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廿の抄 たからもの
其の参
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はしる。はしる。
暗闇のなか、柊介が走る。
しばらく走った先にひとりの少女がうずくまっていた。
いつぞや見かけた──あれは。
「環奈?」
ちいさいころの彼女だ。
およそ七歳ほどの環奈が、ひとりうずくまって地面をいじっている。気がつけば、周囲の闇がとりはらわれて公園の砂場の光景に変わっていた。
柊介が近付こうと足を進めたとき、声がした。
「あの子よ、刑部環奈ちゃん」
「ああ──お母さんの態度すごいわよね。環奈ちゃんったらかわいそう」
「でも親も親なら子どもも子どもよ。あの子、このあいだ保育園の子ぶったって」
「だってあの子ちょっと変だものね」
「そうよ、だれもいないのに話しかけてるんだから」
「やだ、こわーい」
くすくす。くすくす。
どこかの母親たちの声が、おさない環奈の耳に届いていた。
環奈は泥だんごをつくっているようだが、やがてすっくと立ちあがるとそのだんごを母親集団目がけて投げた。
「きゃあっ」
「なんなの!」
「ホンマにどうしようもない子ッ」
集団が去っていく。
砂場のまん中、環奈は立ちすくんでいた。
(…………)
柊介が近寄ると少女はくるりと踵を返して駆けだす。
公園の映像の先、闇の奥へ。
少女の姿が闇のなかに消えたと思ったら、今度は中学生の環奈の姿があった。
周囲の映像が学校の教室へと変わっていく。
「刑部環奈って、へんだよね」
「親にきらわれてんだって」
「なんかなっとく」
くすくす。くすくす。
学校の生徒の声が、中学生の環奈の耳に届いていた。
環奈はじっと生徒たちを見つめたのち、耳をおさえて駆けだす。
また、闇の奥へ。
「おい待て、環奈ッ」
柊介は追いかけた。
ここはいったいなんなんだ。
環奈の記憶か。それともまやかしか──。
仮にこれが彼女の深層にねむっていたトラウマなのだとすれば、柊介はなんとしても彼女をすくってやらねばと思った。それが自分にできる唯一のことだから。
闇の奥。
先にいたのはふたたび少女になった環奈と、静香と雄一。
「あんたなんか産むんやなかった」
「環奈のせいでうちの家族は崩壊したんや」
幼少の彼女につき刺さる、両親から降ってきた言葉の刃。
やめろッ、と柊介が少女のもとへ駆けた。
カタカタとふるえる環奈の肩をつよく抱きしめて、ぼうと闇に浮かぶ環奈の父母をにらみつける。
「いまさらなんやねん。おまえら記憶かまやかしかなんか知らんけど、環奈にいらんこと吹き込むな。まやかしは消えろ!」
さけぶ。
すると父母の姿はゆらりと揺らめいて、煙のように消えていく。──やはりまやかしか。
しかしふたたびゆらりと煙があらわれ、形を成した。
──浜崎やゼミの仲間たちだった。
「いい気になるなよ。かわいそうやから拾っただけやのに」
「アンタが来なけりゃ二年生は三人でまとまってたのにさ」
「おまえなんか消えちまえばいいのに」
そんなことを、彼らが言うわけがない。
しかし腕のなかの環奈はぶるぶるとふるえて、その言葉の刃を一身に受けていた。
うるせえな、と柊介はまたも声を荒げる。
「どこがかわいそうやねん。なんで消えなあかんねん。アンタらがいて、刑部家があって、……なにより俺がこれから世界一しあわせな女にする予定やねん。野次はひっこんどけアホッ」
さけぶ。
彼らの姿はふたたび消えた。
しかしそれはいまだに終わることなく、つぎの煙が形を成した。
──ゆきと浩太郎だった。
「厄介もの」
「めいわくや」
ちがう。まやかしだ。
柊介がさけぶ間もなく、煙はつづいて八郎に変わった。
「は、ハチ──」
「お前なんぞ死んでまえ。もう帰ってくんな」
「ヤロウッ」
どなった。
八郎に対してではない。この空間をつくりだすものに対しての怒りだった。
「……どこのどいつか知らんがもう怒った。適当なことばっかほざきやがって──環奈も環奈や、はよ気付け。こんなんハチが言わへんことくらいわかっとるやろ」
腕のなかでふるえる少女姿の環奈に、叱咤する。
この妄失にとらわれているために目を覚まさないのだとすれば、それは彼女にも問題があるのだ。柊介は環奈の肩をつよくつかんだ。
「おい環奈。ええか、その眼、耳かっぽじってよう見て聞け。いま目の前に出てきよるんが真実と思うてるんやったら、ガキとはいえお前のことはったおすぞ。──お前家族になったやないか。ハチも、ゆきさんもおじさんも、お前の家族になってよろこんどったやないか!」
という柊介のうしろで、煙はがふたたび姿を変えた。
──そう、柊介の姿に。
「…………」
虚像の柊介はなにもいわない。
沈黙のなか、腕のなかの環奈がゆっくりと顔をあげた。
涙でぬらしたおさない頬はそのままに、虚像の柊介と目の前にいる柊介を見比べている。
「環奈」
「…………」
「おまえは、俺の世界やねん──」
柊介はうなだれた。
そのつむじをじっと見つめたまま、おさない環奈は微動だにしない。
「おまえのシャーペンひとつで、世の中まぶしくなんねん」
「……────」
「俺も、みんなも、お前んこと外で待ってんねや。──はよ、帰ろうよ」
ぽろりと。
柊介の頬に雫がこぼれたとき、腕のなかの環奈は、少女だった姿が現在の環奈に変わった。幼いころから変わらぬ、吸い込まれるほどにきれいなその瞳いっぱいに、柊介だけが映っている。
「……か、環奈」
「──シュウくん」
「…………」
嗚呼。
柊介は眉根を極限までひそめて、ちいさくいった。
──ネボスケ。
と。
『君がため 惜しからざりし いのちさえ
長くもがなと 思ひけるかな』
言霊が出た。
その和歌と同時に、虚像の柊介は姿を消し、そこにひとりの少女があらわれる。
真白な少女。
さびしそうな顔でこちらを見つめる少女に気がついた柊介が、抱いた環奈はそのままにそちらへ顔を向ける。
「……お前か、しょうもないモン見せてくれたんは」
「…………」
「ワケは知らんけど、もうやめてや。たのむから」
「…………」
俺から、といった柊介の声は弱々しい。
「環奈のこと取り上げんでくれ。……」
対峙する少女はだまってじっと柊介をにらみつけた。
けれどなにを言うでもなく、その姿は周囲の闇に溶け込むように消えていく。
「……ひと言の詫びもなしかい」
柊介はぼやいた。
が、腕のなかに環奈がいることを思い出したか、気まずそうに彼女へと視線をうつす。
「環奈」
「シュウ、くん」
「起こしに来たぞ。……」
──ネボスケさん。起こしに来たヨ。
かつての記憶がよみがえる。
環奈はぼうっとした顔で「ごめん」とつぶやいた。
もうええよ、といってからいい加減恥ずかしくなったので環奈から身を離す。
「あり、がとう」
「あ?」
「……えっと、」
環奈が言いよどむ。
心なしかその耳が赤く染まっているのがわかって、柊介の耳もつられて赤くなる。そのとき。
「海よりも深し、だな」
闇のなかから声がした。
ぼうっとあらわれたその姿は、小野篁。手鏡を片手にたずさえて、いましがたあらわれた言霊を蒐集したのかその手には和本の紙があった。
「せ、先生」
「柊介──ようやったな。環奈」
「むっちゃん」
「おかえり」
「…………ウン」
ただいま、と。
環奈の顔にようやく笑顔がもどった瞬間だった。
※ ※ ※
──あなたのためなら捨てても
惜しくないと思ったこの命でさえ、
いまは、あなたといるために
長く生きていたいと願ってる。──
第五十番 藤原義孝
いとしい人のもとから
帰ってきたのち、
使者を遣わして詠める。
暗闇のなか、柊介が走る。
しばらく走った先にひとりの少女がうずくまっていた。
いつぞや見かけた──あれは。
「環奈?」
ちいさいころの彼女だ。
およそ七歳ほどの環奈が、ひとりうずくまって地面をいじっている。気がつけば、周囲の闇がとりはらわれて公園の砂場の光景に変わっていた。
柊介が近付こうと足を進めたとき、声がした。
「あの子よ、刑部環奈ちゃん」
「ああ──お母さんの態度すごいわよね。環奈ちゃんったらかわいそう」
「でも親も親なら子どもも子どもよ。あの子、このあいだ保育園の子ぶったって」
「だってあの子ちょっと変だものね」
「そうよ、だれもいないのに話しかけてるんだから」
「やだ、こわーい」
くすくす。くすくす。
どこかの母親たちの声が、おさない環奈の耳に届いていた。
環奈は泥だんごをつくっているようだが、やがてすっくと立ちあがるとそのだんごを母親集団目がけて投げた。
「きゃあっ」
「なんなの!」
「ホンマにどうしようもない子ッ」
集団が去っていく。
砂場のまん中、環奈は立ちすくんでいた。
(…………)
柊介が近寄ると少女はくるりと踵を返して駆けだす。
公園の映像の先、闇の奥へ。
少女の姿が闇のなかに消えたと思ったら、今度は中学生の環奈の姿があった。
周囲の映像が学校の教室へと変わっていく。
「刑部環奈って、へんだよね」
「親にきらわれてんだって」
「なんかなっとく」
くすくす。くすくす。
学校の生徒の声が、中学生の環奈の耳に届いていた。
環奈はじっと生徒たちを見つめたのち、耳をおさえて駆けだす。
また、闇の奥へ。
「おい待て、環奈ッ」
柊介は追いかけた。
ここはいったいなんなんだ。
環奈の記憶か。それともまやかしか──。
仮にこれが彼女の深層にねむっていたトラウマなのだとすれば、柊介はなんとしても彼女をすくってやらねばと思った。それが自分にできる唯一のことだから。
闇の奥。
先にいたのはふたたび少女になった環奈と、静香と雄一。
「あんたなんか産むんやなかった」
「環奈のせいでうちの家族は崩壊したんや」
幼少の彼女につき刺さる、両親から降ってきた言葉の刃。
やめろッ、と柊介が少女のもとへ駆けた。
カタカタとふるえる環奈の肩をつよく抱きしめて、ぼうと闇に浮かぶ環奈の父母をにらみつける。
「いまさらなんやねん。おまえら記憶かまやかしかなんか知らんけど、環奈にいらんこと吹き込むな。まやかしは消えろ!」
さけぶ。
すると父母の姿はゆらりと揺らめいて、煙のように消えていく。──やはりまやかしか。
しかしふたたびゆらりと煙があらわれ、形を成した。
──浜崎やゼミの仲間たちだった。
「いい気になるなよ。かわいそうやから拾っただけやのに」
「アンタが来なけりゃ二年生は三人でまとまってたのにさ」
「おまえなんか消えちまえばいいのに」
そんなことを、彼らが言うわけがない。
しかし腕のなかの環奈はぶるぶるとふるえて、その言葉の刃を一身に受けていた。
うるせえな、と柊介はまたも声を荒げる。
「どこがかわいそうやねん。なんで消えなあかんねん。アンタらがいて、刑部家があって、……なにより俺がこれから世界一しあわせな女にする予定やねん。野次はひっこんどけアホッ」
さけぶ。
彼らの姿はふたたび消えた。
しかしそれはいまだに終わることなく、つぎの煙が形を成した。
──ゆきと浩太郎だった。
「厄介もの」
「めいわくや」
ちがう。まやかしだ。
柊介がさけぶ間もなく、煙はつづいて八郎に変わった。
「は、ハチ──」
「お前なんぞ死んでまえ。もう帰ってくんな」
「ヤロウッ」
どなった。
八郎に対してではない。この空間をつくりだすものに対しての怒りだった。
「……どこのどいつか知らんがもう怒った。適当なことばっかほざきやがって──環奈も環奈や、はよ気付け。こんなんハチが言わへんことくらいわかっとるやろ」
腕のなかでふるえる少女姿の環奈に、叱咤する。
この妄失にとらわれているために目を覚まさないのだとすれば、それは彼女にも問題があるのだ。柊介は環奈の肩をつよくつかんだ。
「おい環奈。ええか、その眼、耳かっぽじってよう見て聞け。いま目の前に出てきよるんが真実と思うてるんやったら、ガキとはいえお前のことはったおすぞ。──お前家族になったやないか。ハチも、ゆきさんもおじさんも、お前の家族になってよろこんどったやないか!」
という柊介のうしろで、煙はがふたたび姿を変えた。
──そう、柊介の姿に。
「…………」
虚像の柊介はなにもいわない。
沈黙のなか、腕のなかの環奈がゆっくりと顔をあげた。
涙でぬらしたおさない頬はそのままに、虚像の柊介と目の前にいる柊介を見比べている。
「環奈」
「…………」
「おまえは、俺の世界やねん──」
柊介はうなだれた。
そのつむじをじっと見つめたまま、おさない環奈は微動だにしない。
「おまえのシャーペンひとつで、世の中まぶしくなんねん」
「……────」
「俺も、みんなも、お前んこと外で待ってんねや。──はよ、帰ろうよ」
ぽろりと。
柊介の頬に雫がこぼれたとき、腕のなかの環奈は、少女だった姿が現在の環奈に変わった。幼いころから変わらぬ、吸い込まれるほどにきれいなその瞳いっぱいに、柊介だけが映っている。
「……か、環奈」
「──シュウくん」
「…………」
嗚呼。
柊介は眉根を極限までひそめて、ちいさくいった。
──ネボスケ。
と。
『君がため 惜しからざりし いのちさえ
長くもがなと 思ひけるかな』
言霊が出た。
その和歌と同時に、虚像の柊介は姿を消し、そこにひとりの少女があらわれる。
真白な少女。
さびしそうな顔でこちらを見つめる少女に気がついた柊介が、抱いた環奈はそのままにそちらへ顔を向ける。
「……お前か、しょうもないモン見せてくれたんは」
「…………」
「ワケは知らんけど、もうやめてや。たのむから」
「…………」
俺から、といった柊介の声は弱々しい。
「環奈のこと取り上げんでくれ。……」
対峙する少女はだまってじっと柊介をにらみつけた。
けれどなにを言うでもなく、その姿は周囲の闇に溶け込むように消えていく。
「……ひと言の詫びもなしかい」
柊介はぼやいた。
が、腕のなかに環奈がいることを思い出したか、気まずそうに彼女へと視線をうつす。
「環奈」
「シュウ、くん」
「起こしに来たぞ。……」
──ネボスケさん。起こしに来たヨ。
かつての記憶がよみがえる。
環奈はぼうっとした顔で「ごめん」とつぶやいた。
もうええよ、といってからいい加減恥ずかしくなったので環奈から身を離す。
「あり、がとう」
「あ?」
「……えっと、」
環奈が言いよどむ。
心なしかその耳が赤く染まっているのがわかって、柊介の耳もつられて赤くなる。そのとき。
「海よりも深し、だな」
闇のなかから声がした。
ぼうっとあらわれたその姿は、小野篁。手鏡を片手にたずさえて、いましがたあらわれた言霊を蒐集したのかその手には和本の紙があった。
「せ、先生」
「柊介──ようやったな。環奈」
「むっちゃん」
「おかえり」
「…………ウン」
ただいま、と。
環奈の顔にようやく笑顔がもどった瞬間だった。
※ ※ ※
──あなたのためなら捨てても
惜しくないと思ったこの命でさえ、
いまは、あなたといるために
長く生きていたいと願ってる。──
第五十番 藤原義孝
いとしい人のもとから
帰ってきたのち、
使者を遣わして詠める。
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