胡蝶の夢に生け

乃南羽緒

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参の抄 体育祭前編

其の漆

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 ※
 翌朝、環奈が目を覚ましたのは教職員の部屋だった。
 朝の四時はとうに越え、そばには新聞を読む浜崎がひとり。
「……あぇ」
「おっ。起きたか、おはよう」
 バサッと新聞を投げ捨てて、浜崎はぐいと覗き込んできた。
「先生ェ?」
「覚えとらんのか、おまえきのうトイレ帰りかなんかでとつぜんぶっ倒れてんで」
「…………」
「気分はどや、具合悪いとこないか?」
「……あい、ダイジョブです」
 環奈は掛けぶとんを鼻頭まで引き上げて、ちいさくいった。なんだか申し訳なくて浜崎の目が直視できない。
「動けるようなったら本堂向かえ。ええな」
 浜崎はぐったりとした顔でいうと、立ち上がって部屋を出ていった。あまり寝てないのだろう、無理もない。
 ただでさえ四時起きなのに、環奈の介抱で睡眠時間を削ったのだから。
 環奈は「もう起きマス!」と跳ね起きて、自分の部屋に戻った。

 本堂にて。
 全生徒を眺めながら、浜崎は後方で意味もなく本堂の中をうろついていた。立ち止まると眠る自信があった。
「浜崎先生」
 と、ひとりの修行僧が近付いてきた。
 みな坊主のため見分けが難しいが、どうやら昨日声をかけてくれた僧らしい。
「あ、どうも。おはようございます」
「昨日の夜、なにかされました?」
「は?」
「あ、しきりにあの廊下を気にされとったので、先生にはそういうお力があるんかと……」
「そういうお力……ってのは、ええと」
 浜崎はいやな予感がした。
「気配がね、朝を迎えたら消えとったんです。白泉の生徒さんの間で噂になっとるでしょう、あの徘徊する女性の話。──でも違ったようですね、失礼いたしました」
 と頭を下げた僧の腕を掴んで、浜崎は青い顔をうかべる。
「どういう意味ですか」
「やっと成仏したんかな。私がここに入って十二年になりますが──ずっとおりましたよ。でも朝になったら空気が違うて」
「──そ、その女性は」
 本堂からすこし外れたところで、浜崎は小声で問うた。
「いったいなんやったんでしょう」
 聞いた話ですが、と僧は目を細めて遠くを見つめる。
「むかしこのあたりはよく飢饉に見舞われとったようです。農作物もよう育たんいうんで、農業もやってられんちゅうて出稼ぎ族が多かったんですな。詳しいことはわかりませんが、その女性も出稼ぎに行った男をじっくりと待ってはったとか。もしかしたらその待ち人がやっと帰ってきたんとちゃいますやろか」
「そういう、もんですか」
 浜崎の脳裏にいっしゅんよぎる。

(お前じゃない、出ていきなさい)

 ──平安装束の男。
 あれは夢だったのか、はたまた現実か。
 そんな男に心当たりがないかとさりげなく聞いてみたが、僧は首をかしげるのみだった。
「なんにせよ喜ばしいことです。来年度の生徒さんはきっと、なにも心配せずに夜を迎えられますね」
 というと、僧は再度会釈して、叉手にすり足で去っていった。
 浜崎は何故だかどっと疲れが出て、同学科唯一の女性教諭である百地香織にあとの進行を任せるとたまらず本堂の外に出る。春風が優しく吹いて、気持ちの良い空気が頬を撫ぜる。
 真剣に住職の話を聞く生徒たちの後ろ姿をちらりと見てから、五分だけ──と目を閉じた。
 なんであれ、恒例の夜騒ぎが起こらなかっただけ、今年はいい参禅会になったのだろう。
 浜崎は立ったまま、一瞬にして眠りに落ちたのだった。

 ※
 ──かえろう。
 ──きっと帰ってくるから。
 ──だいじょうぶ。だいじょうぶ。

 ──ぼくたちも、かえろ。

「ただいまァ」
 ワン。
 と、文次郎が鳴く。
 一泊参禅から環奈が帰宅した夜、なにやら押し入れから荷物を広げているゆきの姿があった。
「はっちゃんママ──?」
「ああおかえり、環奈ちゃん。ごめんね散らかしちゃってて」
「どしたの。探し物?」
 と荷物を置く環奈に「そうなんよ」とうれしそうに笑って、ゆきは手元の書類をかかげた。
「さっきお父さんから電話あってね、探してほしい書類があるんやて。ようやっと見つけて写真を送ったところやったんよ。ほしたら今度はなつかしいもん見つけてもうて──」
「なつかしいもん?」
 と環奈がゆきの手元を覗き込む。後ろからついてきた文次郎は、遠慮なく環奈の膝元に頭を突っ込んでくる。
 ゆきが持っていたのは、すこし黄ばんだ二つ折りの紙が一枚。見慣れぬ紙に環奈は首をかしげた。
「なあにこれ」
「これ、おまじないなんよ」
 と紙を開く。
「…………あ」
 中には例の和歌うたが書かれていた。
 むかしね、とゆきが優しい声色でつぶやく。
「環奈ちゃんがちょうど──京都の高校に入ってすぐのころやったかな。文次郎がうちから脱走したことがあったんよ。環奈ちゃんは寮住まいやったからね、知らへんかもわからんけど」
「そうだったの!」
「うん。なんや庭の裏手から抜け出してもうて、もう三日も帰って来えへんいうて私も八郎も心配で心配でね。そしたら、お父さんがこれ書いてん。むかーし、こういうおまじないがあってんねんて」
 いつの頃からか。
 戻らない失せ人や飼い猫などの帰りを願う際、この和歌を紙に書いて玄関先に貼ると願いが叶うのだ──という噂があった。もちろん、和歌の作者はそんな意図を込めて詠んだわけではないのだが、ふしぎとそのおまじないは巷ではよく効くのだと流行っていたのだそうだ。
「三日もいてへんかったのに、それ書いた次の日に文次郎ったらお腹すかして帰ってきたんやったわねェ」
 ゆきは楽しそうにわらって、環奈の股座に顔を突っ込んでいた文次郎の尻を撫でた。
 その刺激に、文次郎はヘッヘッとうれしそうに腹を見せる。
「すごいネ。おまじないホントに効くんだ」
「どこまで行ってたんか、どこに行きたかったんかわからへんけどね。ほんでも、帰るなり八郎がワンワン泣きわめくんを見て、文次郎もなんやばつが悪かったんちゃうやろか。しばらくは八郎のベッドでいっしょに寝てあげててんよ。ねえもんちゃん」
「わん」
「うふふ、もんじろは優しいのネ」
 と、環奈はわらった。
 けれどうまく笑えなくて、あわててしゃがみ文次郎を抱きかかえる。文次郎の、盛り上がった首もとの毛に顔を埋めた。
「もんじろ……かえってきてよかったネ」
 くぐもった声で環奈はいった。
 すこし寂しそうに眉を下げてから、ゆきは優しくいった。
「お父さんはね、『文次郎はきっと京都にいてる環奈ちゃんのとこへ行きたかったんや』ていうてたよ」
「はっちゃんパパが?」
「うん。ほんでも和歌が止めてくれたんやろうなって。ここでいっしょに環奈ちゃん待とうやって文次郎に言い聞かせてくれたんやろうて笑うててんよ、ねえ文次郎」
 とおかしそうにゆきがわらう。
 言葉の意味を理解したのか否か、文次郎はワンと鳴いて環奈の顔をぺろりと舐めた。
「…………」
 環奈はなさけない顔を文次郎に向けた。そして彼のマズルに頬を寄せる。
 おかえりの場所。
 ホッと息を吐いて
「……ただいま」
 とささやいた環奈に、文次郎はまるで笑むかのように瞳を細めた。

 ※ ※ ※
 ──お別れせねばなりません。
   しかし因幡山の峰に生える松の如く
   あなたが待っているというのなら、
   私は必ず帰ってまいりましょう。──

 第十六番 中納言行平
  文徳天皇の御世。
  因幡守に任ぜられしとき
  送別の宴にて詠める。
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