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5巻
5-3
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04 レベル1000の壁
……気持ち悪い。
湧き出る吐き気を、リリは胃を押さえてなんとか耐えていた。体の芯が熱くて、体中が怠い。
空中を無限に駆ける風竜は、三半規管が異常に強く、どんな嵐の小舟に乗っていても、魔物にまたがっていても酔うことはないので、振り回されていることによる車酔いではない。
リリにはこの感覚に覚えがあった。ずっと昔、父に連れられ魔獣狩りをしていた頃の記憶だ。具合の悪くなったリリを、父はいつも背中におぶって帰ってくれた。
これは、レベルアップ酔い。急激なレベルアップに体が順応しきれない、拒絶反応だ。
「ピューーィィ――……」
必死に吐き気をこらえ、『風ごろも』の魔法を維持する。魔法が途切れたら、ノアは確実に遅くなる。今戦っている高位風竜に届かなくなる。
補助をしているだけのリリが吐くほどの経験値を得ているのに、楽しそうに戦っている当の本人は平気なのだろうか。
『白南風、黒南風、小僧の剣を折れ!』
風竜王の声が響いた。
ノアの剣が体力を吸収する剣だと気が付いたのだろうけれど、剣を狙っても無駄だ。リリの空間収納には、上出来不出来を合わせて五十近い『真祖の剣』が入っている。
ノアが、ここまで二千以上の風竜のしっぽを落とすのに使った剣は五本。たとえ風竜全て一万頭が出て来たところで、必要なのは二十数本。
リリはリュックの中に入っていた金槌の柄を握りしめた。
この金槌の柄は高位竜の骨で出来ている。竜の骨というのは高度な魔力の循環器官で、自分の魔力を加え廻らせることで、本来の容量を遥かに超える魔力を使えるようになる。
そもそも風竜が常にまとっている『風ごろも』は、難易度の割に消費魔力は少ない。リリが吐き気を我慢さえ出来れば、ノアはきっと一万頭の風竜にだってきっと勝てる。
……でも、なんだか羽がぞわぞわする。全身の毛を逆なでされているみたいな感覚。むず痒くて、思わず暴れ出したいような、頭を掻きむしりたいような。ダメ、集中を途切れさせちゃ……
――……そう、手の甲に爪を立てた次の瞬間。
カクッ、とノアの体から力が抜けた。まるで糸が切れたマリオネットのように。空中にいたノアの体は、そのまま落下を始める。
「ノアっっっ!?」
悲鳴を上げてリュックから飛び出した拍子に、『風ごろも』の魔法が途切れる。
あっ、と思ったけれどそんなのは関係なかった。ノアの意識がない。
その抵抗すら出来ないノアに向かって、黒南風の爪が袈裟懸けに振り下ろされる。
本人も途中でノアが気を失ったのに気付いたんだろう、凶悪な攻撃に反して焦った顔をしていた。
「『障壁っ』!!!」
ルル母さん直伝の魔法障壁を全力で展開する。
早口言葉は苦手だけど、呪文の高速詠唱を練習しておいて良かった。
最強硬度の魔法障壁は、モノを通さない。
落ちかけたノアもリリの側につなぎ留めてくれたけど――……リリたちは障壁ごと、黒南風の爪に弾き飛ばされた。
奥歯を噛みしめて、障壁を維持する。
空中で展開したせいか、球の形になっている魔法障壁は、一回ガツンとバウンドしてから地面に落ち、転がって止まった。
「ノアっ、ノアっ、しっかりして!」
障壁の中であちこちに体をぶつけた衝撃で、集中が一瞬途切れ、魔法障壁が消える。
それほどの衝撃でも、ノアの意識は戻らない。ゆすっても叩いても戻らない。
どうしよう、どうしよう――パニックになりかけた刹那、羽がぞわっとして、反射的に魔法障壁を張り直した。コンマ数秒の差で、風竜のかまいたちが魔法障壁に弾かれ消える。
『守られるだけの人形かと思いきや……小娘、中々やるではないか』
白南風の楽しそうな声と共に、殴るようにかまいたちがぶつけられる。ノアの意識がなくなっても、一時休戦にはならず、闘いは続くらしい。
風竜王も風竜女王も、何も言わずにこちらを凝視している。
かまいたちと一緒に、巻き上げられた小石が障壁にカンカンと当たる。
黒南風が、琥珀色の目を細めると残念そうに言った。
『さすがは火竜女王のお気に入り、我らに匹敵する速さとは……と感服していたが、ここまでのようだな。殺すには惜しいわっぱだ。小娘、己の負けを認めれば、わっぱの命だけは助けてやろう』
リリは、後ろにかばったノアの顔を一度見てから、首を横に振った。
多分、昨日までのリリだったなら、黒南風の言葉に頷いていただろう。リリと父親は助からなくても、ここまでしてくれたノアの命が助かるなら、と。
でも、ノアは言った。ノアには、リリが必要だと。リリはノアが守るから、ノアはリリが守って、と。
リリの金槌を握りしめる手に、力がこもる。
「ノアは、リリが守る」
『ふむ。風竜は約束を違えんぞ? だがまぁ信用ならぬというならば仕方がない。どこまで耐えられるか……試してみよう』
黒南風の口が、カッと開き、風竜のブレスが魔法障壁にぶち当たる。
ノアは風竜同士を盾にしてちょこまかと動き回りブレスを防いでいたけれど、ノアを抱えて避けるなんてリリには不可能だ。リリに出来るのは、魔法障壁を張り続けることだけ。
だが燃費の良い『風ごろも』の魔法と違って、魔法障壁はブレスを防いでくれる代償に、みるみると魔力を吸い取っていく。
――ビィィィィィン、と魔法障壁が震えた。
「そうだった、風竜のブレスは……」
懸命に障壁を維持し続けるリリの顔から、サァッと血の気が引いた。風竜のブレスは、音波の攻撃。全てを破壊する超音波の振動は、魔法障壁をも揺らす。
攻撃が直接通らなくても、振動は障壁を伝わり地面を伝わり、空気を伝わり、ノアを揺らす。
ビシッ、と敷石にヒビが入る。障壁の内側の敷石に。
意識のないノアはピクリとも動かないけれど、起きていたら頭痛にもがき苦しんでいたはずだ。この振動波は、人間の柔らかい脳をも揺らす。
「この最硬の魔法障壁と風竜のブレスは相性が悪すぎた。張り直さなきゃ……」
途切れることのないブレスに、リリの焦燥感だけが募っていく。先ほどは、咄嗟に一番慣れた最強最硬の魔法障壁を張ってしまったが、硬い障壁は振動を伝えやすい。
大賢者であるルル母さんが開発した、風竜のブレスを和らげる障壁の知識もあったというのに、どうしてこの障壁を張ってしまったんだろう。
自分にもっと実戦経験があれば。この障壁を解除してもノアを守りながら高位風竜と戦えるくらいの強さが、せめて障壁を張り直す間、一回だけでもブレスをはね除けられるくらいの強さがあれば。火竜女王やノアと一緒に鍛錬していれば。
色々な後悔が、波のように押し寄せる。
なんだか体が熱くて、締め付けられるように痛い。視界が赤くなり、頭がガンガンと痛む。急激なレベルアップと魔力の大量消費、一瞬も気を抜けない高難度の魔法操作に脳が悲鳴を上げ、タラリと一筋の鼻血が垂れた。
片手を障壁にかざしながらも、横たわったノアの頭を少しでも守ろうと膝に乗せる。
袖で鼻血を拭ったそのとき、聞き覚えのない声がした。
『小娘。魔法障壁を張り直せれば、この振動から小僧を守れるんだな?』
「え?」
リリはキョロキョロと辺りを見回したが、ここはリリが張った魔法障壁の中だ。リリとノア以外、誰もいるはずがない。
『俺が外に出て時間を稼ぐ。一瞬なら風竜のブレスも何とかしよう。その間に、魔法障壁を張り直せ』
リリが背負ったままのリュックから、もふっ、と温かい感触が首筋に触れた。
「……これ、タヌキの声?」
タヌキはリリの頬に一度頭をすり寄せると、子猫の毛玉をくわえ、ひょいっと地面に飛び降りた。
『坊主には借りがある』
タヌキの体が淡い光に包まれ、魔法障壁がはち切れそうなほど大きくなる。強靭な獅子の体にサソリの尾。それはノアたちがスタンピードの際に追いかけられていた――
「……まさかマンティコア?」
『そうなるな』
タヌキはリリとノアを囲うように体を丸めると、くわえていた毛玉を自分のたてがみの中に入れるように言った。
マンティコアには、雌にも髪のようなたてがみがある。リリが一旦受け取った毛玉は、ノアと同じように気を失って、ぐったりとしていた。
「リリが毛玉を預かっておこうか?」
『綿毛猫には、母体を強化する力がある。小僧のおこぼれで、だいぶレベルは上がったが……毛玉はいたほうがいい』
綿毛猫に、そんな力があるとは。リリは言われた通り、マンティコアのたてがみの中に毛玉を入れ、ふと思いついて毛玉が落ちないように周りを編んで籠状にした。
「でも、マンティコアだったとしても、魔法障壁の外に出たら、タヌキが危ない。マンティコアはAランク、竜はSランク」
『俺が魔獣だったことには驚かないのか?』
ざりっ、と今度は大きな舌で頬を舐められた。
「なんとなく、普通の猫じゃないとは思ってた」
獅子の顔が、なんだか苦笑したように見えた。
『坊主には、毛玉を助けられた。子の命の恩人ならば、母が恩を返さなくてはな。それに、この振動は毛玉にもマズい。どの道、障壁の外に出さなくては』
「……ごめん、リリのせいで」
この最硬最強の魔法障壁を張ってしまったのは、リリの失態だ。
肩を落として謝ったリリの顔を、獅子の分厚い舌がザリザリと舐めた。リリの腕より太い牙がすぐ目の前に見えたが、不思議と怖さは感じなかった。
『気にするな。小僧を頼むぞ』
未だに風竜のブレスは止まない。息が続く限り黒南風と白南風が交互にブレスを浴びせかけてくる。
タヌキが、ググッと手足に力を入れて跳躍の姿勢になった。
『今だ!』
タヌキの声で魔法障壁を一瞬解き、風竜のブレス特化の魔法障壁の詠唱に入る。
魔法障壁を解いた瞬間、黒南風の驚いた顔が見えた。殺してしまった、と思ったんだろう。
そのブレスを、タヌキが全身を使って遮っていた。よくよく観察すると、その体を覆うように、ウロコのような小さな盾が無数に展開している。
魔獣が、あんな高度な魔法を使うなんて……
驚きは意識の端に押し込めて、早口で唱え終わったゴム鞠のような柔らかく分厚い魔法障壁を展開する。
「『障壁』っ!」
それを確認したタヌキがブレスを突っ切り、黒南風へと肉薄する。
『ほう、マンティコアか。「竜の棲む山脈」の固有種だな。次々と隠し玉が出て来るとは面白いわっぱだ。今までどこに隠れていた?』
風竜は好奇心旺盛で新しいことや思いがけないことが大好きだ。楽しそうに、黒南風や白南風がタヌキへと向き直る。
二頭に代わって他の風竜がその場に残ったリリとノアへブレスを吐きかけるものの、大賢者謹製の風竜特化魔法障壁の中へは、振動は微塵も伝わってこなかった。
「……っ!? 父さん?」
リリは目を見張り、それから服の袖でゴシゴシと擦ってからもう一度見直した。
引き絞られた弓矢のように、一直線に飛んで行った白い鳥が、白南風の側頭部へと激突していったのだ。無理に籠を脱したのだろう、既に傷だらけの白い鳥からは、ほとんど魔力も感じない。そのなけなしの魔力を振り絞って、鳥はタヌキに加勢する。
リリは右手を障壁にかざし、次から次へと零れてくる涙をぬぐいながら祈った。
「父さん、タヌキ。どうか……死なないで」
タヌキが魔獣だったと知って、リリはノアが倒れた理由を理解した。
魔獣に名前を付けると、レベルの最大値が1下がる。ノアが今までに名前を付けたのは、黒モフ、綿毛猫の毛玉――そして、タヌキ。
『鑑定』で視るとレベル996を指しているノアのレベルは、実際は通常のレベル999に相当することになる。人間のレベルの最大値は999と一般には言われているが、本当は違う。膨大な経験値が必要になるものの、999の先、『レベル1000の壁』というものが存在する。
風竜の領域に来る前にレベル990を越えていたノアは、大量の風竜と戦い続け、人類の限界、『レベル1000の壁』にぶつかってしまったのだ。
『レベル1000の壁』はただ経験値を重ねただけでは乗り越えることの出来ない壁。遥か昔にはレベル1000を越えた人間も存在したらしいが、現在では乗り越えるための方法は失われている。
「ノア……」
リリは、膝の上に乗せたノアの藁色の髪をそっと撫でた。
リリは知っている。
レベル1000の壁は、魔の壁。
ほとんどの者が乗り越えられず死んでしまう壁。
死なくとも、その人がその人のまま帰ってくるとは限らない壁。
『ヒト』という存在そのものが書き換えられ、人格や性格まで変わってしまう壁。
万全の準備をして立ち向かっていったはずの賢者たちが手も足も出ずに返り討ちにあってきた壁。
何の備えもなく、ただひょいっと突っ込んでいったノアが無事に戻って来られる確率は……
「帰ってきて、ノア」
金槌を握りしめる指先は、血の気が引いてもう感覚もない。体中の痛みもどこか遠い。
願いを叶えるはずの神は、すぐ近くで高みの見物を決め込んでいると知りながらも――……リリは、神に祈らずにはいられなかった。
05 壁の向こう
――お前は何者であろうと望む?
誰かが問う声に、はて、と首を傾げる。自分は、誰だっただろう。
声は答えを待っている。けれど、どこか遠く、よく知る人の「帰ってきて」と自分を呼ぶ声が聞こえた気がする。知らない声なんて後回しだ。アンタに付き合ってる場合じゃない。
意識が浮上し、目を開いたそこに見えたのは――……
血で汚れ、憔悴しきったリリィの白い顔。その背後、魔法障壁の薄緑色を通して、毛玉をくわえた傷だらけのタヌキと白い鳥が飛ばされボロ雑巾のように落ちてくるのが見えた……
何が、起こった?
ここは風竜の領域、自分は風竜と戦っていたはず。あの傷ついた白い鳥は春嵐さんが腰掛けた籠の中にいた、リリィが『父さん』と呼んでいた存在ではないか――……
理解した瞬間、激しい頭痛と共に目の前が赤く染まった。
「ノア!? 良かった気が付い……」
リリィの悲鳴のような安堵の声を後ろに残し、魔法障壁を破って全力で跳び上がる。伸ばした指先は、間一髪でタヌキたちを拾い上げ、地面に激突するのだけは防げた。
『気が付いたのか、わっぱ。さあ続きを戦ろう』
赤く染まった視界の中、見上げた空で風竜たちが愉快そうに笑った――
「見事、見事。実に見事な闘い振りだったでおじゃる」
春嵐さんが『アッパレ』と書かれた扇子を広げ、ふわりと闘技場へ舞い降りてきたとき、黒南風さんたちはズタボロになって地に這っていた。
『まだ、まだ自分の尾は落とされてはおりませぬ』
「素直に養生するでおじゃる。飛べぬ風竜が敵う相手かえ」
ポンポンと慰めるように肩を叩かれて、黒南風さんたちは無念そうに首を垂れた。
どうやら自分は、頭に血が上り過ぎて、逆刃刀であるファルクスの使い方をすっかりすっぽ抜けてしまっていたらしい。
力任せスピード任せにひたすら叩き込み、それを食らった黒南風さんたちは、切り傷こそないものの、地面にすくほどの羽毛を飛び散らせ、全身打撲に呻いていた。
本来剣というのは、相手が切れるからこそ振るえるものだ。同じ一本の竹へ剣を振るうにしても、刃の側ならばまっすぐに切り抜けて振るった側にダメージはないが、峰で打ったならば剣は跳ね返り、ダメージも跳ね返ってくる。
それなのに金属の棒で複数の竜を滅多打ちにしたはずの自分の体にダメージはなく、むしろ浮かび上がりそうなほどに体が軽い。
「万竜武闘会の勝者は、わっぱ――ノアとする。願いは科戸の解放だったでおじゃるの」
春嵐さんの言葉が薄布を通したように遠く、耳を滑るような感覚だ。
半眼、無表情で立ち尽くす自分の前で、春嵐さんが大きく翼を広げ――淡く輝いた。
その光の中、春嵐さんの体はみるみるうちに膨らんで、見とれるほどに美しい純白の竜へと変わっていった。
『じゃが、当事者がおらぬのに賞品贈呈というのもちと違うでおじゃるな。往くぞ、ララとやらの元へ』
春嵐さんのかぎ爪が自分の胴体をわしっと掴み、空へと舞い上がった。
その視界の中で、竜体になった風竜王が同じくかぎ爪でリリィとリリィが抱えていたタヌキ、白い鳥――科戸さんを掴み、追いかけてくるのが見えた。どこか現実味の薄い景色の中、闘技場の白い敷石が眼下に小さくなっていき――……
「あーっ、あの敷石! せっかく黒南風さんたちの攻撃が当たるように調節して割りまくったのに! ツムジ石だよねあれ!? 割れちゃった分はこっそりもらおうと思ったのに、まだ一個もリュックに入れてない! 戻って春嵐さん、風竜のしっぽも鍛冶に使えたかもしれないのに! オイラにちょうだい!」
『正気に返った最初の台詞がそれでおじゃるかえ? 相変わらず面白いわっぱよの』
春嵐さんの言葉に、オイラはペタペタと自分の顔を触ってみた。
そうだ。オイラはノア。父ちゃんの子どもで、リリィの友達な鍛冶見習いだ。
未だ聞こえる誰かの声に、オイラは胸を張って答える。オイラはオイラだと。
『さて、往くぞ』
上っていた体が一瞬ふわりと浮き――春嵐さんはそのまま頭を下にして一直線に急降下した。
絶対に普通に落下するよりも加速している。風竜がまとっているという『風ごろも』の効果か風圧はないけれど、急激な高度の変化にお腹の中がキュウッと引き絞られ、首元で呼吸補助の魔道具がパリンと割れた。
ぶわっ、と世界が真っ白になった。
それが風竜の領域の真下にある『風の大砂漠』へと舞い降りた春嵐さんが巻き上げた大量の砂煙だと認識するより早く、ララ婆の声がした。
「風竜……ノアしゃん!?」
「『速度強化』『速度強化』『速度強化』『速度強化』『バランス補整』!」
ルル婆の圧縮した呪文詠唱が聞こえたのとほぼ同時、オイラを掴んだままの春嵐さんが反対の手を地面に付き、回し蹴りの要領でしっぽで二人をなぎ払った。
それが当たる寸前、速度特化のオイラからしてコマ落としに見えるほどのスピードで、ララ婆はルル婆をひっかかえて跳び退った。
そしてその場にルル婆をいったん手放すと、僅かに遅れてきた風竜王が着地する瞬間を狙ってかぎ爪の中のリリィたちを引っさらい、再びルル婆を抱え直して風竜たちと距離をとる。
「『障壁!』」
ルル婆がララ婆とリリィを含む周囲に魔法障壁を張り巡らす。ここまで、約一秒。
「リリ、無事かいっ!?」
「ノアしゃん、すぐ助けるから待っとるんじゃよ!」
唖然とした表情の風竜王とは対照的に、春嵐さんは愉快そうに笑った。
『くくくっ、これは科戸が惚れるわけでおじゃるな。風竜は新しいもの珍しいものを好み疾いものを尊ぶ。そちはおそらく、人類最速であろう? しかも「速度強化」の四重掛けとはまたたまげた。並の人間ならば「速度強化」二重でも己のスピードに振り回されまともに動けぬであろうに。まさかまさか、青嵐の爪から獲物をかすめ取るとは』
『実にアッパレ』と書かれた扇子から、ふわふわと紙吹雪が舞う。
っていうか竜サイズの扇子になってる――ってことは、あの扇子、まさかまさかの【神話級】!?
オイラが春嵐さんの扇子を凝視している間に、エスティも追いついてきた。
『ふむ、最後の「バランス補整」とやらが肝でおじゃるの。妾をして初見ということは、そちのオリジナルの術かえ。小娘の「風ごろも」といい、実に興味深い。しかし「バランス補整」があったとしても人の身でそこまで動けるとは――いかほどの修練を積んだものか』
コロコロと上機嫌に笑っている春嵐さんの動向を注視しつつも、ルル婆がリリィとタヌキ、毛玉、科戸さんに治癒魔法をかけている。ララ婆が抱えていた科戸さんの首がよろよろと持ち上がった。
ふと、科戸さんの羽根がララ婆の簪の羽根と全く同じものだと気付いた。
『ララ、ララ、ララですね!? 会いたかった、私の愛しいララ!』
顔を上げた科戸さんは翼を広げ、そのままララ婆を素通りして、背後に揺れていたモフモフのしっぽに勢いよく抱きついた。
「……」
ララ婆の額に青筋が浮かぶ。
「だからっ、あたしゃの本体はしっぽじゃないって何度言ったら分かるのかね、このヒトデナシはっ!? ええーい離れろっ、心配して損したよ! 半世紀経ってもちっとも変わりやしない!」
怒声と共に引き剥がそうとするものの、鳥――科戸さんはララ婆のしっぽにひしっとしがみついたまま離れない。
『くくっ、無駄じゃ無駄。風竜は疾いものを尊び、新しいものを好み、モフモフしたものに愛らしさを感じるでおじゃ。そちは風竜の好みど真ん中よ。科戸の番でなくば妾が飼いたいくらい……ああ、警戒せずとも良いえ。望みがあるならば実力で示すのが竜種の流儀。ここで言う実力とは、火竜の場合「強さ」を指すが、風竜の場合「独自性がある面白いもの」を指す。そちらの術、疾さ、小娘の「風ごろも」に妾は大いに食指が動いたでおじゃる。殺すには惜しい』
扇子はひらひらと舞うたびに、『実にアッパレ』『見事』『感服したでおじゃる』と文字を変えている。
っていうか、風竜が求める実力が強さじゃないなら、オイラが『万竜武闘会』に出る必要ってなかったんじゃ?
ジト目でエスティを見ると、両手を後ろで組んで明後日の方に目線をやり、調子外れの口笛を吹いている。実に分かりやすい。
承知の上でオイラを武闘会に放り込んだ、と。
帰ったら徹底的に『話し合い』してやる。
「あたしゃとリリは見逃してくれる、ってのかい?」
『科戸もそのまま持ち帰ってくれて構わぬでおじゃる。このわっぱが風竜の領域で開催された武闘会で優勝してのぉ、わっぱは科戸を賞品として所望したゆえ』
「「……は?」」
魔法障壁の中で、ルル婆とララ婆の目が点になった。
もの問いたげにギギイッとぎこちなくこちらを見やる。
「なんか、そういう流れで?」
てへっと笑うと、片眉が大きく上がり、「ハァ?」という顔をした。双子だけあってそっくりだ。
『実に見事でおじゃったぞ。風竜一万をバッタバッタと切り伏せて、途中レベル1000の壁に当たり気を失ったものを、小娘が健気に障壁で守り続けてのぉ。あの音波を防ぐ障壁も実に興味深かったでおじゃる』
「風竜一万!?」
「レベル1000の壁じゃと!?」
「リリィがオイラを守っててくれたの!?」
ルル婆ララ婆とほぼ同時に叫んだけれど、リリィには聞こえたらしくコックリと頷いた。
「うわありがとう、大変だったでしょ。ごめんね、あんな大口叩いといて気ぃ失うとか。かっこ悪いなオイラ」
頭をガシガシ掻きながら眉尻を下げると、リリィはふるふると首を横に振った。鼻の頭が赤くて、どこか泣きそうにも見える。
……気持ち悪い。
湧き出る吐き気を、リリは胃を押さえてなんとか耐えていた。体の芯が熱くて、体中が怠い。
空中を無限に駆ける風竜は、三半規管が異常に強く、どんな嵐の小舟に乗っていても、魔物にまたがっていても酔うことはないので、振り回されていることによる車酔いではない。
リリにはこの感覚に覚えがあった。ずっと昔、父に連れられ魔獣狩りをしていた頃の記憶だ。具合の悪くなったリリを、父はいつも背中におぶって帰ってくれた。
これは、レベルアップ酔い。急激なレベルアップに体が順応しきれない、拒絶反応だ。
「ピューーィィ――……」
必死に吐き気をこらえ、『風ごろも』の魔法を維持する。魔法が途切れたら、ノアは確実に遅くなる。今戦っている高位風竜に届かなくなる。
補助をしているだけのリリが吐くほどの経験値を得ているのに、楽しそうに戦っている当の本人は平気なのだろうか。
『白南風、黒南風、小僧の剣を折れ!』
風竜王の声が響いた。
ノアの剣が体力を吸収する剣だと気が付いたのだろうけれど、剣を狙っても無駄だ。リリの空間収納には、上出来不出来を合わせて五十近い『真祖の剣』が入っている。
ノアが、ここまで二千以上の風竜のしっぽを落とすのに使った剣は五本。たとえ風竜全て一万頭が出て来たところで、必要なのは二十数本。
リリはリュックの中に入っていた金槌の柄を握りしめた。
この金槌の柄は高位竜の骨で出来ている。竜の骨というのは高度な魔力の循環器官で、自分の魔力を加え廻らせることで、本来の容量を遥かに超える魔力を使えるようになる。
そもそも風竜が常にまとっている『風ごろも』は、難易度の割に消費魔力は少ない。リリが吐き気を我慢さえ出来れば、ノアはきっと一万頭の風竜にだってきっと勝てる。
……でも、なんだか羽がぞわぞわする。全身の毛を逆なでされているみたいな感覚。むず痒くて、思わず暴れ出したいような、頭を掻きむしりたいような。ダメ、集中を途切れさせちゃ……
――……そう、手の甲に爪を立てた次の瞬間。
カクッ、とノアの体から力が抜けた。まるで糸が切れたマリオネットのように。空中にいたノアの体は、そのまま落下を始める。
「ノアっっっ!?」
悲鳴を上げてリュックから飛び出した拍子に、『風ごろも』の魔法が途切れる。
あっ、と思ったけれどそんなのは関係なかった。ノアの意識がない。
その抵抗すら出来ないノアに向かって、黒南風の爪が袈裟懸けに振り下ろされる。
本人も途中でノアが気を失ったのに気付いたんだろう、凶悪な攻撃に反して焦った顔をしていた。
「『障壁っ』!!!」
ルル母さん直伝の魔法障壁を全力で展開する。
早口言葉は苦手だけど、呪文の高速詠唱を練習しておいて良かった。
最強硬度の魔法障壁は、モノを通さない。
落ちかけたノアもリリの側につなぎ留めてくれたけど――……リリたちは障壁ごと、黒南風の爪に弾き飛ばされた。
奥歯を噛みしめて、障壁を維持する。
空中で展開したせいか、球の形になっている魔法障壁は、一回ガツンとバウンドしてから地面に落ち、転がって止まった。
「ノアっ、ノアっ、しっかりして!」
障壁の中であちこちに体をぶつけた衝撃で、集中が一瞬途切れ、魔法障壁が消える。
それほどの衝撃でも、ノアの意識は戻らない。ゆすっても叩いても戻らない。
どうしよう、どうしよう――パニックになりかけた刹那、羽がぞわっとして、反射的に魔法障壁を張り直した。コンマ数秒の差で、風竜のかまいたちが魔法障壁に弾かれ消える。
『守られるだけの人形かと思いきや……小娘、中々やるではないか』
白南風の楽しそうな声と共に、殴るようにかまいたちがぶつけられる。ノアの意識がなくなっても、一時休戦にはならず、闘いは続くらしい。
風竜王も風竜女王も、何も言わずにこちらを凝視している。
かまいたちと一緒に、巻き上げられた小石が障壁にカンカンと当たる。
黒南風が、琥珀色の目を細めると残念そうに言った。
『さすがは火竜女王のお気に入り、我らに匹敵する速さとは……と感服していたが、ここまでのようだな。殺すには惜しいわっぱだ。小娘、己の負けを認めれば、わっぱの命だけは助けてやろう』
リリは、後ろにかばったノアの顔を一度見てから、首を横に振った。
多分、昨日までのリリだったなら、黒南風の言葉に頷いていただろう。リリと父親は助からなくても、ここまでしてくれたノアの命が助かるなら、と。
でも、ノアは言った。ノアには、リリが必要だと。リリはノアが守るから、ノアはリリが守って、と。
リリの金槌を握りしめる手に、力がこもる。
「ノアは、リリが守る」
『ふむ。風竜は約束を違えんぞ? だがまぁ信用ならぬというならば仕方がない。どこまで耐えられるか……試してみよう』
黒南風の口が、カッと開き、風竜のブレスが魔法障壁にぶち当たる。
ノアは風竜同士を盾にしてちょこまかと動き回りブレスを防いでいたけれど、ノアを抱えて避けるなんてリリには不可能だ。リリに出来るのは、魔法障壁を張り続けることだけ。
だが燃費の良い『風ごろも』の魔法と違って、魔法障壁はブレスを防いでくれる代償に、みるみると魔力を吸い取っていく。
――ビィィィィィン、と魔法障壁が震えた。
「そうだった、風竜のブレスは……」
懸命に障壁を維持し続けるリリの顔から、サァッと血の気が引いた。風竜のブレスは、音波の攻撃。全てを破壊する超音波の振動は、魔法障壁をも揺らす。
攻撃が直接通らなくても、振動は障壁を伝わり地面を伝わり、空気を伝わり、ノアを揺らす。
ビシッ、と敷石にヒビが入る。障壁の内側の敷石に。
意識のないノアはピクリとも動かないけれど、起きていたら頭痛にもがき苦しんでいたはずだ。この振動波は、人間の柔らかい脳をも揺らす。
「この最硬の魔法障壁と風竜のブレスは相性が悪すぎた。張り直さなきゃ……」
途切れることのないブレスに、リリの焦燥感だけが募っていく。先ほどは、咄嗟に一番慣れた最強最硬の魔法障壁を張ってしまったが、硬い障壁は振動を伝えやすい。
大賢者であるルル母さんが開発した、風竜のブレスを和らげる障壁の知識もあったというのに、どうしてこの障壁を張ってしまったんだろう。
自分にもっと実戦経験があれば。この障壁を解除してもノアを守りながら高位風竜と戦えるくらいの強さが、せめて障壁を張り直す間、一回だけでもブレスをはね除けられるくらいの強さがあれば。火竜女王やノアと一緒に鍛錬していれば。
色々な後悔が、波のように押し寄せる。
なんだか体が熱くて、締め付けられるように痛い。視界が赤くなり、頭がガンガンと痛む。急激なレベルアップと魔力の大量消費、一瞬も気を抜けない高難度の魔法操作に脳が悲鳴を上げ、タラリと一筋の鼻血が垂れた。
片手を障壁にかざしながらも、横たわったノアの頭を少しでも守ろうと膝に乗せる。
袖で鼻血を拭ったそのとき、聞き覚えのない声がした。
『小娘。魔法障壁を張り直せれば、この振動から小僧を守れるんだな?』
「え?」
リリはキョロキョロと辺りを見回したが、ここはリリが張った魔法障壁の中だ。リリとノア以外、誰もいるはずがない。
『俺が外に出て時間を稼ぐ。一瞬なら風竜のブレスも何とかしよう。その間に、魔法障壁を張り直せ』
リリが背負ったままのリュックから、もふっ、と温かい感触が首筋に触れた。
「……これ、タヌキの声?」
タヌキはリリの頬に一度頭をすり寄せると、子猫の毛玉をくわえ、ひょいっと地面に飛び降りた。
『坊主には借りがある』
タヌキの体が淡い光に包まれ、魔法障壁がはち切れそうなほど大きくなる。強靭な獅子の体にサソリの尾。それはノアたちがスタンピードの際に追いかけられていた――
「……まさかマンティコア?」
『そうなるな』
タヌキはリリとノアを囲うように体を丸めると、くわえていた毛玉を自分のたてがみの中に入れるように言った。
マンティコアには、雌にも髪のようなたてがみがある。リリが一旦受け取った毛玉は、ノアと同じように気を失って、ぐったりとしていた。
「リリが毛玉を預かっておこうか?」
『綿毛猫には、母体を強化する力がある。小僧のおこぼれで、だいぶレベルは上がったが……毛玉はいたほうがいい』
綿毛猫に、そんな力があるとは。リリは言われた通り、マンティコアのたてがみの中に毛玉を入れ、ふと思いついて毛玉が落ちないように周りを編んで籠状にした。
「でも、マンティコアだったとしても、魔法障壁の外に出たら、タヌキが危ない。マンティコアはAランク、竜はSランク」
『俺が魔獣だったことには驚かないのか?』
ざりっ、と今度は大きな舌で頬を舐められた。
「なんとなく、普通の猫じゃないとは思ってた」
獅子の顔が、なんだか苦笑したように見えた。
『坊主には、毛玉を助けられた。子の命の恩人ならば、母が恩を返さなくてはな。それに、この振動は毛玉にもマズい。どの道、障壁の外に出さなくては』
「……ごめん、リリのせいで」
この最硬最強の魔法障壁を張ってしまったのは、リリの失態だ。
肩を落として謝ったリリの顔を、獅子の分厚い舌がザリザリと舐めた。リリの腕より太い牙がすぐ目の前に見えたが、不思議と怖さは感じなかった。
『気にするな。小僧を頼むぞ』
未だに風竜のブレスは止まない。息が続く限り黒南風と白南風が交互にブレスを浴びせかけてくる。
タヌキが、ググッと手足に力を入れて跳躍の姿勢になった。
『今だ!』
タヌキの声で魔法障壁を一瞬解き、風竜のブレス特化の魔法障壁の詠唱に入る。
魔法障壁を解いた瞬間、黒南風の驚いた顔が見えた。殺してしまった、と思ったんだろう。
そのブレスを、タヌキが全身を使って遮っていた。よくよく観察すると、その体を覆うように、ウロコのような小さな盾が無数に展開している。
魔獣が、あんな高度な魔法を使うなんて……
驚きは意識の端に押し込めて、早口で唱え終わったゴム鞠のような柔らかく分厚い魔法障壁を展開する。
「『障壁』っ!」
それを確認したタヌキがブレスを突っ切り、黒南風へと肉薄する。
『ほう、マンティコアか。「竜の棲む山脈」の固有種だな。次々と隠し玉が出て来るとは面白いわっぱだ。今までどこに隠れていた?』
風竜は好奇心旺盛で新しいことや思いがけないことが大好きだ。楽しそうに、黒南風や白南風がタヌキへと向き直る。
二頭に代わって他の風竜がその場に残ったリリとノアへブレスを吐きかけるものの、大賢者謹製の風竜特化魔法障壁の中へは、振動は微塵も伝わってこなかった。
「……っ!? 父さん?」
リリは目を見張り、それから服の袖でゴシゴシと擦ってからもう一度見直した。
引き絞られた弓矢のように、一直線に飛んで行った白い鳥が、白南風の側頭部へと激突していったのだ。無理に籠を脱したのだろう、既に傷だらけの白い鳥からは、ほとんど魔力も感じない。そのなけなしの魔力を振り絞って、鳥はタヌキに加勢する。
リリは右手を障壁にかざし、次から次へと零れてくる涙をぬぐいながら祈った。
「父さん、タヌキ。どうか……死なないで」
タヌキが魔獣だったと知って、リリはノアが倒れた理由を理解した。
魔獣に名前を付けると、レベルの最大値が1下がる。ノアが今までに名前を付けたのは、黒モフ、綿毛猫の毛玉――そして、タヌキ。
『鑑定』で視るとレベル996を指しているノアのレベルは、実際は通常のレベル999に相当することになる。人間のレベルの最大値は999と一般には言われているが、本当は違う。膨大な経験値が必要になるものの、999の先、『レベル1000の壁』というものが存在する。
風竜の領域に来る前にレベル990を越えていたノアは、大量の風竜と戦い続け、人類の限界、『レベル1000の壁』にぶつかってしまったのだ。
『レベル1000の壁』はただ経験値を重ねただけでは乗り越えることの出来ない壁。遥か昔にはレベル1000を越えた人間も存在したらしいが、現在では乗り越えるための方法は失われている。
「ノア……」
リリは、膝の上に乗せたノアの藁色の髪をそっと撫でた。
リリは知っている。
レベル1000の壁は、魔の壁。
ほとんどの者が乗り越えられず死んでしまう壁。
死なくとも、その人がその人のまま帰ってくるとは限らない壁。
『ヒト』という存在そのものが書き換えられ、人格や性格まで変わってしまう壁。
万全の準備をして立ち向かっていったはずの賢者たちが手も足も出ずに返り討ちにあってきた壁。
何の備えもなく、ただひょいっと突っ込んでいったノアが無事に戻って来られる確率は……
「帰ってきて、ノア」
金槌を握りしめる指先は、血の気が引いてもう感覚もない。体中の痛みもどこか遠い。
願いを叶えるはずの神は、すぐ近くで高みの見物を決め込んでいると知りながらも――……リリは、神に祈らずにはいられなかった。
05 壁の向こう
――お前は何者であろうと望む?
誰かが問う声に、はて、と首を傾げる。自分は、誰だっただろう。
声は答えを待っている。けれど、どこか遠く、よく知る人の「帰ってきて」と自分を呼ぶ声が聞こえた気がする。知らない声なんて後回しだ。アンタに付き合ってる場合じゃない。
意識が浮上し、目を開いたそこに見えたのは――……
血で汚れ、憔悴しきったリリィの白い顔。その背後、魔法障壁の薄緑色を通して、毛玉をくわえた傷だらけのタヌキと白い鳥が飛ばされボロ雑巾のように落ちてくるのが見えた……
何が、起こった?
ここは風竜の領域、自分は風竜と戦っていたはず。あの傷ついた白い鳥は春嵐さんが腰掛けた籠の中にいた、リリィが『父さん』と呼んでいた存在ではないか――……
理解した瞬間、激しい頭痛と共に目の前が赤く染まった。
「ノア!? 良かった気が付い……」
リリィの悲鳴のような安堵の声を後ろに残し、魔法障壁を破って全力で跳び上がる。伸ばした指先は、間一髪でタヌキたちを拾い上げ、地面に激突するのだけは防げた。
『気が付いたのか、わっぱ。さあ続きを戦ろう』
赤く染まった視界の中、見上げた空で風竜たちが愉快そうに笑った――
「見事、見事。実に見事な闘い振りだったでおじゃる」
春嵐さんが『アッパレ』と書かれた扇子を広げ、ふわりと闘技場へ舞い降りてきたとき、黒南風さんたちはズタボロになって地に這っていた。
『まだ、まだ自分の尾は落とされてはおりませぬ』
「素直に養生するでおじゃる。飛べぬ風竜が敵う相手かえ」
ポンポンと慰めるように肩を叩かれて、黒南風さんたちは無念そうに首を垂れた。
どうやら自分は、頭に血が上り過ぎて、逆刃刀であるファルクスの使い方をすっかりすっぽ抜けてしまっていたらしい。
力任せスピード任せにひたすら叩き込み、それを食らった黒南風さんたちは、切り傷こそないものの、地面にすくほどの羽毛を飛び散らせ、全身打撲に呻いていた。
本来剣というのは、相手が切れるからこそ振るえるものだ。同じ一本の竹へ剣を振るうにしても、刃の側ならばまっすぐに切り抜けて振るった側にダメージはないが、峰で打ったならば剣は跳ね返り、ダメージも跳ね返ってくる。
それなのに金属の棒で複数の竜を滅多打ちにしたはずの自分の体にダメージはなく、むしろ浮かび上がりそうなほどに体が軽い。
「万竜武闘会の勝者は、わっぱ――ノアとする。願いは科戸の解放だったでおじゃるの」
春嵐さんの言葉が薄布を通したように遠く、耳を滑るような感覚だ。
半眼、無表情で立ち尽くす自分の前で、春嵐さんが大きく翼を広げ――淡く輝いた。
その光の中、春嵐さんの体はみるみるうちに膨らんで、見とれるほどに美しい純白の竜へと変わっていった。
『じゃが、当事者がおらぬのに賞品贈呈というのもちと違うでおじゃるな。往くぞ、ララとやらの元へ』
春嵐さんのかぎ爪が自分の胴体をわしっと掴み、空へと舞い上がった。
その視界の中で、竜体になった風竜王が同じくかぎ爪でリリィとリリィが抱えていたタヌキ、白い鳥――科戸さんを掴み、追いかけてくるのが見えた。どこか現実味の薄い景色の中、闘技場の白い敷石が眼下に小さくなっていき――……
「あーっ、あの敷石! せっかく黒南風さんたちの攻撃が当たるように調節して割りまくったのに! ツムジ石だよねあれ!? 割れちゃった分はこっそりもらおうと思ったのに、まだ一個もリュックに入れてない! 戻って春嵐さん、風竜のしっぽも鍛冶に使えたかもしれないのに! オイラにちょうだい!」
『正気に返った最初の台詞がそれでおじゃるかえ? 相変わらず面白いわっぱよの』
春嵐さんの言葉に、オイラはペタペタと自分の顔を触ってみた。
そうだ。オイラはノア。父ちゃんの子どもで、リリィの友達な鍛冶見習いだ。
未だ聞こえる誰かの声に、オイラは胸を張って答える。オイラはオイラだと。
『さて、往くぞ』
上っていた体が一瞬ふわりと浮き――春嵐さんはそのまま頭を下にして一直線に急降下した。
絶対に普通に落下するよりも加速している。風竜がまとっているという『風ごろも』の効果か風圧はないけれど、急激な高度の変化にお腹の中がキュウッと引き絞られ、首元で呼吸補助の魔道具がパリンと割れた。
ぶわっ、と世界が真っ白になった。
それが風竜の領域の真下にある『風の大砂漠』へと舞い降りた春嵐さんが巻き上げた大量の砂煙だと認識するより早く、ララ婆の声がした。
「風竜……ノアしゃん!?」
「『速度強化』『速度強化』『速度強化』『速度強化』『バランス補整』!」
ルル婆の圧縮した呪文詠唱が聞こえたのとほぼ同時、オイラを掴んだままの春嵐さんが反対の手を地面に付き、回し蹴りの要領でしっぽで二人をなぎ払った。
それが当たる寸前、速度特化のオイラからしてコマ落としに見えるほどのスピードで、ララ婆はルル婆をひっかかえて跳び退った。
そしてその場にルル婆をいったん手放すと、僅かに遅れてきた風竜王が着地する瞬間を狙ってかぎ爪の中のリリィたちを引っさらい、再びルル婆を抱え直して風竜たちと距離をとる。
「『障壁!』」
ルル婆がララ婆とリリィを含む周囲に魔法障壁を張り巡らす。ここまで、約一秒。
「リリ、無事かいっ!?」
「ノアしゃん、すぐ助けるから待っとるんじゃよ!」
唖然とした表情の風竜王とは対照的に、春嵐さんは愉快そうに笑った。
『くくくっ、これは科戸が惚れるわけでおじゃるな。風竜は新しいもの珍しいものを好み疾いものを尊ぶ。そちはおそらく、人類最速であろう? しかも「速度強化」の四重掛けとはまたたまげた。並の人間ならば「速度強化」二重でも己のスピードに振り回されまともに動けぬであろうに。まさかまさか、青嵐の爪から獲物をかすめ取るとは』
『実にアッパレ』と書かれた扇子から、ふわふわと紙吹雪が舞う。
っていうか竜サイズの扇子になってる――ってことは、あの扇子、まさかまさかの【神話級】!?
オイラが春嵐さんの扇子を凝視している間に、エスティも追いついてきた。
『ふむ、最後の「バランス補整」とやらが肝でおじゃるの。妾をして初見ということは、そちのオリジナルの術かえ。小娘の「風ごろも」といい、実に興味深い。しかし「バランス補整」があったとしても人の身でそこまで動けるとは――いかほどの修練を積んだものか』
コロコロと上機嫌に笑っている春嵐さんの動向を注視しつつも、ルル婆がリリィとタヌキ、毛玉、科戸さんに治癒魔法をかけている。ララ婆が抱えていた科戸さんの首がよろよろと持ち上がった。
ふと、科戸さんの羽根がララ婆の簪の羽根と全く同じものだと気付いた。
『ララ、ララ、ララですね!? 会いたかった、私の愛しいララ!』
顔を上げた科戸さんは翼を広げ、そのままララ婆を素通りして、背後に揺れていたモフモフのしっぽに勢いよく抱きついた。
「……」
ララ婆の額に青筋が浮かぶ。
「だからっ、あたしゃの本体はしっぽじゃないって何度言ったら分かるのかね、このヒトデナシはっ!? ええーい離れろっ、心配して損したよ! 半世紀経ってもちっとも変わりやしない!」
怒声と共に引き剥がそうとするものの、鳥――科戸さんはララ婆のしっぽにひしっとしがみついたまま離れない。
『くくっ、無駄じゃ無駄。風竜は疾いものを尊び、新しいものを好み、モフモフしたものに愛らしさを感じるでおじゃ。そちは風竜の好みど真ん中よ。科戸の番でなくば妾が飼いたいくらい……ああ、警戒せずとも良いえ。望みがあるならば実力で示すのが竜種の流儀。ここで言う実力とは、火竜の場合「強さ」を指すが、風竜の場合「独自性がある面白いもの」を指す。そちらの術、疾さ、小娘の「風ごろも」に妾は大いに食指が動いたでおじゃる。殺すには惜しい』
扇子はひらひらと舞うたびに、『実にアッパレ』『見事』『感服したでおじゃる』と文字を変えている。
っていうか、風竜が求める実力が強さじゃないなら、オイラが『万竜武闘会』に出る必要ってなかったんじゃ?
ジト目でエスティを見ると、両手を後ろで組んで明後日の方に目線をやり、調子外れの口笛を吹いている。実に分かりやすい。
承知の上でオイラを武闘会に放り込んだ、と。
帰ったら徹底的に『話し合い』してやる。
「あたしゃとリリは見逃してくれる、ってのかい?」
『科戸もそのまま持ち帰ってくれて構わぬでおじゃる。このわっぱが風竜の領域で開催された武闘会で優勝してのぉ、わっぱは科戸を賞品として所望したゆえ』
「「……は?」」
魔法障壁の中で、ルル婆とララ婆の目が点になった。
もの問いたげにギギイッとぎこちなくこちらを見やる。
「なんか、そういう流れで?」
てへっと笑うと、片眉が大きく上がり、「ハァ?」という顔をした。双子だけあってそっくりだ。
『実に見事でおじゃったぞ。風竜一万をバッタバッタと切り伏せて、途中レベル1000の壁に当たり気を失ったものを、小娘が健気に障壁で守り続けてのぉ。あの音波を防ぐ障壁も実に興味深かったでおじゃる』
「風竜一万!?」
「レベル1000の壁じゃと!?」
「リリィがオイラを守っててくれたの!?」
ルル婆ララ婆とほぼ同時に叫んだけれど、リリィには聞こえたらしくコックリと頷いた。
「うわありがとう、大変だったでしょ。ごめんね、あんな大口叩いといて気ぃ失うとか。かっこ悪いなオイラ」
頭をガシガシ掻きながら眉尻を下げると、リリィはふるふると首を横に振った。鼻の頭が赤くて、どこか泣きそうにも見える。
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