胡蝶の夢に生け

乃南羽緒

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漆の抄 離愁

其の参

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 ※
 翌週の月曜日。
 授業を休んだ環奈と麻由は、聖天正女子大学の昼休み時間を狙って正門の前までやってきた。
 小町とはそこで待ち合わせをしている。

 ──鞠花のお心を確認します。

 あのあと、ファミレスでそういった小町に、麻由は「私もいく」と名乗りをあげた。以前一度だけ、尚弥の彼女に会ったことがあるという。
「人としてふざけたことぬかしたら、アンタの彼女なんて関係なく喝いれたるわ」
 正義感のつよい彼女らしい言い訳である。

「こちらです」
 小町は、勝手知ったるようすでなかをゆく。
 間もなく聖天正女子大学の食堂前へたどり着いた。
 中には、二限に授業がないのか、生徒がちらほらと勉強をしたり携帯を見たり。
 環奈と麻由は、適当な場所に座った。
「お嬢の学校ってかんじやわ。学食のメニューヤバイで」
「コロッケ定食だァ。いいなぁ」
「──向こうさんは今日のこと知ってはるん」
「もちろん。まもなくいらっしゃるわ」
「……もし佐藤に会わへんとか言われたら」
「そんなことは、言わせませんよ」
 ひそりと笑う小町の笑みに、麻由はぐっと黙った。その笑みはどこか父親に似て、人を黙らせる力があるようだ。
「来たわ」
 小町が顔をあげた。麻由も「ああ」とうなずく。
 初対面なのは、環奈だけだ。
「マリカ」
 小町の声が彼女に届く。
 彼女はこちらを認識するや、すこし青い顔でやってきた。
「小町さん──と、あれ……タバタ、さん?」
「どうも覚えててもろうて」
「そっちは……うわ、この子もごっつかわええ」
「刑部環奈デス!」
「柴山鞠花です。どうぞよろしゅう」
 鞠花はぺこりと頭を下げた。
 しかしすこしフラついて「ごめん」とつぶやく。
「場所変えてもええ? ここ、匂いキツイねん」
「どこでもええよ」
 三人は素直にうなずいた。

 鞠花が向かった先は、校舎裏の人気のない場所だった。
 近くにあった階段の一段に腰かけて、鞠花は抱えた己の膝小僧をじっと見る。見てから、
「それで」
 聞きたいことってなに──とつぶやいた。
 返したのは麻由だった。
「まず佐藤と別れるってのは、アンタとオヤジさん、どっちの意思?」
「…………」
 鞠花は、一瞬黙ってから「どっちも」と呟いた。
「お父さんに別れろ言われたけど、……最終的に別れるて決めたんはうちやから」
「どうしてか、佐藤に理由は言えへんの」
「────」
 続いて小町が口をひらく。
「尚弥さまは、もう復縁はよいのですって。ただ一度だけでいいからマリカと話したいと。マリカは?」
 鞠花は、ぐっと唇をかみしめた。
「……直接、は無理」
「なんで」
 麻由が、冷たく放つ。
 しかし彼女は答えずに、膝を抱えたままそれきり黙り込んでしまった。
「わるいけど、その答え聞くまで離れへんで」
「つーか、なんなん──タバタさんに関係あらへんやん」
「関係ねェよ。……でも佐藤があんだけ泣くの見たったら──目の前でやで。もう関係ないことあらへんやろ」
 という言葉に、鞠花がぴくりと肩を揺らす。
 尚弥が泣いた──というのは、鞠花にとっても想定外だったようだ。
 畳みかけるように、麻由はつづける。
「アンタの理由がどないにクソでも、外道でもええねん。理由があるなら聞かせてほしいし、あらへんなら佐藤と会うてほしい」
 鞠花の瞳から、涙が一粒こぼれた。
 その様子をずっと黙って見ていた環奈が、こぼれた涙を指で掬う。
 鞠花は、いった。

「妊娠、したの」

 カナカナカナ、とひぐらしが鳴いた。
 ただよう静寂に風の音さえ耳に響く。
 麻由と小町は絶句し、環奈はぽかんと口を開けて鞠花を見つめる。
 誰の──と聞くのははばかられ、麻由が口ごもったのを見て、
「尚弥の子、……とちゃうねん。────」
 と、つぶやいた。
「今度お見合いするはずやった人。社交界で偶然知り合うて、その日に」
 たった一回やったんにさァ、とも続けて苦笑する。
「それは──」
 麻由と小町は顔を見合わせ、なぜか環奈に視線を向けた。複雑な表情のふたりとは裏腹に、
「わあーおめでとう!」
 と環奈は飛び上がる。
「アンタ……ぶれへんな」
 麻由は苦笑した。
 小町は黙って腹を覗き込む。
 腹の具合ではまだ『そう』とはわからないが、確かに鞠花の顔色は悪い。化粧で隠しているようだが、隠しきれていない隈が見えた。
「お、おおきに」
「オトコのコ? オンナのコ?」
「まだわからへんよ」
 という鞠花に「せやな」と笑って、麻由は羽織っていたシャツを彼女の肩にかける。
 そして、
「……産むんよな?」
「────」
 鞠花は控えめにうなずいた。

「尚弥とは、もう無理かな──とは思ててん。うちの家もこんなやし、あれはアレでいつもゴーイングマイウェイやから、絶対うちの家なんかソリ合わへんし。今までは学生恋愛できる歳やったから続いててんけど、二十歳になるねんからそろそろ考えェって、お父さんに言われて」
 そんなとき、父親が出席する社交界に同席した際に知り合ったのが、その男だという。
 お見合いすることも双方知っていたし、意外にも意気投合したために、酔った勢いで一夜の過ちを犯してしまったのだ──と。
 鞠花は堰を切ったように話しはじめた。
「オヤジさんは知ってはんの?」
「知ってる。相手が誰かも──めちゃくちゃ怒られたけど、いまでは元々お見合いする予定やったし結果オーライて言うてる、けど。──」
「なるほど──たしかに、佐藤の存在を抜きにして言や、アンタが納得してはるなら何も問題はなかったわけか。……ううん、それは言えへんな。佐藤には言えへん」
「い、言わへんの」
「言えるわけないやろ」
「でもそれじゃ」
「なんもかも正直に話すんだけが優しさとちゃうねん」
「…………」
 麻由の言葉にうつむく鞠花に、小町は顔を近づけた。
「お身体のようすはいかが、つわりはあるの?」
「うん、多少は。でも──うちはけっこう軽い方みたい」
「そう。……身体を冷やすといけないわ。さっきの、匂いのそう強くないところに行きましょう。尚弥さまとのことはそちらで」
「……ごめん」
 鞠花は、ゆっくりと立ち上がり、肩にかかったシャツを触ってまたぽろりと涙をこぼした。
 その涙に、麻由も小町も、環奈でさえも触れようとはしなかった。
 ただ、ゆっくりと進む彼女の歩調に合わせることだけに、集中した。

 匂いがキツイ、と再度いった鞠花を考慮して、一行は調理場から一番遠い窓側の席に腰かけた。
 ここならまず気にならない。
「尚弥さまのこと──一回会ってほしいのは、変わらないの」
「……うん」
「でも理由を言う必要はないわ。ですから、こういうお休みのときにすこし外に出てきてほしいの。おのこがここへ入ったら怪しまれますから」
「会うて──それで、なんて言うたらええのん」
「言いたいことないなら、なーんも言わなくていいのネ」
 突然、環奈がいった。
 にこにことひとりだけ、場違いに明るい笑みを浮かべている。
「尚弥は、なんて」
「逢いたいんやて。せめて直接、顔見てすっきりしたいんやろ」
「…………」
 うちに関心持ってるんや、とつぶやく。
 これまで付き合ってきたときのことを考えると、すこし驚いたらしい。
「あいつ、なにかっちゅうとゲームばっかで。うちのことどうでもええのんやと思てた」
「へえ──せやけど、授業サボるときは大抵ゲームか彼女いうてたで」
「会いたい、って……うちが言うてたからね」
 鞠花は苦笑した。
 しかし麻由は首を振る。
「ほんでもそれで、あの究極の面倒くさがりが毎度会いに来ててんのやろ。すごいことやわ」
「そ、かな」
 そわ、と身をよじらせた。
 それきり黙った麻由に代わり、小町が身を乗り出す。
「尚弥さまはいまでもマリカのことを大事に思っていらっしゃる。マリカが傷つくことは言わないわ。だから──会ってくれる?」
「……うん、わかった」
「ありがとう」
 小町はほう、と頬を染めて微笑した。
 その後、父親から別で持たされたという携帯の番号を教えてもらった。
 決行は、明日の火曜日。
 場所は大学からほど近い喫茶店となった。
「あとは、なにかあったらメールする」
「おおきに──ごめんね」
 そして鞠花は、自分の肩にかかっていたシャツを脱いだ。
「タバタさん、これおおきに」
「ああ。──」
「ほんま、…………」
 おおきにね。
 最後の最後までそういって、鞠花はどこか浮かない顔で手を振ってくれた。

 三人は、電車に揺られる。
 無言のまま白泉大学の最寄駅へ向かう電車のなか、不意に小町が声をあげた。
「鞠花の子、本当に見合い相手の子なのかしら」
「え?」
 麻由が眼鏡の奥の瞳を揺らす。
「──いえ」
「…………」
「ごめんなさい、聞くだけ不毛なことでした。いまのはお忘れになって」
 とうつむき、小町は環奈の肩に頭をあずけた。
 環奈を挟んだ右側に座る麻由は、しばらく車窓を眺める。が、ひどく疲れた顔で口を開いた。
「──もしせやったとして……その事実って誰も幸せにならへんのちゃうか」
 麻由はつぶやいた。
 隣に座る環奈は黙っている。小町は、
「あはれ。……」
 と一言だけ。
 みょうに声を震わせて、
「──あの子の言葉が、事実と願うばかりや」
 と環奈の肩に頭をもたれた麻由は、目を閉じた。ふたりとも落ち込んでいる──と環奈はおもった。
 だから、明るい声で言った。
「赤ちゃん、元気に生まれるといいネ!」
「……ええ」
 小町も同じく、目を閉じたまま笑った。
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