げることにして、窓を開けて空気を通し、ゴミを分別し、テーブルを拭くことにした。
元々クリュアは、考えるよりも動く方が得意だ。
点々と落ちている靴と靴下を拾っていくと、ソファから投げ出された足の裏が目に入った。いつものようにカイリが白衣を脱いだままの格好で、ソファの背もたれに頭を預け、のけぞるように寝ていた。
髭はのびっぱなしで、頬はどことなく痩けている。目の下には深い隈。シャツには何かの血と泥汚れ。ズボンもシワシワで、髪は焦げ茶色だ鳥の巣みたいにグチャグチャ。手には何かの書類を握ったままだ。
「お兄ちゃんてば、お風呂にも入らないで寝落ちしたなこりゃ」
眉を寄せて口を尖らせながら、クリュアはカイリの顔をのぞき込み、じとっと睨んだ。
カイリは軽くいびきを掻きながら、片方の眉毛だけが時々ピクピクと動く。
両親の死後、男手一人でクリュアを育ててくれた兄ではあるが、もうちょっと自分の体を労れ、そしてその半分で良いから妹の手間を減らそうと努力しろよ馬鹿兄、とクリュアは心の中で毒づいた。
過労気味な兄には、直接言えないけれど。いや言いたい。
ドロドロの床を雑巾で拭いてはバケツで絞っていると、玄関のチャイムが鳴った。
ドアの向こうには、幼馴染みのソラが大きな布袋をぶら下げて立っていた。
黒髪に黒目、前髪が長くて表情が分かりにくい。ソラの身長はクリュアとほとんど同じ。よく見ると整った輪郭と涼しげな鼻筋が覗き、実はかなりのイケメンだが、本人は多分気付いてすらいない。
ソラはクリュアを見るなり、ぶっきらぼうに言う。
「ほらこれ、うちの畑で取れたヤツ。……別に、余ったから持ってきただけだし、お返しとかいいよ。今度、手伝いに来ればそれで」
「ありがとう、ソラ。ちょうど今、そろそろ朝ご飯作ろうと思ってたところなんだ」
クリュアの声は弾んだ。ソラの家は果樹と野菜を育てている農家で、大家族皆で協力して育てている野菜はとびきり美味しい。
ソラの口調はいつものことで、クリュアはもう慣れっこなのでいちいちとがめたりはしない。まあ、たまに、いやちょくちょく腹が立つことはあるけれど。
ソラは無言でリビングを覗き込み、ソファで寝ているカイリを見つけると、くくっと笑った。
「……カイ兄ちゃん、相変わらずだね。雑巾みたい。ちゃんと社会人できてんの、これ」
「何てこと言うのよ、ソラ。お兄ちゃんは忙しいの」
前言撤回。兄の文句も悪口も、自分が言う分には構わないけれど、人に言われると腹が立つ。クリュアはむっとして言い返した。
ソラは肩をすくめ、布袋を台所に置くと、勝手知ったるなんとやら、冷蔵庫を開けて野菜をしまい始めた。
「どうせまた昨夜も遅かったんでしょ。そのうち倒れんじゃないの」
「そうだね……お兄ちゃん、昨日も帰ってきたの明け方近かったみたいだから」
ソラはクリュアの横顔をちらりと見て、わざとらしくため息をついた。
「……あーあ、たった一人の家族がこんだけ生活能力皆無だと、クリュアも苦労するよねぇ」
「ソラに言われる筋合いないし」
クリュアは頬を膨らませたけれど、ソラがクリュアを心配してくれていることは一応分かっていた。言い方が素直じゃないだけだ。でもやっぱり腹は立つ。
「朝飯、まだなんでしょ? ……ほら、卵貸しなよ。僕が作る」
「え、いいの? ありがと。ソラ大好き。私、タマネギと豆のオムレツがいいな!」
ソラは一瞬固まった後、顔をそむけて、エプロンを手に取った。
「……別に、クリュアの好物だから作るわけじゃないし」
クリュアは小さく笑いながら、ソラの横でタマネギを剥き、刻み始める。
素直じゃないなぁ、などと思いながら。
そのとき、ソファの上でカイリが寝返りを打った。
「……クリュア、ソラ……静かに……もうちょい寝かせろって……」
寝起きの悪さ丸出しの声に、クリュアもソラも思わず顔を見合わせて笑ってしまった。
「お兄ちゃん、ベッドで寝直せば?」
「……何時だ、今?」
カイリは髪をかきむしりながら、顔をしかめ部屋を見回した。
寝不足と疲れに充血した、灰色がかった青い目が、時計に止まって『ゲッ』と言いたげに見開かれた。
「……もうこんな時間か。朝飯、すぐ食えるか?」
「今、作ってるから。起きるなら顔洗ってきなよ、お兄ちゃん。泥ついてる」
「……へぇへぇ」
カイリは立ち上がると、ふらふらと洗面所へ向かった。
その背中を見送りながら、ソラが小声で呟く。
「カイ兄ちゃん、ほんとに大丈夫なの? あの見た目、野良犬よりひどいよ」
「野良犬って。お兄ちゃん、最近仕事大変なんだよ」
「カイ兄ちゃん、獣医でしょ? 国境砦に行ってるのは知ってるけど……軍の馬とか診てるんでしょ? ここんとこ小競り合いとかも聞かないのに、なんであんなにボロボロなわけ? 毎回暴れる馬がいるとか?」
「獣医は獣医でも、治療するような臨床医じゃなくて、検疫官だよ。国境を越えて移動する動物が、何か病気とか持ってないか検査する仕事」
「いやそっちのほうがなんでだよ。普通、輸送される動物って檻に入ってるでしょ。血が付くような商売じゃないと思うんだけど」
「動物は人間みたいに大人しく診させてくれないし、検疫用のサンプルを採取するのも一苦労で、動物が暴れれば怪我することも、怪我させちゃうこともあるんだってお兄ちゃん言ってた。とにかくここ三ヶ月くらい、凄い忙しいみたい。お兄ちゃんが検疫官になるって聞いたときは、公務員だし、安定してるし、私も大賛成だったんだけど……」
クリュアが小さい頃に亡くなった両親も、獣医で検疫官だった。男手ひとつでクリュアを育てながら獣医の勉強をしていたカイリが、難しい試験に合格して検疫官になると聞いたときには、「お兄ちゃんすごい、すごーい!」とクリュアも無邪気に喜んだものだった。でも。
ソラはしばらく黙っていたが、やがてぽつりと呟いた。
「……無理しすぎないでよね、クリュア。何かあったら、僕がいるから」
「うん。ありがと、ソラ。頼りにしてる」
クリュアはくしゃりと笑った。
クリュアを見ていた長い前髪の奥のソラの目は、少し見開かれた後に手元へとずれ――ひょい、と具だくさんのオムレツを綺麗にひっくり返した。
しばらくしてカイリが洗面所から戻ってきた。
「……飯」
「お兄ちゃん、手も洗った?」
「洗った洗った」
ソラが焼いたオムレツと、クリュアが作った葉物野菜とトマトのサラダ、買い置きのパンをテーブルに並べると、カイリは黙って席についた。
クリュアとソラも向かい合って座る。
「「「いただきます」」」
パン、と手を合わせ、三人の声が重なる。
「お兄ちゃん、今日も仕事行くの?」
「うん……食ったら行く」
「働き過ぎじゃない? 体壊したら元もこうもないんだから、ちゃんと休みをもぎ取って来てよね。で、休んだらこの本の山も片付けてよ?」
カイリは苦笑を浮かべる。
「しっかり者に育ってくれて兄ちゃんは嬉しいよ」
ソラはわざとらしく明後日の方を向いて、ぼそりと言った。
「……しっかり者じゃなかったら、カイ兄ちゃんと暮らすなんて無理でしょ」
「ソラってば一言多い」
クリュアがソラを睨むと、カイリが笑った。
「いやあ、あんなにちっちゃかったソラも随分料理が上手くなったな。これならいつ嫁に来てもいいぞ」
「ハァ!? カイ兄ちゃんの嫁とかごめんだし!」
「誰が俺のっつったよ。クリュアの嫁だよクリュアの」
ブッ、とソラがお茶を吹き出し、背中を丸めて咽せ始めた。
「ちょっ、お兄ちゃんてば。ソラは男の子だってば。いっくらちっちゃいからってからかわないの!」
ソラの背中をさすりながらカイリに文句を言うクリュアを、ソラが恨めしげに見上げていることに、クリュア本人は気付かない。
「ははっ、そうだなぁ、まだちっちゃかったか」
「ちっちゃくなんかないし。もう、クリュアと同じくらいになったし。来年にはゼッタイ越えるし」
「……何か言った?」
ぼそぼそと言うソラにクリュアが首を傾げると、ソラはプイッと顔を逸らし、なぜかカイリが爆笑した。
いつもの風景、いつもの会話。
何気ない幸せが、じつはすぐに壊れる薄氷のようなものだったと、この時のクリュアはまだ知るよしもなかった。
◇◇◇
牛小話・あけましておめでとうございます。
「鍛冶見習い」を読んでいた方にはおなじみ
うちの犬が散歩で見つけたシリーズ
・イノシシの耳 ・何かのデカイ骨 ・猫の足 ・鹿の足 ・何かのデカイ背骨(new)
・アライグマ(?)の足(new) ・何かの毛皮と生々しい鹿の足(new) ・丸っこい骨(new)
何故ならクリュアが昨夜ベッドに引き上げる前までは綺麗に整えられていたはずのリビングが、グチャグチャのドロドロだったからだ。
立ちこめるのは、新緑の薫りでもパンの香ばしい匂いでもなく、タバコと、血と、野良犬のような汗臭さ。
泥と血に汚れた白衣が椅子の背もたれにぐしゃりと掛けられ、吸いかけの紙タバコが灰皿に放置されたまま燃え尽きている。床には脱ぎ捨てられた泥だらけの靴と靴下、何かの薬瓶、試験管、書類がはみ出した黒革の鞄。テーブルの上どころか床にまで無造作に積まれた本や紙の山。泥だらけの足跡。
クリュアの青空色の目が、不機嫌に細まる。
ぶち切れそうになるクリュアはきっと悪くない。悪くないはずだ。
「……お兄ちゃんの阿呆んだら」
昨日の夜、片付けの苦手なクリュアが苦労して、やっとやっと片付けたばっかりなのに。お兄ちゃん――カイリが帰ってきたとたん、リビングは一晩で滅茶苦茶だ。
でも、ここで怒鳴り散らかしてもリビングは綺麗にならない。
クリュアは冷蔵庫にあったミカンジュースをカップに注ぎ、ググッと一気飲みすると一緒に怒りを飲み込んだ。カップを乱暴に置く音がダンッと響いたけれど、それくらいは許して欲しい。
文句もため息も、カイリが起きるまでいったんは棚の上に放り上げることにして、窓を開けて空気を通し、ゴミを分別し、テーブルを拭くことにした。
元々クリュアは、考えるよりも動く方が得意だ。
点々と落ちている靴と靴下を拾っていくと、ソファから投げ出された足の裏が目に入った。いつものようにカイリが白衣を脱いだままの格好で、ソファの背もたれに頭を預け、のけぞるように寝ていた。
髭はのびっぱなしで、頬はどことなく痩けている。目の下には深い隈。シャツには何かの血と泥汚れ。ズボンもシワシワで、髪は焦げ茶色だ鳥の巣みたいにグチャグチャ。手には何かの書類を握ったままだ。
「お兄ちゃんてば、お風呂にも入らないで寝落ちしたなこりゃ」
眉を寄せて口を尖らせながら、クリュアはカイリの顔をのぞき込み、じとっと睨んだ。
カイリは軽くいびきを掻きながら、片方の眉毛だけが時々ピクピクと動く。
両親の死後、男手一人でクリュアを育ててくれた兄ではあるが、もうちょっと自分の体を労れ、そしてその半分で良いから妹の手間を減らそうと努力しろよ馬鹿兄、とクリュアは心の中で毒づいた。
過労気味な兄には、直接言えないけれど。いや言いたい。
ドロドロの床を雑巾で拭いてはバケツで絞っていると、玄関のチャイムが鳴った。
ドアの向こうには、幼馴染みのソラが大きな布袋をぶら下げて立っていた。
黒髪に黒目、前髪が長くて表情が分かりにくい。ソラの身長はクリュアとほとんど同じ。よく見ると整った輪郭と涼しげな鼻筋が覗き、実はかなりのイケメンだが、本人は多分気付いてすらいない。
ソラはクリュアを見るなり、ぶっきらぼうに言う。
「ほらこれ、うちの畑で取れたヤツ。……別に、余ったから持ってきただけだし、お返しとかいいよ。今度、手伝いに来ればそれで」
「ありがとう、ソラ。ちょうど今、そろそろ朝ご飯作ろうと思ってたところなんだ」
クリュアの声は弾んだ。ソラの家は果樹と野菜を育てている農家で、大家族皆で協力して育てている野菜はとびきり美味しい。
ソラの口調はいつものことで、クリュアはもう慣れっこなのでいちいちとがめたりはしない。まあ、たまに、いやちょくちょく腹が立つことはあるけれど。
ソラは無言でリビングを覗き込み、ソファで寝ているカイリを見つけると、くくっと笑った。
「……カイ兄ちゃん、相変わらずだね。雑巾みたい。ちゃんと社会人できてんの、これ」
「何てこと言うのよ、ソラ。お兄ちゃんは忙しいの」
前言撤回。兄の文句も悪口も、自分が言う分には構わないけれど、人に言われると腹が立つ。クリュアはむっとして言い返した。
ソラは肩をすくめ、布袋を台所に置くと、勝手知ったるなんとやら、冷蔵庫を開けて野菜をしまい始めた。
「どうせまた昨夜も遅かったんでしょ。そのうち倒れんじゃないの」
「そうだね……お兄ちゃん、昨日も帰ってきたの明け方近かったみたいだから」
ソラはクリュアの横顔をちらりと見て、わざとらしくため息をついた。
「……あーあ、たった一人の家族がこんだけ生活能力皆無だと、クリュアも苦労するよねぇ」
「ソラに言われる筋合いないし」
クリュアは頬を膨らませたけれど、ソラがクリュアを心配してくれていることは一応分かっていた。言い方が素直じゃないだけだ。でもやっぱり腹は立つ。
「朝飯、まだなんでしょ? ……ほら、卵貸しなよ。僕が作る」
「え、いいの? ありがと。ソラ大好き。私、タマネギと豆のオムレツがいいな!」
ソラは一瞬固まった後、顔をそむけて、エプロンを手に取った。
「……別に、クリュアの好物だから作るわけじゃないし」
クリュアは小さく笑いながら、ソラの横でタマネギを剥き、刻み始める。
素直じゃないなぁ、などと思いながら。
そのとき、ソファの上でカイリが寝返りを打った。
「……クリュア、ソラ……静かに……もうちょい寝かせろって……」
寝起きの悪さ丸出しの声に、クリュアもソラも思わず顔を見合わせて笑ってしまった。
「お兄ちゃん、ベッドで寝直せば?」
「……何時だ、今?」
カイリは髪をかきむしりながら、顔をしかめ部屋を見回した。
寝不足と疲れに充血した、灰色がかった青い目が、時計に止まって『ゲッ』と言いたげに見開かれた。
「……もうこんな時間か。朝飯、すぐ食えるか?」
「今、作ってるから。起きるなら顔洗ってきなよ、お兄ちゃん。泥ついてる」
「……へぇへぇ」
カイリは立ち上がると、ふらふらと洗面所へ向かった。
その背中を見送りながら、ソラが小声で呟く。
「カイ兄ちゃん、ほんとに大丈夫なの? あの見た目、野良犬よりひどいよ」
「野良犬って。お兄ちゃん、最近仕事大変なんだよ」
「カイ兄ちゃん、獣医でしょ? 国境砦に行ってるのは知ってるけど……軍の馬とか診てるんでしょ? ここんとこ小競り合いとかも聞かないのに、なんであんなにボロボロなわけ? 毎回暴れる馬がいるとか?」
「獣医は獣医でも、治療するような臨床医じゃなくて、検疫官だよ。国境を越えて移動する動物が、何か病気とか持ってないか検査する仕事」
「いやそっちのほうがなんでだよ。普通、輸送される動物って檻に入ってるでしょ。血が付くような商売じゃないと思うんだけど」
「動物は人間みたいに大人しく診させてくれないし、検疫用のサンプルを採取するのも一苦労で、動物が暴れれば怪我することも、怪我させちゃうこともあるんだってお兄ちゃん言ってた。とにかくここ三ヶ月くらい、凄い忙しいみたい。お兄ちゃんが検疫官になるって聞いたときは、公務員だし、安定してるし、私も大賛成だったんだけど……」
クリュアが小さい頃に亡くなった両親も、獣医で検疫官だった。男手ひとつでクリュアを育てながら獣医の勉強をしていたカイリが、難しい試験に合格して検疫官になると聞いたときには、「お兄ちゃんすごい、すごーい!」とクリュアも無邪気に喜んだものだった。でも。
ソラはしばらく黙っていたが、やがてぽつりと呟いた。
「……無理しすぎないでよね、クリュア。何かあったら、僕がいるから」
「うん。ありがと、ソラ。頼りにしてる」
クリュアはくしゃりと笑った。
クリュアを見ていた長い前髪の奥のソラの目は、少し見開かれた後に手元へとずれ――ひょい、と具だくさんのオムレツを綺麗にひっくり返した。
しばらくしてカイリが洗面所から戻ってきた。
「……飯」
「お兄ちゃん、手も洗った?」
「洗った洗った」
ソラが焼いたオムレツと、クリュアが作った葉物野菜とトマトのサラダ、買い置きのパンをテーブルに並べると、カイリは黙って席についた。
クリュアとソラも向かい合って座る。
「「「いただきます」」」
パン、と手を合わせ、三人の声が重なる。
「お兄ちゃん、今日も仕事行くの?」
「うん……食ったら行く」
「働き過ぎじゃない? 体壊したら元もこうもないんだから、ちゃんと休みをもぎ取って来てよね。で、休んだらこの本の山も片付けてよ?」
カイリは苦笑を浮かべる。
「しっかり者に育ってくれて兄ちゃんは嬉しいよ」
ソラはわざとらしく明後日の方を向いて、ぼそりと言った。
「……しっかり者じゃなかったら、カイ兄ちゃんと暮らすなんて無理でしょ」
「ソラってば一言多い」
クリュアがソラを睨むと、カイリが笑った。
「いやあ、あんなにちっちゃかったソラも随分料理が上手くなったな。これならいつ嫁に来てもいいぞ」
「ハァ!? カイ兄ちゃんの嫁とかごめんだし!」
「誰が俺のっつったよ。クリュアの嫁だよクリュアの」
ブッ、とソラがお茶を吹き出し、背中を丸めて咽せ始めた。
「ちょっ、お兄ちゃんてば。ソラは男の子だってば。いっくらちっちゃいからってからかわないの!」
ソラの背中をさすりながらカイリに文句を言うクリュアを、ソラが恨めしげに見上げていることに、クリュア本人は気付かない。
「ははっ、そうだなぁ、まだちっちゃかったか」
「ちっちゃくなんかないし。もう、クリュアと同じくらいになったし。来年にはゼッタイ越えるし」
「……何か言った?」
ぼそぼそと言うソラにクリュアが首を傾げると、ソラはプイッと顔を逸らし、なぜかカイリが爆笑した。
いつもの風景、いつもの会話。
何気ない幸せが、じつはすぐに壊れる薄氷のようなものだったと、この時のクリュアはまだ知るよしもなかった。
◇◇◇
牛小話・あけましておめでとうございます。
「鍛冶見習い」を読んでいた方にはおなじみ
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・イノシシの耳 ・何かのデカイ骨 ・猫の足 ・鹿の足 ・何かのデカイ背骨(new)
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