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〖第五十五話〗

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静かに扉が叩かれる音がして、ネロはぱっとイヴァンから手を離す。
入ってきた人物に声を上げかけ、両手で口を抑えた。

ステファンはクスリとほくそ笑み、イヴァンと反対側のベッドへ腰掛ける。


「····──ぁ」


撃たれたところは、どうなったのだろう。再び口を開きかけたネロだが、それはステファンに止められた。

彼は形の良い口元へ人差し指を添え、シー、とジェスチャーする。


「君が話すと、きっとイヴァンが起きてしまう」


彼の言葉に、ネロはこくりと頷いた。
ふっと、碧眼が細まれる。
美しい湖を覗いたような気がした。



感情など忘れていた。
人を愛することなど、一生できないと思っていた。

復讐だけを目的に生きてきた。
そうしなければ、悲しみと孤独に押しつぶされてしまいそうだった。
そんな自分を、ネロが救ってくれた。

ネロは心をくれ、生きる意味をくれた。


「ネロを愛しています」


愛してると、自分に言ってくれたのは、彼が初めてだった。
ネロは照れくさくて、少し不思議で、しかし真剣な瞳から目を離すことはしなかった。


「誰よりも愛してる」


遠い思い出をなぞるような瞳が、可笑しそうに笑った。

「·····へ·····」

「今回は、手を引くよ。けど必ず奪いにくる。次は、心も」


ステファンの顔がそっと傾かれる。
ネロは、思わず、きゅっと目を閉じた。

ネロの唇に当たったのは、固く冷たいものだった。


「……?」


そのまま、ステファンとは反対方向へ引き寄せられる。
背は暖かく硬い板に密着した。


「·····人の物に勝手な真似をするな」


懐かしい香りが鼻腔をかすめる。
彼だ。

硬い胸板は、息をする度、微かに上下した。

ステファンが、クイッと片眉を上げる。
パチンと音を鳴らした指が、ネロの片手を掬った。


「それでは」

「おい、何を───」


イヴァンを無視して、ステファンは恭しく一礼し、ネロの甲へ唇を添えた。


「シェルスピア王国第二王子、ステファン・クルーダ=シェルスピア·····貴方の未来の旦那です」


魅惑的な光を含んだ視線がネロを見つめたのは一瞬。
彼は出会った頃と同じ台詞を遊ばせる。


「つかの間の寂寞を、俺のプリンセス」

「·····へっ?」


優雅に、しかしどこか悪戯っぽい微笑みを残し、彼は颯爽と扉の向こうへ去ってゆく。


「あのキザ野郎·····」


ステファンが消えた扉を睨めつけ、イヴァンは苛立たしそうに舌打ちを落とした。

部屋はしんと静まりかえる。


「イヴァン様」


ネロは恐る恐る彼の名を呼んだ。


「イヴァンさま……あの、」


会えて嬉しい。
もう捨てないで欲しい。
何でもするから、そばに置いて欲しい。

そう言いかけたネロは、次の瞬間、再びきつく抱きしめられた。


「·····どれだけ心配したと思ったんだ」

「·····?」


低い声が震えている。
ネロは最初、怒っているのかと錯覚した。
けど、少し違う。
高い鼻が首筋を撫でる。


「やはり、鎖で繋いでおけばよかった」

「ぁっ·····」


当てられた歯が、首元に噛み付く。
身体を滑る手は彼のものだ。そう思うと、ネロはたまらなくなった。


「イヴァンさま……、まって……、」

「もう、どこにも行くな」


この身体は俺の物だと、耳元で囁かれる。
触れられた所全てが、切なくなる。

両手で口を塞ぎかけたネロだが、それはイヴァンの片手に拘束されてしまった。

ベッドへ仰向けに寝かせられ、スリーパーを脱がされる。
抵抗することは出来ない。する気さえさらさらなかった。

脇腹や胸元、鎖骨、腰、内腿、腕や指先にまで口付けを落とされてゆく。


「イヴァンさま·····」


不安げに彼を見上げると、視線が絡まり合う。耳元に熱が集まった。
彼は、再び自分を抱いてくれるのだろうか。
触れられた温もりが優しくて、ネロはとうとう涙を流した。

涙に気づいた彼の動きが、1度止まり、再開する。

その間にも、涙は溢れて止まらない。


「·····言いたいことがあるなら言え」


ネロの様子を見かねて、イヴァンは今度こそ動きを止めた。

1度失って、彼への愛を再確認した。
ネロをどこにもやるものか。

逃げようというものならば、鎖で繋ぎ、部屋に監禁してしまおう。
自分だけのものにするためには、手段さえ選ばない。
心が手に入らないのなら、いっそ身体だけでも良い。
何度もそう思った。

彼を手放したくはない。
そんなことは、ほかの何を失うよりも辛い。

だが、ネロは腕の中で涙を流し、震えている。
欲望とは裏腹に、彼が嫌がることは、出来なかった。


「·····」


ネロから離れようとしたイヴァンは、不意にシャツを引っ張られた。
彼を引き止めたのは、誰でもないネロだった。


「·····放せ」


これ以上ここにいては、ネロを欲望のままに抱いてしまう。


「イヴァン様……」


泣いたせいだろうか。舌っ足らずに自分を呼ぶ愛くるしい声に、イヴァンは一度強く瞼を閉じ、振り返った。


「もう、何も───」


言うな、そう言いかけたイヴァンは、振り返りざまにネロの体重をかけられ、ベッドへバランスを崩す。


「ネロ───」


言葉は、柔らかな温もりに遮られた。
イヴァンの上に跨ったネロが、1秒にもみたない口付けをし、彼からそっと顔を離した。


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