胡蝶の夢に生け

乃南羽緒

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漆の抄 離愁

其の弐

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 ※
「ナーオくん、あーそーぼ」
 とあるアパートの三階。
 部屋の前で、環奈が上体を揺らしている。
 そのうしろには麻由が「遊ぼってなんやねん」とツッコミをいれた。
 この一週間、授業を欠席していた尚弥だったが、唯一無欠席であったゼミすらも休んだことを心配して、三人が訪ねてきたのである。

「ナオくん、ナオくん、ナオくーん!」
「刑部、そろそろお隣さんに迷惑やって」
 と、剛も巨体を縮めて環奈を抑える。
 しかし環奈は強情に「ナーオくーん」と呼びかけることを止めない。
 環奈の声がフロアに響くことおよそ五分。
 中からバタバタと音がして、とうとう玄関扉がゆっくりと開いた。
「あっ、ナオくんおはよー!」
「お前──ええ加減にせえよ、しばくぞ……」
 掠れた声で、ひどく青白い面相ながら目元と鼻頭を真っ赤に染め、いつものニヒルな男前は見る影もないほど泣き腫らした顔を浮かべる佐藤尚弥が、そこにいた。

 それから三十分後。
 フードを目深にかぶり、マスクをつけた尚弥を引っ張る形で、一行の姿はとあるファミレスにあった。
「おい刑部──おまえなにがしたいねん」
 と尚弥はマスクの下で怒りも隠さずにつぶやく。
 環奈が「マリカちゃんのコトでお話あるの」といって、部屋から連れ出したことに腹を立てているらしい。
 麻由と剛も、尚弥が彼女と別れていたことすら知らなかったために、彼の怒りに対するフォローも出来やしない。
 しかし環奈は気にせず、カバンを漁った。
「もうすぐむっちゃん来るから待ってて! ハイ、アイスノンでお目目冷やすのネ」
「なん、おま、な……なんでアイスノンやねん」
「いやツッコミそこちゃうやろ」
「あ、つめた……」
 アイスノンを目に当てる。
 目元と同時に怒りも冷えたか、尚弥はそれきり無言になった。
 その沈黙の間に、麻由が環奈をにらむ。
「刑部、ホンマになにがしたいん。高村センセが佐藤のこと知ってるんも謎やけど──なんや、失恋復活祭でもやろってか」
「うーうん違うヨ。ナオくんだけじゃなくってもひとり、ムネンを晴らさなくっちゃいけない人がいるのネ。そのお手伝いなのヨ」
「もうひとり──?」
「あっ、むっちゃん来た!」
 環奈がパッと手をあげた。

 入口には高村と、姿は見えぬが道雅がついてきている。そしてもうひとり共にいたのは、見惚れるほどの美女。──無論『式』となった小町である。
 麻由と剛はあんぐりと口を開け、うつむいていた尚弥も一瞬にして小町に釘付けになっている。
「遅くなった。……麻由ちゃん、そっち移れるか。環奈はちと詰めろ」
「ウン」
「あ、はい」
 麻由は腰をあげて、剛と並んだ尚弥の隣に移る。環奈はサッと奥へスライドして小町の手を引いた。
「小町ちゃん? お洋服もかわいいね!」
「ありがとう、環奈」
 うっそりと微笑む小町。
 その美しさは、隣の環奈に勝るとも劣らず。いや色気を含めて見てみれば、環奈すら霞むほどのものだ。
 なんという目の保養か──と尚弥と剛は目の前の光景に息を詰めた。一般的な顔立ちをした麻由からすれば失礼千万な話ではあるが。
「さて、話ってのは他でもない。佐藤くん──キミの彼女のことやねんけども」
「…………」
「その前にうちの娘を紹介しよう。小町や」

「娘ェ!」
 剛は目玉が飛び出るほどに驚いた。
 二十歳前の美少女と見たが、どう見ても高村は三十代半ばである。いったい何歳のときに──とテーブルの下で指を折る。
 しかしそんなことは気にせず、高村はすこしオーバーに、白々しく話を進めた。
「うちの小町がな──なんでか最近、鞠花ちゃんと仲良うなってん。ほんでたまたま彼氏と別れたらしいってのを聞いたらしくてよ。名前聞いたら佐藤尚弥やて。俺とよう話しててんから、小町も偶然知った名ァやってんよな。なあ?」
「ええ、おどろきでしたわ」
 まったく、毛ほども驚いた素振りもなく、無表情で小町はうなずいた。
 お嬢様言葉だ──。
 剛と尚弥が背筋を正す。
 いろいろ聞きました、と小町は尚弥を見据えた。
「鞠花も、実業家の一人娘。おとうさまのお気持ちは理解していて、お見合い結婚も覚悟しているのですって」
 という顔は釈然としていない。
 けれど、とそのまま続けた。
「尚弥さまへの想いもそれは断ちがたく──。このまま、なんの話しもなされず終わるのはよくない。とはいえ、鞠花はどうせ会えぬと諦めております。だから尚弥さまのお気持ちを」
 聞きたくて──とすこし尻すぼみに呟くのを最後に、小町は口を閉じた。代わりに続けたのは父の高村六道である。
「と、娘がいうもんで──なんや佐藤くんの気持ちを聞いてみようとなったわけや」
「…………」
 尚弥は閉口した。
 唐突な申し出に、なにを言うでもなくアイスノンを握りしめる。
(なにに迷っているのか)
 高村が目を細める。今朝の夢路で聞いた言葉を思い出した。

 ──格好わるいのはごめんだ。

 と。
 ひとつ言うておくぞ、と高村はムッとした。
「キミの考える格好わるさってのが、ジタバタと足掻くことなんやったら、それはちがうぞ」
「…………」
「やりたいことがあるのに、体裁気にしてなんも動けへんことを言うねん。でもキミはちがうやろ」
 尚弥は、なにも言わない。
「そら悔しいわな。大好きやってんから」
「………………………」
 顔がゆがむ。
 高村の背後で胡座をかいていた道雅も、ぐっとうつむく。
 尚弥の瞳から涙がひとつこぼれた。一度ゆるんだ涙腺は簡単には締まらない。尚弥はどんどん涙をこぼして、しまいには嗚咽まで漏らした。
 この一週間で、枯れ果てるほど流したはずの涙は、留まることを知らない。
 剛と麻由が無言で背中を擦ってやる。
「なんも言わんと、このまま諦めたろうて思てんねんやろ。それでエエんか」
「…………う、ぅ──っ、」
「せめて一言伝えたらな、終わるもんも終わらんで」
「で、も」
 人付き合いに冷淡ないつもの彼はどこへやら──。尚弥はマスクを引き上げてうなだれる。
 小町が身を乗り出した。
「手引きなら小町も手をお貸しします。尚弥さまが、ほんのひとときでも、鞠花と話したいとおっしゃるのなら!」
 そーだよ、と環奈も大きくうなずいた。
「オヤジのいいなりになったらダメ。かんなも、マユちゃんもゴウくんもお手伝いする!」
「せやで尚。俺らもついとる」
「……せめて一言くらい、言ったりーよ」
「ねっ、ナオくんがホントにしたいこと」
 教えてよ。
 と、環奈は彼の瞳の奥を覗きこむ。
 尚弥は気付いた。
 背中に添えられた手の熱、小町と環奈の拳にこもる熱、高村の瞳に宿る優しさも──。
 ズ、と鼻をすすって、尚弥は、環奈を見つめ返した。
「一言、言うだけでええ。十秒でもいい──」

 逢いたい。

「…………」
 けなげな願いをした彼の手をとる。
「──ウン!」
 そして環奈は微笑した。
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