上 下
285 / 342

《280》事件

しおりを挟む






これはごく当たり前の事だ。

目下の者が目上の者に何かをするのは当然の習わしだが、逆は無に等しい。

ただ一言声をかけるだけでも、彼らに十分強烈な感動を与えることが出来る。
ノワと使用人なら尚更、効果は大きかった。


「厨房に行きたいです」


ノワの言葉に、ジョセフは今度こそ不安げな顔をした。


「ノワ様にお立ち寄りいただくような所では····」


困らせてばかりで申し訳ない。自分の世話係になったジョセフには同情するが、譲るわけにもいかないのだ。


ノワが厨房に顔を出すと、使用人達は皆ギョッと目を向き、慌てたように頭を下げた。

少し迷ってから、食事の礼を言うことにした。

昨日の晩餐と朝食の簡単な感想を添えて、ニコリと微笑む。彼らはぽかんとしてから、互いの顔を見合せた。


「どうぞ、お気遣いなく」


ノワは、その後も厨房の者達と少しずつ言葉を交わした。
緊張した面持ちの使用人たちも、雪解けのように笑顔が増えてゆく。地下を出る時には、ノワはすっかり彼らと打ち解けていた。



   そんなノワを眺めながら、ジョセフは心底分からなかった。
貴族にとって──ましてや彼のような身分の者にとって、使用人は道具に過ぎないはずだ。

そもそも、ノワはこの地に来るのを酷く嫌がっていたのでは無いのだろうか。

イアード大公を忌み嫌い、たぶらかした皇帝を利用して、宮殿で贅沢な生活をしていたという。
しかし、初めて出会った時から今まで、彼は礼儀正しい。
横柄な態度は一切なく、更には誰に対しても愛想が良いのだ。


(それに、昨日目にした無数の鬱血後)


あんな辱めを黙って受けていたと言うなら、ノワが皇帝や公爵を上手く利用していたとは考えにくい。


「ジョセフ?」


ノワが首を傾げる。
気がつけば、まじまじと見てしまっていた。


「いいえ····ノワ様、何故わざわざ使用人たちを気にかけるのですか?」


ジョセフはそれとはなしに問いかける。


「僕のことを知ってもらうためには、僕が彼らを知ろうとしないと」


「···············」


前を向いたままの横顔がふにゃりと笑った。
頭上に浮かぶ余り毛を見ると、妙に気が抜ける。ジョセフは庭を眺めた。

ノワは、情報とは違う人物なのかもしれない。


「───こっちです!」


突如、廊下の向こうから、二、三人の使用人が駆けてきた。


「誰か、担架を!」

「お医者様を呼んでください!」






しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

ある工作員の些細な失敗

大衆娯楽 / 完結 24h.ポイント:2,186pt お気に入り:0

金になるなら何でも売ってやるー元公爵令嬢、娼婦になって復讐しますー

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:512pt お気に入り:125

溺愛ゆえの調教─快楽責めの日常─

BL / 連載中 24h.ポイント:262pt お気に入り:1,515

宇宙は巨大な幽霊屋敷、修理屋ヒーロー家業も楽じゃない

SF / 完結 24h.ポイント:298pt お気に入り:65

幼馴染に色々と奪われましたが、もう負けません!

BL / 完結 24h.ポイント:676pt お気に入り:4,355

パスコリの庭

BL / 完結 24h.ポイント:127pt お気に入り:27

狂愛アモローソ

BL / 連載中 24h.ポイント:440pt お気に入り:5

1人の男と魔女3人

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:468pt お気に入り:1

処理中です...