片翼のエール

乃南羽緒

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第四章

59話 がんばって

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「関東大会初戦のS3試合、ゲームカウントはトントンやて!」
 弾んだ声が病室に響く。
 ベッドから車いすへ、愛織を移動させる伊織の声であった。天谷から逐次入る連絡をひとつ受けとるたび、その顔に花が咲く。毎分ごとに関東大会を気にする妹のすがたを見る愛織は申し訳なさそうに眉を下げた。一部始終を見守っていた大神医師も「やっぱり」と苦笑する。
「伊織さんは会場に向かいなさい。今日は検査だけだし、結果が出るまではけっこうかかりますから。手術するわけでもなし、そんなに心配しなくてもいいでしょう」
「でも──」
 ちらと伊織は姉の顔を見た。
「今日は朝から無性に愛織に会いたくて」
「じゃあ検査室までいっしょに行きましょう。愛織さんが検査室に入ったら、伊織さんも会場に。ね?」
「愛織──うちがおらんで大丈夫?」
 伊織は大真面目に問いかける。
 けれど愛織は、検査ひとつになにをそう心配することがあるのか──という意図を込めて、クスクスと力なくわらった。まだ昏睡から目覚めて一週間である。かなり体力が落ちているため、笑うことひとつにも一苦労のようだった。
「うん、大丈夫」
「べつにうちここにおっても、試合出るわけとちゃうしかまへんで」
「いいの。行って?」
「…………」
「行って、ついでに桜爛も見てきて」
「えっ」
「みんなに、かならず勝つようにって──伝えてくれる?」
 愛織はやさしく微笑んだ。
 伊織はむかしから、彼女のこの笑みには逆らえなかった。だから渋々ではあったが「分かった」とちいさくうなずいた。
 検査室前に到着して、車椅子の押し手が伊織から大神医師に変わる。伊織は姉と目線を合わせるように身を屈めた。
「ほな行ってくるね」
「うん」
「大会終わったら才徳のみんなと優勝の報告しに、ここ駆けつけたるから待っとってや。桜爛ちゃうで、優勝は才徳やからな!」
「フフフ、──うん」
「ほなセンセ、愛織のことよろしく」
 と、伊織は顔を上げて大神医師を見た。
 彼はにっこりわらってうなずいた。
 伊織が立ち上がり、エレベーターの方へ足を向けたときだった。
「伊織」
 愛織が呼んだ。
 んっ、と伊織が振り返る。
 車椅子に座っておだやかに微笑む愛織は、グッとガッツポーズを見せ、
「がんばって」
 とひと言。
 それはこっちのセリフや、とわらって伊織は今度こそエレベーターへ駆け乗った。

 ※
 松工リードのゲームカウント4-3。
 天城のストロークは常にベースラインを攻めている。サーブののちボレーに出やすい傾向にある刈谷をうしろに留めておくには、ベストな打球である。
 が、刈谷はそのたびスライスボールやドライブショットを駆使して、天城のリズムを崩してゆく。天城得意の持久戦に持ち込まないため、刈谷は天城を前後左右に揺さぶりながら一瞬の隙を狙っている。
(一球でも打球がサービスラインに落ちれば、かならず前に出てくる)
 これまでの刈谷サービスゲーム、彼はすべての得点をネットプレーによって決めてきた。そのコントロールは秀逸で、天城はただ翻弄されるばかりだった。いまだカウント的に食い付いているのが奇跡のようだ。
 また、前に出てこられたら──。
 天城の脳裏にチラと不安が顔を覗く。が、すぐにそれを振り払った。
(ネットプレーがなんだ。打たれたらとればいい。それだけだ)
 しかし、これまでそれが取れたか?
 彼のコントロール力は並ではない。このまま走らされたら、スタミナが追い付かないのではないか?
 刈谷のラケットがスライスを切る。
 考え事をしていたからか、天城の足が一歩出遅れた。あわてて駆け上がろうにも、ポトリとネット前に落とされた打球にはあと一歩届かず。これまで死守してきた天城のサービスゲームが、ブレイクされた。刈谷のマッチゲームである。
(マズイ。これまで──刈谷のサービスゲームをブレイク出来たことはないのに)
 ドクドクと心臓が波打った。
 松工リードのゲームカウント5-3、ベンチコーチに入る大神と目が合った。が、天城はその視線が怖くて逸らしてしまった。
 使えないと思われたかも。
 なぜさっきのドロップショットが取れないのか、と思っているかもしれない。

 勝たなきゃ。勝たなきゃ──。

 途端。
 天城の脳内は、そのことばに支配された。
 自身のしがらみに囚われた天城の動きはさらに硬くなり、前半はなんとか取れていた刈谷のショートクロスさえラケットが届かなくなっていた。
 そのせいでさらに焦りを重ねる悪循環。
 気が付けばストレートにポイントを取られ、ゲームカウント6-3にて松工が勝利。
 才徳学園の団体公式初戦は黒星からスタートした。

「…………」
 試合を終えた天城は、大神に一礼だけしてコートをあとにした。大神は引き続きおこなわれるD2ベンチコーチのため、ステイなのである。ちなみに今大会からは主審副審専門部隊が用意されているらしく、敗北選手が審判をやることはない。
 フェンス外の才徳レギュラー陣は、いつも通りのテンションで「お疲れさん!」と天城を迎え入れた。が、天城はうつむいたままなにも言わない。
 続いて入るは姫川と星丸。
 挨拶もそこそこに、彼らはコートへ入ってゆく。すれ違いざま、姫川はバシッと力強く天城の背中をぶっ叩いた。
 才徳一のパワープレイヤー。彼の小さな手からは考えられぬほどの強い力を受けて、天城は盛大に噎せる。オイオイ、と倉持が眉を下げたが、姫川はぎろりと一瞥するのみでことばはない。
 すでにコート入りする星丸のもとへ颯爽と駆けていった。
「アイツ、自分の力分かってねーだろ。おい天城大丈夫か?」
「い、痛いッス──」
 敗北のショックも吹っ飛んだ天城は、目を白黒させてつぶやいた。直後、その目から涙がこぼれる。
 一同はギョッとした。が、それは痛みからか、それとも──。
 杉山がからりとわらってコートへ目を向ける。
「よう見とけってことかね」
「さすが、才徳テニス部一の漢前は心意気がちがうぜ」
 倉持もカッカッカと豪快にわらった。
 一度こぼれた涙は止まらず、天城は必死にユニフォームをたくしあげてぬぐう。こらえる口から嗚咽が漏れてその場にしゃがみこんだ。杉山、倉持、蜂谷は微笑を浮かべてD2の試合に目線を向けたままうごかない。顧問の天谷がしずかに胸元で手を結ぶ。
 ストン、と。
 天城のとなりに座ったのは明前だった。
 特段なにを言うこともない。肩を抱くなどの慰める行為もない。ただ、肩を並べてD2試合をフェンス越しに眺めつづけるだけ。
「…………」
 ベンチコーチに入る大神が、ちらりとフェンス外の様子に目を向けた。が、その視界をさえぎるように姫川が目の前で仁王立ちする。
 彼のりかちゃん人形のようなベビーフェイスは、いまだかつてないほど偉そうに尖っていた。
「大神、アドバイス!」
 到底アドバイスを乞う態度ではない。
 が、大神はそうだなと長い脚を組み替えた。
「傾向と対策については蜂谷から聞いてるだろ。松工の強さはフィジカル、球威と重さは油断しないこと。こっちの強さはフットワークだからポーチには積極的に出ろ。ただし、たまに好き勝手動くのがお前らD2の欠点だ。ペアの動きをよく見てゲームをつくっていけ」
「他は!」
「楽しめ」
「よしきた!」
 と、姫川はラケットの面で星丸の尻をバシリと叩いた。

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