家出娘を拾う、夏が始まる

坂町東

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第一章 家出娘と獣

三話

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家から日干し煉瓦の沿道を北に一キロメートルほど進むと、僕の職場である旅館がある。名を緑録亭りょくろくてい。本来は全て木造の建物だが、増築部分である東側の離と別当が赤煉瓦造りで、独特な雰囲気を醸し出している。屋根は古風な瓦で壁面には極彩色の装飾があって、佇まいは荘厳の一言に尽きる。
 僕はここで見習いの料理人として二年ほど前から働いている。もともと家が料亭で、この町に来るまではそこで親の手伝いを兼ねて勉強をしていたが、就職という面では初めての職場で戸惑うことも多かったが今は順応して楽しくやれている。
 宿に着くと、すれ違う数人と挨拶を交わしながら、従業員扉を開けて中に入る。老舗特有の古臭いにおいと、下駄箱独特の甘酸っぱい匂いが混ざって正面入り口と比べると雲泥の差だ。中は狭く、人ひとりすれ違うのがやっとの程だ。天井も低く、女性陣はともかく男性陣の多くは頭を屈めねばならない。
下駄箱で靴を履き替えると、まっさきにある人物が目に留まる。この旅館の支配人、フィッシャーだ。フィッシャーは廊下の壁に寄りかかりご自慢の顎髭をさすりながら、「うーん、うんんーん」と唸っている。
通りすがりに「お疲れ様です」と声をかけるが、気が付く様子がない。注意散漫なフィッシャーを見るのは珍しい。彼は几帳面で気配りができる男だ。なにか変だと思い、向かっていた更衣室から方向転換して彼のほうに足を向けた。
フィッシャーの真正面に立つと、ようやく彼は僕に気が付いた。老眼か、白髪か、フィッシャーの心配事は大概そのどちらかだが、額に寄った大きな皺を見るにどうやら今回は違うようだ。
「おお、ジルか」
 太鼓のような低い声は相変わらずだが、少し上ずっていて、やはり様子がおかしい。
「何かあったんですか?」
 フィッシャーはいつになく険しい表情で答える。
「ああ、ちょっと問題がな」
「その問題というのは?」
「ああ、宿泊予定の客がいたんだが、それが――」
「支配人!ちょっと来て下さい!」
 そこで、緊迫した女性の声がフィッシャーの言葉を遮った。
 声の先に目をやると通路奥の厨房から長髪の女性が顔を覗かせ、こちらに手を振っていた。彼女の名前はチャルル・マーベロ。二つ年上の先輩で、最年少の仲居である。数少ない同年代の仕事仲間で、働きたての頃はよく食事に誘ってくれた。姉御肌で面倒見がよく、仕事もてきぱきとこなすが、実際のところ、天然でドジであることは有名だ。
「何だ?また食器割ったのか!?」
 フィッシャーは不機嫌そうに声を荒げる。ちなみにチャルルは月一で皿を割る。
「違いますよ!それより早く来てください!」
 フィッシャーはなにか小さくぼやいてから僕に「ちょっと待っててくれ」と声を掛けて厨房へと消えていく。
待っていろと言われたが、下駄箱の前で突っ立っているわけにもいかず、少し遅れてフィッシャーの後を追いかけた。厨房に入るとフィッシャーとチャルルは別の通路へと向かっていた。その先は外に繋がっていて、旅客用の厩舎がある。小走りで追いかけ、外へとつながる扉の前で二人に追いついた。そこで、チャルルが僕に気が付き声を掛けた。
「あ、ジル。来てたんだ」
「はい。何があったんすか?」
「見れば分かるわ。あまり見て良いものじゃないけどね」
 そういってチャルルは扉を開いた。扉の向こうはいたって普通で、いつも見ている厩舎そのものだった。違和感があるとすれば、いつもは、めいっぱい押し込められている馬たちの姿が見えないことぐらいだ。
「こっちです」
 チャルルがフィッシャーと僕を先導する形で厩舎へ入る。続けて僕らも中へ。
 そこで、僕は目を疑う光景に出くわした。
 まず目に飛び込んできたのは、絨毯のような血だまりだった。その次は、その傍らに横たわる二頭の馬たち。どちらも死んでいる。一頭は首を捥がれ、頭と胴体が完全に切り離されている。もう一頭は臓物が腹から飛び出しており、見るも無残な姿だ。
 視覚の情報を脳が処理し終えると、次は嗅覚の情報が脳に処理され始める。鉄と獣が混ざったような匂いが強烈に鼻腔を突く。一気に吸い込めば目眩がするようで、僕はあわてて鼻を手で覆った。
「なんだ、これは……」
 フィッシャーが呟いた。
「さっき、偶然、中を覗いたらこんなことになってて。誰がやったのかは、あの、わかりません」
 チャルルがたどたどしく状況を説明する。
 フィッシャーはゆっくり馬のほうへ歩いて行ってしゃがみ込んだ。傷口を見ているようだ。
「人間の仕業じゃない。獣だ」
 はっきりした声でフィッシャーが言った。
「獣?街中ですよ!?何かの間違いでしょ?」
 チャルルの意見に僕も賛成だった。
「そうですよ、支配人。こんなところに獣なんて……」
「いや、間違いない。見てみろ」
 フィッシャーは馬の首を持ち上げて僕らに見せる。食肉の処理をすることもあるため僕は慣れていたが、チャルルには刺激が強かったようで、彼女は顔を背けた。
「ここだ。牙の後がきっちり残ってやがる。結構デカいぞ。一メートル……いやもっと大きいかもしれん。だが、熊じゃないな。爪痕が小さすぎる。恐らくは狼か、虎か、おそらくその類のものだろう」
 狼、その単語を聞いて背筋が凍った。
 森で見たあの漆黒の獣。見た目は狼に近かった。体格も一メートルは優に超えている。
 フィッシャーの言った条件に合う獣などそうそういるはずがない。あの獣がやったとう可能性は非常に高い。
 獣はリゼに従っているようだった。飼いならしているのかは知らないが、リゼを町に連れてきた矢先の出来事だ。偶然とは思えない。
 だとしたら、僕にも責任がある。
支配人に言うべきか?だが、あの獣だという確証があるわけではない。リゼにも迷惑をかけることになりかねないし、ここは慎重になるべきだ。
逡巡している所へ声が掛かる。
「ジル、チャルル、この事を宿の人間以外に言うんじゃないぞ。在らぬ誤解を招きかねん」
 僕は黙って首を縦に振った。チャルルは納得いかない様子だった。
「でも、支配人。獣のこと皆に伝えた方がいいんじゃないですか?それから避難した方がーー」
「ダメだ!」
 フィシャーがチャルルの言葉を遮った。
「いいか、こいつはただの家畜荒らしじゃねえ。街中にでっかい獣が現れて騒ぎにならねえってことは、誰かがその獣の手網を握ってるってことだ。見ろ、この二頭、全身どこも食われちゃいない。野生の獣がそんなことすると思うか?」
 確かに獣には食い荒らされた跡はなく、首が捥がれた一頭は、切断面を近づけると綺麗に一致した。
 チャルルが半歩前に出る。
「それってつまり、故意にやったとことですか?でも、理由は?」
「そんなもん知るか。恨みとか、いくらでも考えられる」
「とりあえず、今日は新規の受付は中止だ。まだ獣が近くにいるかもしれん。この二頭の持ち主には俺の方で謝罪をしておく。チャルル、お前はこの事を宿の皆に伝えてこい。客に何か聞かれたら事故だと伝えるんだ。間違っても外に漏らすなよ。」
「了解です!」
 チャルルは敬礼をして向き直ると、僕に「じゃ、また」と軽く手を振って、宿に戻っていった。
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