胡蝶の夢に生け

乃南羽緒

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壱の抄 夢路

其の弐

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 ※
 白泉大学──環奈の通う私立大学である。
 近鉄奈良駅からおよそ十分ほど先の駅。
 車窓からも望めるそこは、フェンスを挟んだとなりに八郎と柊介が通う附属の高等部所有の敷地が広がる。高校は駅寄りにあって、大学はその正門前を通ったさらに先に建っている。

「なんだかんだでギリギリになってもた──かんちゃん間に合うけ?」
 高校の正門前にたどり着いた八郎が腕時計をのぞく。現在、八時三十分。
 高校生は予鈴まであと五分である。
「ダイジョブ。今日のかんなは始業式とかないの。九時にガッコついたら研究室のセンセとお話しするだけなのネ」
「ほんならあとでな、終わったら連絡するさかい──いっしょに帰ろ」
「ウン」
 環奈は笑顔でうなずいた。
 大学方面へと駆け出す彼女の背中を見送っていると、うしろから「おはよう」と声をかけられた。
 八郎と柊介が同時に振り返る。そこに立っていたのは、見知らぬ男だった。
 長い黒髪をひとつに束ね、すらりとした体格に全身黒ずくめのスーツをまとっている。左目の下には傷痕がひとつ。堅気かどうか疑わしいほどに雰囲気のある男である。
 どこかで見た顔だが、どこだったか──。
「あ、はざーす……?」
 八郎はぽかんと男を見上げた。誰だ、と顔に書いてある。
 その戸惑いを悟ったのだろう、男はクスクスと笑った。
「タカムラロクドウ」
 低く通る声である。
「今日付でここに赴任してきた先公や」
「あ、ほんまに先生なんや」
「お前らみたいなぎりぎりに来よる生徒を叱り飛ばすためにおんねん。早うクラス分け見て教室行けよ」
 とタカムラが言った矢先に予鈴が鳴る。
「すんません」
「行くで、ハチ」
 柊介はもう歩き出している。

 生徒がひしめく掲示板前。
 みなが一様に見上げるのは、それぞれの新しいクラス表である。
「アッ、おれ三組や。しゅうも同じやで」
「ほかは?」
「武晴、明夫──みんなおる。修学旅行学年でこれは幸先ええな!」
 八郎はガッツポーズをした。
 中学校からともに進学した友人が、同じクラスに集結している。高校二年生ではイベントも多いため、このクラス替えは最良といっていい。
 柊介は視線を上にあげる。
「おい」
 と八郎の肩を小突く。
 紙の上部、『二年三組』という表記の下に書かれた担任の氏名である。
 八郎はどきりとした。
「高村六道」
 タカムラロクドウ──先ほど会った教師の名前がそこにあった。
(…………)
 胸が騒がしい。
 あの顔を知っている。
 どこで見た。
 どこで──。
(…………)
「クラス行くで。置いてくど」
 考え込んでいた八郎の思考回路は、柊介の声によって遮断された。彼はすでに掲示板前から離れた場所にいる。
 おう、と曖昧な返事をして、八郎は柊介のもとへ駆けた。

 ※
「写真で見るより、ずっとかわいい」
 と、大学院生の黒木冴子はにっこり笑った。
 『九時に大学正門前にいてくれたら、迎えを出す』──という浜崎准教授との約束通り、正門前で佇んでいた環奈に声をかけたのが彼女だった。
 艶やかな黒髪に、切れ長で黒目がちな瞳。
 見目麗しい容姿だが、漂う雰囲気はどこか暗い。声もかき消えそうな細い声である。
 彼女も浜崎研究室に院生として在籍しているのだという。

「これが、四号館ね」
 大学敷地の奥。
 附属高校と敷地を隔てるように設置されたフェンスのそばに、その建物は存在した。
 冴子はか細い声で「先生の研究室には」と四号館を見上げる。
「三・四年生がいなくて、院生が三人所属しているの。二年生はあなたを含めて四人」
「あんましいないのデスネ」
「そうね、浜崎先生っていい先生なのだけど、毎度の課題量がすごくてみんな移籍しちゃうの」
「ふうん?」
 白泉大学は、国内の大学にしてはめずらしく、一年次の後期課程から希望の研究室を選択することとなっている。
 当初、東京のキャンパスにある文化史学科の研究室に在籍していた環奈であったが、そこで提出した論文がきっかけで、学科及び研究室を移籍した。
 四号館は、移籍先の文化財学科専用館となっており、学科の研究室はすべてここに固まっているのだという。
 入口から中へ入り、階段を降りる。
 薄暗い廊下を歩きながら冴子はほくそ笑んだ。
「共通科目の授業以外は、基本的にここを利用することが多くなると思う。覚えておいてね」
「あい!」
「ふっ」
 環奈の赤ん坊のような返事に、冴子はおかしそうに笑った。
「あなたの論文を読んで、どんなパリッとした子が書いたのかと思っていたのだけど──本人と結び付かないくらい、ギャップがすごいのね」
「ウン?」
「ううん、こっち。先生が戻るまでもう少しだから──先にメンバーを紹介するね」
 と、冴子が入ったのは『第八研究室』と書かれた一室である。三回ノックをして、戸を開ける。
 中には、男子生徒がひとりノートパソコンに向かっていた。
「あら、岩崎くんだけ?」
「黒木先輩」
 熊のような風貌の男子生徒である。
 ふくよか──というよりはガッチリとした体格で、大柄な身体つきのわりにくりっとしたどんぐり眼とちいさな唇が妙にかわいらしく映る。
 彼はアッ、と声をあげてから立ち上がった。
「もしかして例の?」
「そう。この子が研究室に入る二年生の刑部環奈ちゃん。よろしくしてね」
「オオ、ほんまにお人形さんみたいや。おんなじ二年の岩崎剛いわさきごういいます。よろしゅう」
 人の良さそうな笑みを浮かべて、岩崎剛が頭を下げる。それにつられて環奈も「よろしゅう」と頭を垂れた。
「岩崎くん、ほかの二年生は来てる?」
「あ、はい。もうまもなく戻ってくるんちゃうかな。図書館で本借りて戻る言うてたんで──あ、噂をすればや」
 岩崎が耳を済ましてわらった。
 研究室の外、廊下から足音と話し声が漏れ聞こえている。地下なのでよく響くのだ。
「──から、早うやっとけて言うたやろ」
 と、刺々しい声色で研究室に入ってきたのは、すこしボーイッシュな雰囲気の女子生徒であった。後ろにつづく男子生徒は、視線を携帯に落としたまま曖昧に返事をしている。
 女子生徒は、不服そうな顔で男子生徒をひと睨みしてから、ようやく研究室の状況に気が付いた。
「あ──黒木先輩おはようございます」
「おはよう麻由ちゃん」
「お、休み前に言うてた移籍の子ォやろ。そっちの」
 と、男子生徒が環奈を見つめた。
 麻由と呼ばれた女子生徒も彼の視線を追う。そして微かに眉をひそめて「ああ」とつぶやいた。
「刑部環奈ちゃんよ。よろしくしてね」
佐藤尚弥さとうなおや。よろしゅうな」
「田端麻由──」
「あい。刑部環奈デス」
 ぴょこんと頭を下げた環奈に、麻由は眼鏡の奥の瞳を歪めて「へえ」と唸るようにつぶやいた。
「ご立派な論文書くヤツやと思たら、ずいぶんと想像からかけ離れとったわ」
「たしかに、俺ももっとキャリアウーマン的な女の子想像しとったけど。想像のななめ上やな。こっちのが断然ええやん」
 尚弥はクククと笑う。
 それに突っかかるように麻由は「アンタは顔がよけりゃなんでもええんやろ」と刺々しく言った。
 あっ、と剛が目を見開いた。壁にかかった時計に視線を向けている。
「黒木先輩。学科会議が終わるころやと思いますよ。先生、そろそろ空いたんちゃうかな」
「そうね。環奈ちゃん行ってみましょ」
「あーい」
 気の抜けたような返事である。
 フッ、と尚弥が噴き出したときだった。研究室の扉がノックされ、ひとりの男がひょっこりと顔を覗かせる。
「あーおった。すまん遅れてもた」
「あっ先生」
 ボサボサの頭にヨレヨレのワイシャツ、眠そうに垂れた瞳の下にはくっきりと隈が出て、顎にはうっすらと無精髭すらうかがえる。
 どう見ても『だらしない』が第一印象であるこの男こそ、環奈を自研究室にスカウトした浜崎辰也准教授その人のようであった。
「会議お疲れ様でした」
「おう。案内役ご苦労やったな黒木──俺が浜崎や、わざわざ東京から戻ってきてもろてすまんやったな」
「刑部環奈デス!」
 ぴょこんと環奈が頭を下げる。
「──ほんなら刑部はこっちゃ来い。今後の履修科目とか相談せなあかん」
「あーい」
 ふたたび尚弥が笑う。
 どうやら環奈の気力の抜ける返事が気に入ったようである。その様子に、浜崎が二年生の三名をじとりと見つめた。
「お前らちゃんと仲良うなったんか」
 という質問に、自然と一同の視線は環奈に注がれる。当の彼女は嬉しそうにわらってうなずいた。
「ゴウくん、マユちゃん、ナオくん」
「────」
「もうお友達になりマシタ!」
 その言葉に、ずっとしかめ面をしていた麻由は「こいつアホや」とそっぽを向いた。
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