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拾の抄 初恋
其の壱
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──こんな立派な梅の木、見たこともない。
大粒の梅の花が優美に咲いて、折れそうなほど枝垂れたそれはまことに見事だった。
それが、一度目に抱いた感想。
また来ます。
と、飯倉豊は女将にいった。
その宣言通りに二度、三度──。
あれからいったい、どれほど泊まったのだろうか。
いつごろからかすっかり常宿と化していた。
初めて訪れてからおよそ十年。
主人も女将も、もちろん私も──その髪に白いものが混じるようになったくらいで、宿の様相は十年前のそれとなんら変わりなく私を待っていてくれる。
けれど、私は変わった。
ずいぶんとやつれみすぼらしくなってしまった。
毎年欠かさず訪れていたあの宿も、いつの間にか足が遠のいてしまって……。
気が付けばあれからさらに十年。
久しぶりに行ってみようか。
変わらずに待っていてくれているだろうか、せめてあの場所だけでも。
そうだ、この高台の上に目印であるあの木が。ああ──。
なんだ。なんだろう。
揺れる。揺れる。揺れて、…………。
ああ、はやく。
ただいまと言って梅の花を摘みたい。
※
夏休み──とは名ばかりの第八研究室。
扉を開けると、休みに入ってからも誰かしらの姿を目にする。特に目につくのは教授室に居座る浜崎辰也だ。
彼は今日も、白衣を着てパソコンをいじりながら珈琲を飲んでいる。
「刑部くん、夏休みなのに精が出るな」
と猛暑日を記録した七月の終わり。
仙石清武は、いつもどおりの涼しげな顔でいった。対するのは丸くかわいらしいおでこから汗を流す、環奈である。
レポートの執筆において足りない資料を図書館で探した帰り、四号館に立ち寄る仙石を見つけたのだ。
「きよセンパイは修論デスか?」
「ああ──先生に相談を。あの人もはやここに住んでるってくらいにいてるから」
そういう彼も三日とあけずここに通っているのだから、似たようなものである。
「ほら、やっぱりおった」
と、第八研究室のなかに仕切られた教授室の明かりを見てほくそ笑む。するとちょうどその扉が開き、中からヨレヨレの白衣をまとった浜崎がのそりと出てきた。
ふたりの生徒が来ていることにようやく気が付いたか「おう」と眠そうに垂れた目を見開いた。
「キヨ──と刑部も。どないした、修論とレポートか」
「はい。ちょっと先生にご相談もあって」
「あ、そう?」
と教授室をちらと見た。
テーブルに山積みとなった本や書類。デスク下に隠れている丸椅子にまで数冊の書籍が重ねられている。
その椅子に座ると、両壁の本棚に埋め尽くされた書籍からの圧がすごいので、仙石はあまり好きではなかった。
「いや、ここでええです。あぁ刑部くんも別に席外す必要はないで」
腰を浮かせた環奈を制止させ、仙石はわらう。別に聞かれて困る話でもなかった。
ほんならお言葉に甘えて、と浜崎は生徒用の椅子をガラガラと引っ張って仙石の前に落ち着いた。
「おまえが相談ってな、めずらしいな」
「ええ──修論の題について」
「あァ。おまえの卒論は中世期の流罪についてまとめててんよな。そっから変えるんか?」
「はい。流罪に処された豪族のなかのひとりが面白そうで──そっちにシフトを変えていきたいなと。ただ」
「ふむ」
「史料があるんかどうかが気がかりで」
彼にしては珍しく弱腰である。
文学部の論文──とくに史学に重きを置く場合は、とくに史料の存在が第一となる。
いくらやりたい題材があったとしても、史料が存在しないことには研究のしようもないからだ。
「ちなみに誰に」
「小野篁」
────。
なるべく聞かぬようにしていた環奈の耳が、ぴくりと反応する。浜崎はすこし嬉しそうに「へえ」と声をあげた。
「そらァなぜ」
「ほかの豪族に比べると、各地で神格化されてるのが顕著やし。あとは篁の血族について。たとえば東北各地に伝わる小町出生の伝承なんかも非常におもろいと思います」
「うん、小野篁を祀る神社はたしかに多い。町田の小野路も小野神社はあるし、神社ちゃうけど栃木の足利学校にも篁の像がある。──京都の六道珍皇寺なんか、ファンからしたら聖地やな」
そうですよね、と仙石がうなずく。
浜崎は珈琲を一口飲んでからふたたび饒舌に語りだした。
「……小野篁に関しては、『続日本後記』とか『日本文徳天皇実録』に載ってはるわな。あとは小野路、大津、東北にある神社。祭神の理由は、先祖信仰からくるものがほとんどやろうが、東京の上野もまた篁とは深い関わりがある──らしい。ううん、ちょっとしぼらんと仮説立てるにも難しいな。福島や秋田なんぞは小野篁、小野小町が深く関わってる可能性が高いやろ。史料は俺も探しておくかな──なんやおまえ」
と、目を細めて唐突にいった。
仙石は(え?)という顔をしたが、まもなく浜崎の視線が自分の背後に向けられていることに気が付いた。ゆっくりと振り向く。いつの間にか環奈が仙石の背後に立っている。
「エッ。あれェ、かんなったらいつの間に」
とひとりぼやく彼女に笑って、仙石は「もう終わるから待っとけ」となだめた。
「──てなもんで、先日相談してたフィールドワークも福島に変更しよう思てるんです。先生について来てくれ言うた手前、ちょっと遠くなって申し訳あらへんのですが、福島でも先生の御同行は可能ですか」
「ああもちろん。むしろ陸奥旅行じゃ常宿があんねん、そこ連絡してみるわ。ええっとメンバーは黒木が来れへんから、俺とお前と潮江と──」
「かんなも」
「環奈と──え?」
「かんなも」
ふたたび環奈がいった。真顔で浜崎に詰め寄る彼女はどこか鬼気迫るものがある。
「いや、お前まだ卒論の題も決めてへん……」
「かんなと……あと小町ちゃんも!」
「…………」
こうして、一週間後の七月下旬から三日間。
福島県までフィールドワークに行くことが決定したのである。
※
──。
────。
パァーーーン。
新幹線が飛ぶように走る。走る。
京都初東京行、乗換ののち郡山着予定──。
想像もできぬ速さで景色が過ぎゆくのを、小町は息を止めて眺めている。
「…………」
浜崎は、その横顔に見とれた。
それからわずかに顔色を青くして「なあキヨ」と顔を寄せる。
「高村さんってホンマに未知やな。いくら小町って名前かて、あないおそろしくきれいな娘がいてるなんて知らへんかったぞ。俺ら誘拐とかしてるように見られたらどないしよう」
「んなアホな、まあでも名は体をあらわすってホンマですね。僕たちフィールドワークに夢中になってほっぽらかしたら、あのふたり攫われてまうかもしれん」
と仙石がくすくす笑う。
(たしかに──)
ちらとふたたび視線を寄越す。
環奈と小町のそろった空間には花園が広がっている。
あまり女の美醜に頓着しないと自負する自分でさえ、彼女たちが放つ麗しい空気感は目を見張るものがあるのだから、一般人には目に毒だ。
「彼女らのお守りは、女性に無頓着なあの筋肉バカふたりに任せときましょう。無頼漢がきても安心や」
「ああ──ていうかなんで」
自席のうしろをちらと見た。
大口を開けて眠る潮江と、廿楽の姿がある。
「廿楽がおんねん、ゼミちゃうやんけ」
「この旅行を自主実習として、実習レポートの単位を稼がせてやろうっていう、同期なりの心遣いです」
仙石はいたずらっぽく笑った。
まあたしかに、いまさらひとりふたりと増えたところでそう変わるものでもない。
ひとつため息をついて、遠慮がちに「お嬢様方」と通路の向かいに座る乙女たちを呼んだ。
「これからの行程は把握してはりますか」
「ウン。郡山についたらお車借りていわきまで!」
「おお、よう覚えてたえらいえらい──キヨの修論材料は明日にまわすとして、今日は早めに宿入ろう。ふたりとも、ついたらちゃんと保護者に連絡いれたれよ」
「あーい」
「ハーイ」
かわいらしく手をあげたふたりに、浜崎の口元は自然とほころんだ。
どうしてこう、女の子というのは癒されるものか。
まもなく東京──。
新横浜を越えてほどなく、新幹線のアナウンスが響いた。
大粒の梅の花が優美に咲いて、折れそうなほど枝垂れたそれはまことに見事だった。
それが、一度目に抱いた感想。
また来ます。
と、飯倉豊は女将にいった。
その宣言通りに二度、三度──。
あれからいったい、どれほど泊まったのだろうか。
いつごろからかすっかり常宿と化していた。
初めて訪れてからおよそ十年。
主人も女将も、もちろん私も──その髪に白いものが混じるようになったくらいで、宿の様相は十年前のそれとなんら変わりなく私を待っていてくれる。
けれど、私は変わった。
ずいぶんとやつれみすぼらしくなってしまった。
毎年欠かさず訪れていたあの宿も、いつの間にか足が遠のいてしまって……。
気が付けばあれからさらに十年。
久しぶりに行ってみようか。
変わらずに待っていてくれているだろうか、せめてあの場所だけでも。
そうだ、この高台の上に目印であるあの木が。ああ──。
なんだ。なんだろう。
揺れる。揺れる。揺れて、…………。
ああ、はやく。
ただいまと言って梅の花を摘みたい。
※
夏休み──とは名ばかりの第八研究室。
扉を開けると、休みに入ってからも誰かしらの姿を目にする。特に目につくのは教授室に居座る浜崎辰也だ。
彼は今日も、白衣を着てパソコンをいじりながら珈琲を飲んでいる。
「刑部くん、夏休みなのに精が出るな」
と猛暑日を記録した七月の終わり。
仙石清武は、いつもどおりの涼しげな顔でいった。対するのは丸くかわいらしいおでこから汗を流す、環奈である。
レポートの執筆において足りない資料を図書館で探した帰り、四号館に立ち寄る仙石を見つけたのだ。
「きよセンパイは修論デスか?」
「ああ──先生に相談を。あの人もはやここに住んでるってくらいにいてるから」
そういう彼も三日とあけずここに通っているのだから、似たようなものである。
「ほら、やっぱりおった」
と、第八研究室のなかに仕切られた教授室の明かりを見てほくそ笑む。するとちょうどその扉が開き、中からヨレヨレの白衣をまとった浜崎がのそりと出てきた。
ふたりの生徒が来ていることにようやく気が付いたか「おう」と眠そうに垂れた目を見開いた。
「キヨ──と刑部も。どないした、修論とレポートか」
「はい。ちょっと先生にご相談もあって」
「あ、そう?」
と教授室をちらと見た。
テーブルに山積みとなった本や書類。デスク下に隠れている丸椅子にまで数冊の書籍が重ねられている。
その椅子に座ると、両壁の本棚に埋め尽くされた書籍からの圧がすごいので、仙石はあまり好きではなかった。
「いや、ここでええです。あぁ刑部くんも別に席外す必要はないで」
腰を浮かせた環奈を制止させ、仙石はわらう。別に聞かれて困る話でもなかった。
ほんならお言葉に甘えて、と浜崎は生徒用の椅子をガラガラと引っ張って仙石の前に落ち着いた。
「おまえが相談ってな、めずらしいな」
「ええ──修論の題について」
「あァ。おまえの卒論は中世期の流罪についてまとめててんよな。そっから変えるんか?」
「はい。流罪に処された豪族のなかのひとりが面白そうで──そっちにシフトを変えていきたいなと。ただ」
「ふむ」
「史料があるんかどうかが気がかりで」
彼にしては珍しく弱腰である。
文学部の論文──とくに史学に重きを置く場合は、とくに史料の存在が第一となる。
いくらやりたい題材があったとしても、史料が存在しないことには研究のしようもないからだ。
「ちなみに誰に」
「小野篁」
────。
なるべく聞かぬようにしていた環奈の耳が、ぴくりと反応する。浜崎はすこし嬉しそうに「へえ」と声をあげた。
「そらァなぜ」
「ほかの豪族に比べると、各地で神格化されてるのが顕著やし。あとは篁の血族について。たとえば東北各地に伝わる小町出生の伝承なんかも非常におもろいと思います」
「うん、小野篁を祀る神社はたしかに多い。町田の小野路も小野神社はあるし、神社ちゃうけど栃木の足利学校にも篁の像がある。──京都の六道珍皇寺なんか、ファンからしたら聖地やな」
そうですよね、と仙石がうなずく。
浜崎は珈琲を一口飲んでからふたたび饒舌に語りだした。
「……小野篁に関しては、『続日本後記』とか『日本文徳天皇実録』に載ってはるわな。あとは小野路、大津、東北にある神社。祭神の理由は、先祖信仰からくるものがほとんどやろうが、東京の上野もまた篁とは深い関わりがある──らしい。ううん、ちょっとしぼらんと仮説立てるにも難しいな。福島や秋田なんぞは小野篁、小野小町が深く関わってる可能性が高いやろ。史料は俺も探しておくかな──なんやおまえ」
と、目を細めて唐突にいった。
仙石は(え?)という顔をしたが、まもなく浜崎の視線が自分の背後に向けられていることに気が付いた。ゆっくりと振り向く。いつの間にか環奈が仙石の背後に立っている。
「エッ。あれェ、かんなったらいつの間に」
とひとりぼやく彼女に笑って、仙石は「もう終わるから待っとけ」となだめた。
「──てなもんで、先日相談してたフィールドワークも福島に変更しよう思てるんです。先生について来てくれ言うた手前、ちょっと遠くなって申し訳あらへんのですが、福島でも先生の御同行は可能ですか」
「ああもちろん。むしろ陸奥旅行じゃ常宿があんねん、そこ連絡してみるわ。ええっとメンバーは黒木が来れへんから、俺とお前と潮江と──」
「かんなも」
「環奈と──え?」
「かんなも」
ふたたび環奈がいった。真顔で浜崎に詰め寄る彼女はどこか鬼気迫るものがある。
「いや、お前まだ卒論の題も決めてへん……」
「かんなと……あと小町ちゃんも!」
「…………」
こうして、一週間後の七月下旬から三日間。
福島県までフィールドワークに行くことが決定したのである。
※
──。
────。
パァーーーン。
新幹線が飛ぶように走る。走る。
京都初東京行、乗換ののち郡山着予定──。
想像もできぬ速さで景色が過ぎゆくのを、小町は息を止めて眺めている。
「…………」
浜崎は、その横顔に見とれた。
それからわずかに顔色を青くして「なあキヨ」と顔を寄せる。
「高村さんってホンマに未知やな。いくら小町って名前かて、あないおそろしくきれいな娘がいてるなんて知らへんかったぞ。俺ら誘拐とかしてるように見られたらどないしよう」
「んなアホな、まあでも名は体をあらわすってホンマですね。僕たちフィールドワークに夢中になってほっぽらかしたら、あのふたり攫われてまうかもしれん」
と仙石がくすくす笑う。
(たしかに──)
ちらとふたたび視線を寄越す。
環奈と小町のそろった空間には花園が広がっている。
あまり女の美醜に頓着しないと自負する自分でさえ、彼女たちが放つ麗しい空気感は目を見張るものがあるのだから、一般人には目に毒だ。
「彼女らのお守りは、女性に無頓着なあの筋肉バカふたりに任せときましょう。無頼漢がきても安心や」
「ああ──ていうかなんで」
自席のうしろをちらと見た。
大口を開けて眠る潮江と、廿楽の姿がある。
「廿楽がおんねん、ゼミちゃうやんけ」
「この旅行を自主実習として、実習レポートの単位を稼がせてやろうっていう、同期なりの心遣いです」
仙石はいたずらっぽく笑った。
まあたしかに、いまさらひとりふたりと増えたところでそう変わるものでもない。
ひとつため息をついて、遠慮がちに「お嬢様方」と通路の向かいに座る乙女たちを呼んだ。
「これからの行程は把握してはりますか」
「ウン。郡山についたらお車借りていわきまで!」
「おお、よう覚えてたえらいえらい──キヨの修論材料は明日にまわすとして、今日は早めに宿入ろう。ふたりとも、ついたらちゃんと保護者に連絡いれたれよ」
「あーい」
「ハーイ」
かわいらしく手をあげたふたりに、浜崎の口元は自然とほころんだ。
どうしてこう、女の子というのは癒されるものか。
まもなく東京──。
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