胡蝶の夢に生け

乃南羽緒

文字の大きさ
35 / 139
陸の抄 光の君

其の肆

しおりを挟む
 ────。
「帰ったァ?」
 職員室にて。
 こんどは高村が顔をしかめる番だった。
 仲宗根春菜は得点こそ最底辺だが、決して授業態度や素行がわるいわけではない。今日のように担任に一言もなく早退するような生徒ではなかったはずだが──。
 職員室に報告へ行った松子と武晴が、気まずそうに顔を見合わせてうなずく。
 松子は「じつは」と身をかがめて、椅子にすわる高村に顔を寄せた。
「そのう……松田恵子と喧嘩してもうて」
「なに、松田と?」
「ただでさえ不機嫌マックスやった仲宗根に、松田がいらんこと吹っ掛けよってからに。仲宗根がぶっちんキレて」
「それで帰ったんか」
「ハァ……」
 申し訳なさそうな、困惑したような複雑な表情を浮かべる松子に、高村はひとつため息をついてから「わかった」とうなずいた。
「よう教えてくれた。まあ──松田もさっぱりして引きずらん性格なんはええところやけどな。ある種仲宗根とは正反対のタイプやし、いつかぶつかるとは思うててん。とりあえず明日また様子を見てみようか。もし学校に来えへんようやったら俺からも話してみる」
「ほんまおおきに。すんません」
「お前らが謝ることやない。どうせまた恋愛絡みなんちゃうか。まったく、若いってのは羨ましいのう」
 と高村は苦笑する。
 松子と武晴はそのまま職員室をあとにした。
 教室へ戻る道中、武晴はぐっと背伸びをして深いため息をつく。
「はーあ、めんどくせえ。仲宗根のやつけっきょくあれやろ。柊のことで悩んどんのやろ」
「うん……まあねえ」
「パッと復縁切り出してパッとフラれて終わりにすりゃええのに」
「簡単に言わんなや、そんなん」
「でもよぉ」
「おんなのこは繊細なんよ。あんたとはちゃうの」
「…………」
 すこし不服そうな顔で、武晴は「そうデスカ」とつぶやいた。

 ※
「やっぱり来てくれた!」
 総合病院外科病棟五階の五〇五号室。
 開口一番にそういって、飛び上がらんばかりに喜んだのは無論、有沢光である。当然ながら右足は吊られているため動けはしない。
 熱烈な歓迎を受けて病室の入口に立ち尽くすのは、仲宗根春菜だった。
「あ、あの」
 なにゆえ春菜がひとりでここにいるのか。それは自分でも分からない。
 先ほど、恵子に「素直になれ」と言われ、一番に思い出したのがここだった。
 ──素直になれへんときは、僕のところにおいで。
 このことば。
 彼にとっては星の数ほどいる女のうちのひとりに言ったにすぎない、この気休めのことばに、春菜は囚われてしまった。彼ならばこの気持ちをどうにかしてくれるかもしれない、とも思っていた。
「どしたん。こっちおいで」
「あ、はい」
 手土産に持ってきたお菓子をテーブルに置く。
 椅子を引き出して、春菜は頼りなさげに座った。
「あの、今日来たんは──聞きたくて」
「うん?」
「どうして、うちが素直になれへんこと」
 わかったんですか、という前に光が春菜の頬を触ってきた。反射的に春菜は身を引く。
「な、に」
「あ、ごめん──いや、あの時もそうやったけど」
 と愛想のいい笑顔を浮かべて、
「春菜ちゃん、まだ甥のこと好きやねんね」
 と言った。
「…………」
「ちょっと残念やけど、春菜ちゃんが幸せになる手伝いはしたいと思て」
「そんなに、わかりやすいですか」
「あはは、ううん。でも僕は──春菜ちゃんのこと見ててんからさ。春菜ちゃんやってそやろ、あいつに好きな人がおったら分かるんちゃうん」
「…………」
 春菜の脳裏に、よぎるものがあった。拳を握りしめてうつむく。
「復縁したい?」
「……あ」
 光を見た。彼の顔はおだやかで、春菜は泣きそうだった。
「聞かせて」
「……したい──けど」
「けど?」
「たぶん、シュウは……」
 うつむいた。
 光はふたたびその頬に手を伸ばす。その手を今度は避けることなく受け入れた。
「顔あげて」
「…………」
 春菜は泣いていた。
 その涙を掬い取るように光は顔を近づけて、舐めた。
 そのまま頬をつたってくちびるに沿わせる。
 春菜の肩にびくりと力が入った。光は構わずくちびるを押し当てて、そしてゆっくりと離れていった。
「…………」
 春菜は呆けた。
「こういうこと、柊にしてほしいん」
 光はすこし眉根をひそめて口角をあげた。この笑い方は、似ていた。
 ワンテンポ遅れて顔中に熱が集まっていくようで、春菜は戸惑い「あ」とだけつぶやく。
「あはは、かいらしい。春菜ちゃん──もっかいしよ」
 春菜の返事を聞く前に、光は再度口づけた。
 かすかに震えたそのくちびるを捕らえて、光は遊ぶようになぞった。
 春菜は手をさ迷わせていたけれど、光の服をそっと掴む。
(きもちいい)
 春菜はそう思った。頬を真っ赤に染めて肩を震わせてはいたけれど、嫌ではなかった。
 長いながい時間くっつけていたくちびるを離し、潤む瞳で光を見上げた。
「僕は春菜ちゃんに自信を持ってほしい。こないにかわええのやさかい」
 と、光は笑った。
 顔から熱が引かない。ここに来るまで、有沢柊介でいっぱいだった脳みそは、たった二回の口づけですべてが光に塗り替えられたような錯覚。
 慌てて立ち上がった。
「あの、あ……うち、帰りますッ」
「うん。またおいで──できればひとりで」
 光は自身のくちびるに触れながら、目元を笑んだ。
 たまらず春菜は病室を飛び出す。
 廊下は走るな、という貼り紙が目に入り、早足で病院を抜ける。

 交通事故のようなキスだった。ファーストキスである。
「やば、」
 危険だ。
 赤信号が点滅している。春菜もそれは重々承知していたつもりだった、のに。
「……やばいって」
 バスの中で、ひとり呟く。
 先ほどのキスを何度も何度も反芻し、春菜はぽろりと涙をひとつこぼした。
「────」
 これが、柊介からのキスだったなら、今よりも幸福に満たされるのだろうか。
 すこし落ち着いてきたころ、いつしかそんなことすら思うようになった自分が嫌になった。それでもまだ、柊介が好きなのだと思った。

 ────。
 その日の夜、久しぶりに夢を見た。
 ここは病室である。
「やっぱり来てくれた!」
 そう喜ぶ光を前に、これは記憶だと思った。
 光はやはりどこか柊介に似ていて、春菜は昼間のキスを思い出して照れた。
 しかしこれは、夢である。
「甥のこと、好きでしょう」
 光がいった。
 春菜はぎゅっと目をつぶる。昼間のキスを思い出す。
 考えてみればめちゃくちゃな話だ、自分の好きな人の叔父さんとキスをするなんて。
 けれど、次に誰かとキスをするまで、おそらくは忘れられないキスになった。

『難波江の 芦のかりねの 一夜ゆゑ
          みをつくしてや 恋ひわたるべき』

 もはや胸が詰まる想いである。
(でも。……)
 それでも忘れなければ。
 ──あの男は、まるで麻薬だ。

 春菜は夢のなか、ひとり途方に暮れた。

 ※ ※ ※
 ──葦のなかのほんの一節のような
   一夜限りの仮寝のせいで、
   私はこの身を尽くしてあなたに
   恋をし続けねばならないのですか。──

 第八十八番 皇嘉門院別当
  右大臣兼実の歌合せの折、
  『旅宿に逢う恋』の題にて
  詠める。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

【完結】結界守護者の憂鬱なあやかし幻境譚 ~平凡な男子高校生、今日から結界を繕います~

御崎菟翔
キャラ文芸
​【平凡な高校生 × 妖従者たちが紡ぐ、絆と成長の主従現代和風ファンタジー!】 「選ぶのはお前だ」 ――そう言われても、もう引き返せない。 ​ごく普通の高校生・奏太(そうた)は、夏休みのある日、本家から奇妙な呼び出しを受ける。 そこで待っていたのは、人の言葉を話す蝶・汐(うしお)と、大鷲・亘(わたり)。 彼らに告げられたのは、人界と異界を隔てる結界を修復する「守り手」という、一族に伝わる秘密の役目だった。 ​「嫌なら断ってもいい」と言われたものの、放置すれば友人が、家族が、町が危険に晒される。 なし崩し的に役目を引き受けた奏太は、夜な夜な大鷲の背に乗り、廃校や心霊スポットへ「出勤」することに! ​小生意気な妖たちに絡まれ、毒を吐く蛙と戦い、ついには異世界「妖界」での政変にまで巻き込まれていく奏太。 その過程で彼は、一族が隠し続けてきた「残酷な真実」と、従姉・結(ゆい)の悲しい運命を知ることになる―― ​これは、後に「秩序の神」と呼ばれる青年が、まだ「ただの人間」だった頃の、始まりの物語。 ​★新作『蜻蛉商会のヒトガミ様』 この物語から300年後……神様になった奏太の物語も公開中! https://www.alphapolis.co.jp/novel/174241108/158016858

幽縁ノ季楼守

儚方ノ堂
キャラ文芸
「季楼庵当主の代理を務めてもらう」 幼少期、神隠しにあった過去を待つ青年ユメビシ。 迷い込んだ先で、事件に巻き込まれ両手を失い、生死を彷徨うことに。 ただ「死にたくない」と望んだ願いは、ある故人の手を移植することで実現した。 これを境に不死の体質へと変貌したユメビシは、約70年の時を経て、因縁の土地『瞑之島(みんのとう)』へ帰還する。 しかし、どうして今自分がここにいるのか、その理由となる記憶がすっぽり抜け落ちた状態で……。 奇妙な忘却に焦りを抱えながら、手がかりを求め探索するさなか、島の中枢を担う組織『季楼庵(きろうあん)』の面々と関わりを持ち、次々と巻き起こる騒動に身を投じていくのだった。 現代において、人と人ならざる者が共存する瞑之島を舞台に、半ば強制的に当主代理に据えられたユメビシの非日常。 異色の現代ファンタジー✖️和風奇譚✖️ミステリー 様々な思惑が交錯する中、彼の帰還を以て、物語は一つの結末へ動き出す。 その約束は、何十年何百年経ち、たとえ本人達が覚えていなくとも。 幽かな縁で繋がり続け、決して解けない糸となる。 それを人は、因縁――またの名を『呪い』と呼ぶのだった。

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

祓い姫 ~祓い姫とさやけし君~

白亜凛
キャラ文芸
ときは平安。 ひっそりと佇む邸の奥深く、 祓い姫と呼ばれる不思議な力を持つ姫がいた。 ある雨の夜。 邸にひとりの公達が訪れた。 「折り入って頼みがある。このまま付いて来てほしい」 宮中では、ある事件が起きていた。

大ッ嫌いな英雄様達に告ぐ

鮭とば
ファンタジー
剣があって、魔法があって、けれども機械はない世界。妖魔族、俗に言う魔族と人間族の、原因は最早誰にもわからない、終わらない小競り合いに、いつからあらわれたのかは皆わからないが、一旦の終止符をねじ込んだ聖女様と、それを守る5人の英雄様。 それが約50年前。 聖女様はそれから2回代替わりをし、数年前に3回目の代替わりをしたばかりで、英雄様は数え切れないぐらい替わってる。 英雄の座は常に5つで、基本的にどこから英雄を選ぶかは決まってる。 俺は、なんとしても、聖女様のすぐ隣に居たい。 でも…英雄は5人もいらないな。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

白苑後宮の薬膳女官

絹乃
キャラ文芸
白苑(はくえん)後宮には、先代の薬膳女官が侍女に毒を盛ったという疑惑が今も残っていた。先代は瑞雪(ルイシュエ)の叔母である。叔母の濡れ衣を晴らすため、瑞雪は偽名を使い新たな薬膳女官として働いていた。 ある日、幼帝は瑞雪に勅命を下した。「病弱な皇后候補の少女を薬膳で救え」と。瑞雪の相棒となるのは、幼帝の護衛である寡黙な武官、星宇(シンユィ)。だが、元気を取り戻しはじめた少女が毒に倒れる。再び薬膳女官への疑いが向けられる中、瑞雪は星宇の揺るぎない信頼を支えに、後宮に渦巻く陰謀へ踏み込んでいく。 薬膳と毒が導く真相、叔母にかけられた冤罪の影。 静かに心を近づける薬膳女官と武官が紡ぐ、後宮ミステリー。

火輪の花嫁 ~男装姫は孤高の王の夢をみる~

秦朱音|はたあかね
キャラ文芸
王を中心に五家が支配する、綺羅ノ国。 五家に覡(かんなぎ)として仕える十六夜家の娘、久遠(くおん)は、幼い頃から男として育てられてきた。 都では陽を司る日紫喜家の王が崩御し、素行の悪さで有名な新王・燦(さん)が即位する。燦の后選びに戦々恐々とする五家だったが、燦は十六夜家の才である「夢見」を聞いて后を選ぶと言い始めた。そして、その夢見を行う覡に、燦は男装した久遠を指名する。 見習いの僕がこの国の后を選ぶなんて、荷が重すぎる――! 久遠の苦悩を知ってか知らずか、燦は強引に久遠を寝室に呼んで夢見を命じる。しかし、初めて出会ったはずの久遠と燦の夢には、とある共通点があって――? 謎に包まれた過去を持ち身分を隠す男装姫と、孤独な王の恋と因縁を描く、和風王宮ファンタジー。 ※カクヨムにも先行で投稿しています

処理中です...