胡蝶の夢に生け

乃南羽緒

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漆の抄 離愁

其の陸

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 午前十時から十二時、うたた寝。

 昼すぎ、八郎の部屋で目が覚めた。
 となりでは部屋の主が漫画本を顔に伏せてねむっている。うっすらと汗をかいているのは、梅雨明け間近のじっとりとした湿気によるものか。
 暇なヤツ、と思いながら文次郎は音もなく立ち上がった。
 ──どうにもきな臭い。
 環奈の部屋からあのイヤな臭いがしない。どうやらうたた寝をしている間に、環奈はどこかへ出掛けたようだ。

 階下へおりて、庭に出る。
 庭に面した道路から微かに環奈の匂いがした。これは──あの場所に続いている。
 チラと縁側を見た。
 ゆきは在宅の仕事に勤しんでいるのか、文次郎の行動には気付いていないようす。ここぞとばかりに、以前脱走時に空けた竹垣の穴をするりと通って外に出た。
(かんな──)
 環奈の匂いをクンと嗅いで、文次郎は駆け出した。

 目指すは、高村六道の家である。
 
 ※
 高村六道──環奈たちとも、川縁にいた者たちとも違う匂いをもつ。その匂いはどこか懐かしくて、やさしくて、みょうに胸をくすぐった。だからか文次郎は高村という男が嫌いじゃなかった。

「あら、文次郎!」
 身に覚えのあるお香の匂い。
 門前でウロウロしていた文次郎に声をかけてきたのは、宙を浮く小町だった。
 ひとりでどうしたの、と耳心地のよい声で言ってから、小町はボロ家の一角に空いた隙間に案内してくれた。
「環奈を迎えにきたのね、偉いわ。こっちよ」
 そのまますすむ。
 この建物はホコリ臭くてあまり好きではないが、わずかに環奈の匂いも混じっている。我慢して廊下の先へいくと、前に一度来た部屋にたどりついた。
 よう、と声をかけてきたのは高村だった。

「文次郎、ひとりで来たのか」
 うすく笑ってこちらを見ている。
 古びた椅子に腰かけた彼に近付くと、ソファで眠る環奈を発見した。その手にはイヤな臭いを発するペンダントが握られている。
「いま寝ついたところやで、起こさんでやってくれな」
(うん)
 という意味を込めて、文次郎は口角をあげ舌を出す。
「佐保川でいらんもんを拾ってきたようやな。文次郎に怒られたって言うてたで──環奈のこと守ってくれたんやろ。ありがとうな」
(撫でて)
 鼻先で高村の手をつつく。
 ふふふと笑う彼の手が、文次郎の全身に伸びた。
「まもなく夢路がひらく。それを待ってんねん」
(ゆ、め、じ)
「そうら」
 ──寄ってきた。
 というや、高村は文次郎の頭に手を置いたまま瞳を閉じる。
「お前も来るか、文次郎。……」
(?)
 首をかしげる。
 と、同時に文次郎の意識がフッと消えた。

 ──じろう。
「文次郎」
 ぱち、と目を開ける。
 呼び声と匂いはタカムラによるものだった。が、目の前に立つのは見慣れぬ服をまとう男──これがタカムラ?
「そら見ろ。環奈だ」
 彼の指は、いつの間に流れていたか小川の方をさしている。その前に佇むのは、環奈──。
(アッ)
 と、駆け出そうとした文次郎はしかし、篁に持ち上げられてしまった。まだだよ、とうすく笑む彼に文次郎はおとなしくなる。

『忘らるる 身をば思はず 誓ひてし
        人の命の 惜しくもあるかな』

 和歌である。
(ウン?)
 と篁を見つめた。彼はくすぐったそうに笑って「言霊だ」とつぶやく。
 そして文次郎をおろし、懐から手鏡を取り出す。鏡を言霊にかざす。一瞬光って残ったのは一枚の和紙。
 それをじっくりと眺めたのち、篁はふたたび文次郎を抱き上げて環奈に近づいた。

「環奈」

 その瞬間、文次郎の視界はブラックアウトした。

 ※
 午後二時、──高村と環奈とともに佐保川散策。

 高村は懐から手鏡を取り出した。
 新緑の茂る並木道。川べりを這う老女も桜樹の根元にすわるサラリーマンも、高村の姿を見てふらりふらふら、こちらに寄ってくる。
 そして彼女──並木道を往復していた女性もまた、高村に引き寄せられるように近付いてきた。そのようすを横目に、高村はラピスラズリのペンダントを空にかかげる。
「石には、人の思念が宿りやすい。このペンダントにも彼女の想いが強く残っていたようやな」
「よくないこと?」
「……さあ、いいも悪いも人によりけりやけどな。そこの人にしちゃよかったんちゃうか」
「どーして?」
「お前が彼女の想いを受け取ってやったからや」
「────」
 水面が揺れる。
 さわさわと葉っぱがこすれる音、流浪に先をゆく小川の水音。いつも聞いているはずの自然の音すべてが、いまはどこかとくべつな旋律を奏でているかのように錯覚する。
 高村は、背後に迫る女を見た。
「のう、なかなかわるない気分やろ」
「…………」
「男にフラれたくらいで、いつまでも現世にとどまったらあかん。お前さんはこれから彼岸で己の今生をじっくりと振り返り、やがていのちを他生へつないでゆくねんから。環奈がお前さんを見つけたのだ、もうその未練も断てよう」
 高村はほくそ笑む。
 しばらく彼をうらめしそうににらみつけていた女だったが、やがて哀しそうに笑んだ。こっくりとちいさくうなずいて高村の手中にある手鏡を覗く。

「お還りなさい」
 と。

 高村がささやくと鏡面が光った。すると、その光を浴びた女もぼんやりと薄白く光って、ゆっくりと消えていく。
 そのようすをぼんやりと眺めていた環奈は手中のペンダントをきゅうと握りしめた。
(あれ?)
 と文次郎の鼻がひくついた。イヤな臭いがいつの間にか消えている──。
 環奈の瞳はゆがんでいた。
「……どーして、女のシトいっちゃったの」
「うれしかったからや」
「なにがうれしかったの」
 いまにも泣きそうな顔で水面に目線をうつす。しかし対照的に高村の声は朗らかだった。
「おまえも生きているなら分かろう。人は、想うだけで気が晴れるもんとちゃう。その気持ちを受け取ってもろうてはじめて──おのれのなかでケジメがつくもんや」
「ケジメ」
「ああ。あの女もお前に見つけてもろうて、それにくわえて言霊に共感してもろうて……ようやくケジメがついた。尚弥のときかてそうや。道雅どのも尚弥も、一言だけでもええさかい、相手に想いを受け止めてもらえたらそれで──お、カニ」
 高村が指をさす。ぱちゃ、と水面から音がした。
 文次郎が興味本位で川面を覗いてみる。と、長い鼻先にちいさなカニが噛みついた。キャンッと悲鳴をあげて環奈の膝上に飛び込むと、さきほどまで泣きそうだった環奈の顔がすっかり笑顔になっていた。
「アハハッ、もんじろダイジョブ?」
「川の近くではしゃぎすぎるなよ。引きずり込まれるぞ」
「へーきだもんっ。それよりむっちゃん、これどうしよ」
 環奈はペンダントを高村に寄越す。
 受け取った彼はおもむろに腕を振りかぶってソレを川面に投げつけた。ぼちゃん、とわずかに飛沫があがる。その一連のながれに環奈が「アーッ」と目を剝いた。
「捨てた!」
「もともと水面にあったんやろ。せやったらそのまま、ここからつづく海原まで流してしまえ」
「おさかなが食べちゃったらどーすんのッ」
「そら、その魚がそれまでだっただけのこと。そこまで俺があずかり知るもんか」
 意外とドライなことをいう。
 さて、と立ち上がり手鏡を懐にしまいかけた彼だったが、くるりと後ろを向いたとたんに動きを止めた。
「あぁ──お前たち」
 と、いう相手は老婆と男。
 彼らは怖じ気づいたように高村から後ずさる。
「きょうはもう疲れたな……環奈」
「ウン?」
「またたまにでも、彼らの話し相手になってやれ。満足すりゃあいつかは還る」
「ふーん」
 わかったよ、とうれしそうにうなずく環奈。高村は微笑して足元に寄る文次郎を撫でた。
「きょうはえらかったぞ、文次郎。環奈をたのむな」
(もちろんよ!)
 文次郎はワン、とひとつ吠えた。

 見れば太陽はすこしずつ傾きはじめている。
 環奈は「もう三時だ」とつぶやいた。

 ※
「もんじろ」
 彼女は川べりに腰を下ろした。
 先ほど、高村が先に帰るのを見送ってからしばらく、川面をぼんやりと見つめるだけの環奈だったが──。
 声色が暗い。
 文次郎も隣に寄って身体を休めた。ゆっくりと背をなでる環奈に身をゆだね、まぶたををとろりと半分落とす。
 文次郎、とふたたびいった。
「どこも行かないでね。かんな、もんじろいなくなるのイヤなのネ……」
(うん)
 文次郎は、わずかに口角をあげて舌を出す。
 この顔をすると環奈はいつも「笑ってるゥ!」と喜ぶからだ。しかし、いまの環奈はこの顔を見てもなお、かなしそうな顔で文次郎を覗き込んだ。
「夢だけどネ。おんなのこがいっつも文次郎のこと連れてっちゃうのヨ。ハルカゲってゆってね……。文次郎は、文次郎なのにサ」
(うん)
「でもダイジョブだよ。文次郎はかんなが守るからね」
 環奈はぐっと文次郎のほほに顔を寄せた。
 ふわりと彼女の匂いがする。文次郎は、この匂いが好きだった。

「文次郎──だいすき」
(…………)

 ツキン、と胸が痛む。
 文次郎はくぅん、と鼻で返事をした。


 ※ ※ ※
 ──忘れられるわが身はどうでもよい。
   ただ、愛すると神に誓ったあなたの命、
   誓いをやぶった罰でそれを失うことが
   惜しまれてなりません。──

 第三十八番 右近
  大和物語の恋物語にて、
  捨てられた女がいまだ消えぬ相手への
  誠心純愛を詠める。
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