胡蝶の夢に生け

乃南羽緒

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捌の抄 罪と罰

其の壱

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「さっき、終業式でいわれたとおり──」

 帰りのホームルーム。
 高村は教壇から生徒を見下ろして、左目の下の傷をちょいと掻いた。
「となりの白泉大学のグラウンドが日中のみ解放される。節度をもって、楽しく使え。あとは部活のある者、旅行する者さまざまいてるやろうが、元気に来学期を迎えるためにも事故等にはくれぐれも気をつけるように」
「事件に巻き込まれたったらどないすんですかぁ」
 といったのは上機嫌の武晴である。
 教室内では失笑が漏れたが、高村はにこりとも笑わずに「警察を呼べ」といった。
「ええか、夏になるといつの時代にも頭のおかしい野郎が沸く。そういうやつに遭遇したら、さっさと逃げるか警察を呼べ。……逆に、お前たちが頭おかしくなってしもたらそんときは水風呂に入れ。ええな。以上。日直、号令」
「きりーつ、気をつけェ」
 礼。
 ありがとうございましたァ、と高村学級の生徒たちは晴れ晴れとした表情で教室を飛び出していく。
 最終日の日直となった八郎はひとり残って、日誌の最初のページをめくった。
『先生の字が達筆でこわいです』
 初日の日直コメントである。
 そこに、達筆な赤字で『字がきれいだとモテるぞ』とコメントがされている。八郎はクスッとわらった。次をめくるとまた日直と先生のやり取りが記されている。
 毎日、毎日、高村はひとりひとりに合ったコメントを律儀に残している。
『────か』
「あ」
 めくりにめくったその先で、八郎の手がとまった。
 一昨日の日付である。
 日直は有沢柊介、彼が書いたのであろうコメントが一言、雑な字で記されている。

『しんどいときを乗り越える方法とは』

(…………)
 日誌を食い入るように見つめる。
 そこに書かれた赤字の返答は、ひどくこざっぱりとしたものだった。しかし愛情もあった。
 ここ数日──魔の一週間を過ごした柊介を励ますような愛情が。
 そう、あれはまだたった一週間前のことである。
 
 ※
 夏休み一週間前の金曜日。
 この日、帰宅間際の八郎と柊介、武晴、明夫の四人は耳を疑った。

「三沢智弘が帰ってきたァ?」

 武晴が目を見開く。相対するのは四宮松子である。
 彼女は言いにくそうに、柊介をちらりと見てからゆっくりとうなずいた。
「うちの友達が見た言うてん。駅前のコンビニでたむろってたんやて」
「イヤな名前聞いてもたな、柊クン。アイツ生きとったんか」
「友達づてのうわさじゃ、いまだに有沢がどこにいてるかとか聞きまわってんねんて──気ィつけてや。執念深さに関しては一級品や。なにしてくるかわからへん」
 と松子が己の身を抱く。
 それを見て、明夫はもちろん、めずらしく武晴や八郎が真剣な表情でうなずいた。が、ひとり柊介だけはつまらなそうに鞄を肩にかける。
「もう顔も忘れた」
「あ、おい柊!」
 武晴が呼び止めるのも聞かずに、柊介はさっさと教室を出て行ってしまった。
 ざわりと八郎の胸がさわぐ。
 すまんな松子──と武晴がわらうと、松子も「無理もないわな」と苦笑した。

 三沢智弘。
 この名前を聞き、頬をほころばす者はいない。
 柊介の友人ならなおさらのこと、この男は八郎たちにとって忌み嫌う存在なのである。

「おれ、先生のトコ行ってくる。先帰っとって」
「あ、おいハチ!」
 武晴の制止も聞かず、八郎は廊下を駆けた。

 ──。
 ────。
 翌々日、日曜日の夜九時。
 駅前のカラオケボックスの二階、二〇三号室からは、よほどの大音量のためか扉の外まで漏れ出る歌声がある。
「…………」
 扉の前に立つのは、柊介だ。
 スマートフォンの画面をちらと見てから部屋番号を一瞥し、ためらいもなく扉を開けた。ガンッという派手な音によって室内の喧騒はいっしゅんにして掻き消えた。
 じろりと目線だけで室内を見回す。
 なかにはふたりの女と五人の男。退屈したようすで携帯をいじっていたらしい女たちと、酒瓶を振り回していたであろう男たちは、ともに音に驚いたか柊介を見つめていた。
 そのうちのひとり、中心にすわるガタイのいい男が口角をあげた。
「──よう、やっときたか。有沢」
「…………」
 柊介は無表情のまま扉のところに立ち尽くす。しかし男たちは下卑た笑みを浮かべて手招きをした。
「なに突っ立ってんねん、はよ入りィや。せっかく来たんや歌ってけよ。おまえ歌うまいやろ」
「歌いに来たんちゃうわアホ。なんやねんこれ、ふざけんな」
 と柊介が携帯をかざす。
 画面には隠し撮りされたようなアングルで写った男女の写真。
「おまえ、どっから俺の連絡先聞いた。気色わるいまねしやがって」
「つめてえな、友達に対していうことやないやろ」
「友達やったこと一度もねえわ、調子のんなよ。……三沢」
「…………」
 いままでニヤニヤと笑っていた男は、たばこを灰皿に押し付けるや椅子を蹴って立ち上がった。そして荒々しく柊介にとびかかり、胸倉をつかむ。
 ──三沢智弘。
 この手の早い男は、名をそういった。

 柊介が瞳に殺意を込めて三沢を見上げる。
「おまえ、俺のことコソコソ嗅ぎまわってるらしいな。男をストーキングしてなにが楽しいねんお前──」
「おいおい。友達の連絡先聞くくらいでそこまでいうか?」
「ハッ」
 友達、と柊介は吐き捨てるようにわらった。
「笑わせんな。それだけちゃうやろ、人にこんなもん送りつけて」
「だっておまえ、ふつうに呼んだって来えへんやろ。ちょっとしたジョークやんか」
「ジョーク?」
 といって、柊介は胸倉の手を乱暴に振り払う。その反動で三沢はよろけ、女ふたりのいる椅子に倒れ込んだ。きゃあ、と女たちは悲鳴をあげて後ずさる。
 それを見てブッと柊介がふきだした。
「はは、お前のツラじゃ女も逃げるわな。かわいそうに、一生ひとりでマスかいてろや」
「てめえ!」
 と、三沢が思いきり拳を柊介の頬に叩きつける。
 フッ飛ばされて、廊下の壁にぶち当たった柊介は呻きながら身を起こした。
「いって……は、──ええか。むかしの復讐か知らんが、それならいまみてえに俺を殴りにこい。ほかのやつらに手ェ出したら前んときの半殺しじゃ済まへんさかいな」
「ほざけ、ベタベタくっついて仲良しこよしか? 気色わるいんはお前らやッ」
 室内にあった酒瓶を壁に殴りつけて、三沢は瓶上部を手に持ったまま部屋から出てくる。そして足をふるわせる柊介に向かって振りかぶった。
 そのとき。
「キャーッ」
 と、廊下の奥から悲鳴がした。
 ドリンクを運ぶ途中の店員がその異常さに気が付いたのだ。バタバタと厨房へ走り、中から男性店員を数名連れて駆けてくる。
「チッ」
 三沢は割れた瓶を捨てた。
 室内で縮こまっていた仲間に声をかけ、寝転がる柊介の腹に一発ケリをいれたのち、いらだった様子で部屋から出て行く。
 店員が「待ちなさいッ」と声をかけるも三沢はすでにカラオケボックスから姿を消した。
 残されたメンバーは困惑した顔で会計をし、部屋を荒らしたことへの謝罪と弁償金を支払わされることになったようだ。
 一方柊介は、腹部を蹴られたことでいっそううずくまっていたものの、警察への電話に関しては断った。まだ、大事にしたくなかったからだ。
「迷惑かけて……すんません。あ、病院もいッス。子どもの喧嘩なんで──」
 と頭を下げ、そそくさとカラオケボックスをあとにする。
 その途中で会計を済ませている取り巻きたちに「俺の分も払うとけよ」と伝票をわたすことを忘れない。
 じくじくと痛む身体をひきずって、柊介はゆっくり、ゆっくりと家路についた。

 ※
 夏休み四日前の月曜日。
 柊介は二時間目が終わるころ学校に来た。マスクの上からでもわかるほどに、右頬を真っ赤に腫らした彼がさいしょに向かったのは職員室だった。担任へ、遅刻の報告をするためである。

「おいおいおい──」
 と、開口一番に高村はつぶやいた。
 柊介のようすが尋常ではないことに気付き、職員室から場所を変えて国語準備室へと移動する。部屋へ入るなり、高村の手はそっと柊介の頬に添えられた。
「どうしたこの頬」
「いや──ちょっと」
「ちょっと?」
「…………」
「先に言っておくが、だんまりや嘘は俺には通用せえへんぞ。なんてったって冥官篁様やからな。便利道具持ってんねん」
「……くそ」
 と、柊介はあきらめたようにつぶやく。
 そして腹をおさえながら椅子に腰深く座った。
「むかしの、知り合いと──喧嘩した」
「なんぼも生きてへんくせに昔っておまえ。……ミサワトモヒロか」
「…………は?」
 柊介が目を見開く。
 なんで知ってるんだ、と聞きたげに揺れる瞳。しかし高村はお構いなしに柊介の制服をたくしあげて身体の傷を確認した。
「ちょっ」
「おいおい、顔のほかに腹も殴られたんか。かわいそうに」
「いや腹は蹴られた」
「もっとえらいことやないか!」
 と、眉をつり上げる高村に柊介は「あの」と手を伸ばす。
「なんでそれ知ってんのか知らんけど、……ハチとか、タケたちには俺から言いますんで──あいつらは三沢がどんなやつかも知ってて、いまどないな状況かも察するとおもうんで」
 つまり余計なことは言うな、と。
 そういうことか、と高村は心のなかでうなったが、やがて口角をあげた。
「相手はなぐったか?」
「え。……いや、なんも」
 柊介はとまどった様子でつぶやく。
 そうかそうか、とうれしそうにうなずいた高村はその頭を撫でてわらった。

「よう我慢した。でも次また同じようになりそうなときは、ひとりで行かへんと俺を呼べ。ええな」

 柊介は照れくさそうにその手を振り払う。
 そしてひと言、
「うす」
 とだけいった。
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