胡蝶の夢に生け

乃南羽緒

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漆の抄 離愁

其の伍

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 ──ウェルシュコーギー・ペンブローク、刑部文次郎(五歳♂)のとある一日。

 午前六時三十分、起床。

「おはよう、もんちゃん」
 と、朝ごはんの支度をするゆきのもとへ挨拶。
 全身をしこたま撫でてもらったら、次に向かうは階上の部屋──環奈のもとへ。

 短い足で階段をのぼり、爪音を立てて廊下を歩く。ふすまを鼻でこじ開けて中へ入り、ベッドに飛び乗って顔全体で布団をまくる。
 なかに埋もれた環奈を発掘したら、顔を踏んづけて強制的起床を試みる。
「いだっ、うぅーん……」
 が、これしきのことで起きる彼女ではない。
 眉をしかめて枕に顔を埋めたのを見て、すかさずベッドの上を踏み荒らす。そののち三度ほど顔を踏んづければ、
「…………ンぁあ。もんじろ、おはよう」
 とようやく覚醒するのである。

 つづいて向かうは、八郎の部屋。
 中には入らない。部屋の外から覗くのみだ。
 いつものように窒息せんばかりに枕へ顔を押し付けて寝ている八郎を確認して、そのまま階下へ。彼を起こすとウザいほどキスが降ってくるので、イヤなのだ。

 午前七時、散歩。

 ぴょこんと跳ねたひと房の前髪に、眠気眼をこする環奈を引きずるように、外へ。
 一分ほど歩くとすっかり目が覚めるのか環奈は元気よく走り出す。どちらのための散歩か分かったものではない。
「もんじ、川の方に行こう」
 散歩ルートはさまざまあるが、今日は佐保川散策の気分のようだ。
 つい二ヵ月前までは満開の桜が咲いていたが、梅雨も明けると桜樹には青々とした緑が生い茂っている。環奈は上機嫌に川べりに近付く。
 桜樹の根元にもたれるサラリーマンは、きょうも変わらずそこにいる。
 川べりを這いすすむ老婆も、並木を往復する女性も──変わらず。

「おはよう!」
 環奈は、彼らに声をかける。
 けれど文次郎はあまり好きじゃない。なぜなら彼らからはこの世のものとは思えぬほど、ひどく異臭がするからだ。あきらかに八郎や柊介、ゆきなどとは毛色のちがう存在であることは文次郎にもわかっていた。
「ワンッ」
 と文次郎がひとつ鳴く。
 関わるな、と言いたかったが──環奈はにこにことアホみたいにわらって並木をくるくると踊りまわる。
「はーあ、じめじめするゥ。もんじろ、そんなに毛皮を着込んであっついデショ。川で水遊びでもしようよ!」
「……ウゥー」
 文次郎は鼻頭にしわを寄せた。
 靴を脱いで水に足をつけようとした環奈をぐいとひっぱって、必死に水際から距離をとらせようと試みる。が、環奈は「やー」と駄々っ子のようにわめいた。
「きょう、かんなガッコおやすみなのヨ。時間はダイジョブだから!」
(そうじゃねーよ!)
 という心をこめて、文次郎はワンと鳴く。
 しかしながら環奈はそれを振り切って、足先をちょんと水につけた。
「ひゃあ、ひゃっこい。朝の川はちべてえナー」
「…………」
 あーあ。
 文次郎はあきらめたように川べりで腹を地面につけて座った。なにかあったらすぐにでも動けるよう、顎はあげている。
「おさかな、おさかな……アッ」
 バシャ。
 環奈が唐突にしゃがんだ。
 ハッと文次郎が立ち上がる。が、まもなく環奈は勇ましく立ち上がってバシャバシャとこちらに駆けてきた。
「みてみて文次郎、キラキラ星! あ、うーん。石!」
(投げるの?)
 文次郎はくいと鼻頭を上に向ける。
 しかし環奈は「投げないよ」とわらってふたたび水面を覗き込む。まだキラキラ石なるものを探したいらしい。
「あったあった──ん?」

 環奈が声をあげる。
 そちらを見ると、彼女は水をかきわけてこちらに戻ってきた。その手にはイヤな臭いをまとうなにかが握られている。
「ペンダント落ちてたのネ。ほら、きれいなの」
「……ウゥー」
 鼻をひくつかせ、つんとそっぽを向く。
 臭くて鼻が曲がりそうだ。──無論、犬の嗅覚でしか感じ取れない程度のものではあるが。
 環奈は、水からあがって文次郎のとなりに腰かけた。
「なんか絡まってる。うぅーん?」
 そして手中のなかをじっくりと覗き込んでいる。
 文次郎もいっしょになってそこに鼻先を寄せたとき、ぎょっと目を剝いた。

 藍色の宝石でつくられたペンダント。──そこに長い髪の毛がからまっている。

「きれいネ。これなんてんだろ」
 宝石の名前を文次郎が知るはずもない。
 が──環奈は「へえ」とわらった。
「ラピスラズリっていうのネ」
 ハッと後ろを見る。いつのまにか、並木を往復していた女性が環奈のうしろにしゃがみこみ、宝石を指さしていた。その顔にはうっすらと微笑みが浮かんでいる。
 とたん、文次郎が「ウーッ」とはげしく牙を剝いた。
 イヤな臭いだ。
「怒っちゃだめよもんじろ。うっふふ、きれいだねェ。石なのに星みたいにキラキラしてる」
「ラピスラズリ」
 女はつぶやいた。
 暗い声だがどこかうれしそうでもある。
「オネーサンくわしいのネ。これ好きなの?」
「…………わたしのペンダントなの」
「え? これ?」
「……そうよ」
「落としちゃったのネ!」
 環奈は快活にいった。
 いいえ、と女はうすくわらう。

「わたしが、捨てたのよ」

 そして女は環奈の手に指を伸ばした。
「ゥワンッ」
 文次郎がその手を噛んだ。
 女ははっと手を引っ込める。が、環奈も間髪入れずに文次郎の顎をがしっとつかんだ。
「コラッ。もんちゃんダメよ!」
「ウーッ」
「どしたんだろねこの子は──ごめんなのサ、オネーサン。そんでさ、これ捨てたんだったらもういらないものなの?」
「……ええ」
 そんじゃ、と環奈がわらう。
「かんなもらってもいーい?」
(やめとけ!)
 と、喉の奥で吠えた文次郎。しかし女はほくそ笑み、
「…………ええ」
 とだけいった。

 ※
 午前七時四十分、帰宅。

 玄関をあけたと同時に、ちょうど八郎が階段をおりてくるところだった。
 環奈と同様にぴょこんと上がったひと房の前髪に、ライオンのような寝癖はいつものごとく──。
「あ、おはようかんちゃん」
 と眠気眼をこする八郎に、環奈はぴょんと跳ねて「オハヨウ!」と手をあげた。

 が、しかし。
 先ほどから文次郎はツン、とそっぽを向いたまま動かない。手脚や腹を拭き上げられている間も気に食わないようすで環奈をにらみつけている。環奈は困ったように眉を下げた。
「なんでそんなに怒ってるのォ」
「なに。文次郎がどうしたって」
 と八郎は覗き込む。
 すると文次郎は環奈のポケットに鼻先をつっこんだ。そのままフガフガと鼻を鳴らしてポケットのうちにあった宝石を鼻先で叩き落とす。
「アッもう──もんちゃん、これキライなんだから……」
「なにそれ」
「これねェ、川で拾ったんヨ」
「川で!? なんでもかんでも拾ってきたらあかんやないか、かんちゃん」
「でも、女のシトがくれるって言ったんよ」
「女?」
 八郎が眉をひそめた。そして文次郎をちらと見る。先ほどから機嫌のわるそうな文次郎を見て、なにかイヤな想像をしたのだろう。
 それ、と環奈の手中を指さした。
「よくないもんなんちゃうん。ほら、宝石とかって念が込められてるとかよう言うやん」
「きれいだからいーのっ。はっちゃんママーッ、朝ごはん食べるぅ」
「あ、こらかんちゃん!」
 バタバタと居間へ駆けてゆく環奈に、八郎は眉を下げた。文次郎はふて腐れたように鼻をならす。
 そして、八郎に朝飯を催促した。
「あ、せやな。いま飯食わしたるさかいな──」

 ──午前七時四十五分、朝餉。
 決められた朝のルーティンは、以上である。

 しかしきょうはなんとなくきな臭い。文次郎は餌皿に突っ込んだ己の鼻頭をあげて、ぺろりと舐めあげた。
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