胡蝶の夢に生け

乃南羽緒

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拾肆の抄 病床の夢

其の肆

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 堀しのぶとは、およそ半年間だけ付き合ったことがある。
 中学三年生のとき学級委員でいっしょになった。
 能天気で一挙手一投足が派手、いつも人気な尾白武晴とは対照的に、彼女はまじめでおとなしく、クラスでもまったく目立たない女子。
 武晴とは一年からずっと同じクラスだったにもかかわらず一度も喋ったことがないほどだった。だからこそ、学級委員でいっしょになったときは最初こそすこし気まずいスタートだったと記憶している。

 それこそ、面食いの武晴にとって彼女は正直、対象外。
 しかしそれもひと月経ったころから変化があった。よく話すようになり、彼女が笑顔を見せてくれることも多くなっていった。──どういうわけか、気が付けば武晴のほうが彼女に夢中になっていったのである。
 五月が終わるころにはすっかりかわいくて、武晴は夏休み前に精いっぱいの告白をして、ようやくハートを射止めることができた。
 しのぶからすれば『シンデレラストーリー』である。
 それから卒業までは、積極的な武晴とおとなしいしのぶという絶妙なバランスに、すっかり隠れ名物カップルとも言われたほどだった。

 ──けれど卒業式の日、別れは突然しのぶから告げられた。
 理由は、県外の高校に通うことになり遠距離で付き合うのは辛いから──というもの。
 武晴は大層ショックを受けたけれど、これまたしのぶが必死に謝ってくるものだから、仕方ないと思った。だから、別れた。
 それから一切の音沙汰もなく、まあ別れた恋人などこんなものか──と思っていた。

 しかし、いま。
 無菌室の中で、ガラスに阻まれ、近付こうにも寄ることのできないしのぶを見て、武晴は無言のままこぶしを握り締めた。

 ※
 意思疎通は、インターホンで会話をするのみという。

 抜け落ちた髪の毛を隠すように帽子をかぶり、ぴくりとも動かない瞼はすっかりやせこけ、いつも赤く染まっていた頬は、ただただ青白い。
「実は、卒業のすこし前に病気が分かったの」
 しのぶの母がいった。
 会うのは卒業式以来だったが、彼女も心なしかやつれている。
「三週間くらいずっと入院してて、……タケくんには、長期旅行で会えへん、なんて言うたわね。卒業式前に一時退院できたから式には出られたんやけど──タケくんに迷惑かかるから別れてきた、なんて言うて」
 ごめんなさい、隠してて。
 しのぶの母はそう言ってうつむいた。
 武晴は、しのぶから目をそらさないまま「そういうやつッスよね」とだけ呟いた。
 ちなみに八郎や明夫、松子は病室の外で待機している。
 柊介はこの病院に入ってすぐに知り合いを見つけたのか、なぜかひとり外科病棟のほうへ行くといったきり戻っていない。
「最近、急にわるなったんよ。あれからずっと入退院を繰り返してたんやけど──いまはもうずっとこの状態で、やっぱりまだ好きやったんやろうね。タケくんの名前ばっかり」
「…………」
 しのぶは、近ごろ薬で朦朧としているときが多いらしい。
「最期やから、外泊許可を取って自宅で看取ってあげたかってんけど、もうそんな余裕もないくらい。せやからこんなときにタケくんに会えたんはすごい……奇跡やわ」
「看取るって、余命とか言われてるレベルなんすか」
 武晴は、初めてしのぶから目をそらす。
 しのぶの母を見つめるその瞳には、動揺が見てとれた。
「一週間もあらへんかもわからん、って──三日前に言われた」
「え」
「いっしょに闘ってきたつもりやったけど、もう……そう言われたら、もうだめね」
「……────」
 武晴は絶句した。
 そのとき、インターホンからか細い声が聞こえてきた。
「おかあさん」
「しのぶ?」
 しのぶの母は、あわてて駆け寄る。
 武晴も肩に力が入ったまま、しのぶの方へ目を向けた。
「しのぶ」
 武晴が、言った。
 しのぶはゆっくりではあったが、目を見開いてこちらに顔を向けた。

「……う、うそ────やだぁ」

「しのぶ?」
「武晴くんや……やだ、こんな──髪ボサボサやのに」
 しのぶの青白かった頬は、少しだけ赤く染まった。呂律があまり回っていなかったけれど、それでもしのぶは武晴の顔を見た瞬間に生き生きとした表情を見せた。
「……────」
 武晴は、ガラス戸に手をついた。
「寝起きのお前──中学んときに何度も見たやん」
 しのぶは、ガラスの奥で未だに恥ずかしがっている様子だったけれど、武晴の声を久々に聴けたことが嬉しかったのだろう。にこにことした笑顔をこちらに向けた。
「全然変わらへんな、しのぶ」
「……うそ、やァ」
 しのぶは、楽しそうに笑った。
「嘘ちゃうよ、──」
 武晴はぐっと唇を噛んだ。噛んで、うなだれた。

「いまも昔もかわええよ。お前は」

 声がふるえる。
 彼女の食べる姿も、眠った顔も、怒った顔も、──わらった顔も。
 武晴はほんとうに大好きだった。

 うしろでしのぶの母が泣いている。
 無菌室の中にいるしのぶも、声を出さずに泣いているようだった。
 十分ほど沈黙していたけれど、しのぶは泣きつかれたのかいつの間にか眠っていた。もう体力もないのだ、と思った。
「タケくん、ありがとう。正直骨髄移植をして化学療法も試して──それでまた再発して。もう手の施しようもなくてね。しのぶも私もちょっと疲れてたんよ。貴方を見たしのぶったら、ここ最近で見たことのない顔して。あとは、最期のときまでなんとかそばにいてやるだけしかできひんのやけど」
 しのぶの母は、目頭を押さえながらそう言った。
 武晴はもうなにも言えなかった。
 これから、そばにいてあげられるわけでもない自分が、何を言えばいい。

「明日──学校帰りにまた来ます」
 というと、しのぶの母はわっと泣いた。
 外で待機していた松子がそっと病室を覗く。武晴がしのぶの母の肩を抱いてなぐさめている。明夫は沈痛な面持ちで壁にもたれ、八郎はひとり涙をぬぐった。

 ※
「────」
 ため息をひとつ。
 懐に手鏡をしまう。
 篁は、六道の身体を廃屋に置いてひとり飛び立った。
 ──場所は総合病院の無菌病棟である。

 篁は病室に入る。しのぶは、ひとりで静かに眠っていた。
 身体中に管をつけて彼女の心臓は彼女を生かそうと懸命に動いている。
「…………」

 時は、午前一時をまわった。

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