胡蝶の夢に生け

乃南羽緒

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弐の抄 花見

其の伍

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「えらいことや」
 と、高村は爆笑した。
 オリエンテーリングを終え、近鉄奈良駅からの帰路のこと。刑部桜の花見のため、食糧調達をした松田恵子の荷物を見た反応である。
「それで一人分の量なんか!」
「ね、恐ろしいでしょ。納得するでしょ。コイツが猛獣と言われる所以が」
 と武晴は顔を青くした。
 しかし、当の恵子は知らん顔でからあげ棒を頬張っている。その横顔に、高村は感嘆の息を吐いた。
「こんな小柄でよう入るもんやなァ」
「食べ盛りなんスよ」
「いや盛りすぎやろ」
 と柊介が口角をあげる。
「牛にも勝る女やでこれは──あいただだだッ」
「…………」
 恵子は、無言で柊介の腕を締め上げた。

 ※
「この度はお招きいただきまして──」
 刑部家の庭である。
 雄々しく咲き誇る桜樹の下、浜崎を筆頭にゼミ集団六名が八郎の母に向けて深々と頭を下げる。この場にいないゼミ生は仙石である。買い物があるらしく開始までに間に合うように向かうと連絡があった。
「これ少しですが御礼をとおもいまして」
 と、冴子から心ばかりの手土産が渡された。
 包みこそしているが、その手触りから一升瓶であることは想像に容易い。
 ゆきは機嫌のよい顔で腰を折った。
「あらまぁご丁寧にどうもです。お土産まで貰うてしもうてほんま、おおきに」
「いやとんでもない。なんやワシの知らんうちに話が決まっとってですね、さすがに迷惑やろ言うたんですけど──」
「エエんですよう」
 とゆきが目を細める。
「こちらがお礼したいくらいです。環奈ちゃんを呼んでくれた先生にも、仲良うしてくれるお友達にも。改めまして私、環奈の叔母です。高校生の息子とその友だちも来はるさかいに、ちょっとうるさいかもわかりまへんけど。どうぞ楽しんだってください」
 すでに庭にはテーブルと椅子、桜樹の下にはシートも敷かれていた。料理はこれから出すというが、そのほとんどが彼女の手作りだというから驚きである。
 なるほど、これは最優先すべき一大イベントだろう──と剛はひっそり思う。
「なにかお手伝いさせてください」
 と、冴子が胸を押さえた。
「まあ、助かるわ。それじゃお料理出すのとか手伝うてくれる? 剛くんと尚弥くんはそっちの大きいの、麻由ちゃんは盛り付けお願い。院生のみんなは飲み物……環奈ちゃーん」
「あーい」
 と、居間から顔を出した環奈の胸には、文次郎が抱えられている。これから散歩へゆくところのようだ。
「文次郎の散歩ついでに、中村さんでお酒買うてきて。先輩といっしょに」
「あーい」
 いつの間に着替えたか、スウェット姿で縁側から降りてくる。潮江は財布の中身を確認して「俺がいこう」とはりきった。
「潮江くんごめんなさいね、お願いします」
 というゆきに、
「筋トレにちょうどええですけえ」
 と、潮江はわらって門を出た。
 ──向かう先は『中村屋』という、馴染みの酒屋らしい。
 酒屋に馴染みがあるとは意外だった。刑部家の女性ふたりを見るかぎりでは、酒屋に馴染みを持つほど飲むようには見えない。
「お前の叔母さん、けっこう飲むんか」
「すっごいんだって。”うわばみ”なのネ。はっちゃんパパが言ってた」
「はっはは、人は見かけによらんな」
 角を曲がった。
 左手前で、野生の鹿が町屋の扉を鼻先でつついている。奈良公園が近いせいだろう、近隣住民は慣れているためかその光景を意にも介していない。
 福岡の田舎で生まれ育った潮江にとっては、野生動物とのふれあいはそう珍しくもないことだが、とはいえ鹿がこれほど近くに来るなど移住当初はとくに目を疑ったものだ。
「このあたりは家の方にも鹿が来るんやって?」
「ウン。文次郎のお散歩してるとたまに会うけど、みんないい子だからお互いにキョリをとってくれるのネ。でも、かわいいから鹿せんべいをたまにあげるデスヨ」
「へえ」
「あそこ!」
 環奈は無邪気に指をさす。
 『中村屋』は、家から十分ほどの場所にあった。文次郎を外につなぎ、中へ入る。
「おっちゃーん、こんちは!」
「……らっしゃい」
 カウンターには新聞を広げる初老の男がひとり。環奈をじろりと一瞥すると、ふたたび新聞に目線を落とした。
 店内は想像よりもこじんまりとしていたが、酒類は整然と並べられており、のんべえが求めるような酒がごろごろと目に付く。
 浜崎が好きそうな焼酎とハイボール用のウイスキー、炭酸水をじっくりと選び抜き、かごに突っ込む。そして潮江は環奈を見た。
「刑部はまだ二十歳じゃないよな、ジュース買うか?」
「アッ。かんな飲みたいものあるの」
「持ってこい、ついでに買っちゃるけん」
「やったやった。ありがとござマス!」
 環奈は慣れた手つきで桃のジュースを取り出し、かごに入れる。
 いつも酒屋に来るたび、ついでにこの商品を買ってもらっているのだろう──想像するとおかしくて、潮江はくすっと笑った。
「どうも」
「毎度」
 と、親爺はいった。
 会計から退店時までぶっきらぼうではあったが、環奈にはわずかに口元をゆるめ、暗黙のままに値引きをしてくれた。
 どうやら顔馴染みには甘いらしい。
「よし戻るぞ」
 潮江は両腕に酒瓶の袋を提げ、環奈は文次郎のリードを引いて、ゆっくりともと来た道を引き返す。
「ねーね、潮江センパイ」
「うん?」
「刑部桜のコト知ってたデショ。それを教えてくれたのって、今日のお花見に来てくれる子だってゆってたけど、お友達なの──デスか?」
「ああ、特別親しいってわけじゃあない。同じジムに通っとるってだけで」
 角を曲がり、右手に刑部家を捉える。
「ジムって?」
「うん」
 前を見据えていた潮江が、口をへの字にした。
 文次郎もワッと飛びはねる。
 前方から高校生の集団が迫ってくるのを見て、アッ、と環奈が声をあげた。
「ボクシングを──」
「あ」
 刑部家の前、高校生集団のうちのひとりが「潮江パイセン」と声をあげた。
 からあげ棒を口にしていた、松田恵子である。

「どうぞいらっしゃい。八郎の母です、よう来てくれはっておおきに」
 ゆきは京子と恵子の手をとって微笑した。
 武晴と明夫は中学時代から顔見知り、松子と春菜は去年の参加者のため知っている。初参加のふたりが居心地悪そうに立ちすくむので、和ませようと思ってのことである。
 案の定、京子はホッとした顔をした。
「刑部くんと同じクラスの滝沢京子と申します。このたびはお邪魔させてもろうて──ありがとうございます」
「おなじく松田恵子です。いっぱい食べに来ました」
 頭を下げる京子と対照的に、恵子はテーブルに並べられた料理に釘付けになったまま快活にいった。すかさず松子がたしなめるように背中を叩く。
「まあ可愛らしい。どうぞどうぞ、そっちからお庭に行けますから。あと、今日は大学生のお兄さんお姉さんも参加してはるの。ちょっと狭いかもしれんけど、気にせず楽しんでね」
 と、ゆきはすこし早口になった。
 まったく今日は客人が多くて、気を配る相手が多い。
「おかん、遅なったごめん」
 八郎だった。
 後ろには柊介と見慣れぬ大男もいる。前日に八郎から聞いていたメンバーを思い返すかぎりでは、彼が八郎たちの担任だろう──と決めつけた。
「まあどうも、高村先生……かしら」
「本日はお招きいただきまして、ありがとうございます。担任の高村六道です」
 パリッとした黒スーツに堅気を疑わんばかりの面構えだが、柔らかな物腰からくる品の良さがその雰囲気を誤魔化している。ゆきは恐縮した。
「お忙しいやろうにご無理言いましてすみません。八郎の母です。いらしていただいてほんまおおきに。どうぞ向こうが庭なんです、八郎ご案内してちょうだい──あ、環奈ちゃんのゼミのお仲間もいらしたはるから粗相ないようにね」
「ああ、さっき会うた。お酒買うてきたってよ」
 いいながら八郎は高村を連れて庭へと向かう。その後姿を見送って、
「柊くん」
 と、すこし疲れた顔で柊介を見上げる。
「悪いんやけど文次郎連れてきてくれる? 散歩から帰ってきて、居間で休んでると思うから」
「うす」
 勝手知ったるようすで柊介が家のなかへ上がりこむ。
 居間から派手に足音が響いてまもなく、縁側の方から歓声があがった。どうやら文次郎が参加の女性陣に愛想を振りまき始めたらしい。かわいい、とか凛々しい、といった声が聞こえてくる。
 ゆきはホッと脱力した。
 戻ってきた柊介は、彼女を労わるように背に手を添えて「オーケイ」と口角をあげる。
 まもなく仙石も合流した。これで参加者は全員だ。
 ようやく花見の開始である。
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