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第六章
《第37話》手に入らない
しおりを挟む言いながら、ジュースを姫宮の方へ返す。
「さっきのお前のヤツのが甘くね?」
「そーかな」
そんなわけがあるかという笑いは、いつもの笑みの下に隠す。
姫宮が再びストローへ口をつける。
「···何倍も甘く感じるよ」
「はぁ?それは言い過ぎだろ」
味覚、狂ってんじゃね。
と、スマートフォンを弄り出す姫宮。
「狂ってるのかもね」
舌先で舌ピアスを舐める。
投げたゴミクズは、ゴミ箱に収まった。
あんなことをした自分に、今更何を話すというのだろう。
もう関わるな、とでも言われるのだろうか。
軽蔑の眼差しを向けられることを想像し、胃がキリキリと痛む。
今日、指定された場所に行って、彼から別れを告げられるかもしれない。
はたまた、会って彼に嫌な思いをさせない自身はない。
姫宮を前にすると歯止めが効かない。
自分でも自分が分からないほど、自制が効かないことを、昨日初めて知った。
彼が欲しい。欲しくてたまらない。
けれど、無理やりに自由を奪い、怖い思いをさせたい訳では無い。
昨日の自分は、何を考えた?
確かに、自分の中の欲が顔を出し、暴れ出さんとしていた。
もっと泣かせたい。
このまま、自分の傷跡を、もっと深く刻み付けたい。
誰も手の届かない場所に───自分だけを見てくれるように、箱の中に閉じ込めてしまいたいと。
恐ろしい欲望が、庵野を飲み込もうとしていた。
彼に触れる度、自制が効かなくなる。
愛している。
少しの間、距離を置いた方がいいのかもしれない。自分のためにも、彼の為にも。
窓の向こうへ視線をやる。
連日晴天の続いていた空は、どんよりとした雲に覆われていた。
帰りのホームルームが終わったあと、姫宮は小走りに美術室へと向かっていた。
急ぎの予定がある日に限って、いつもはやらないようなヘマをする。
例えば今日は6限目が美術で、移動教室に教科書を忘れてくるとか。
「めんどくさ···」
時計を見る。
ホームルームは遅めに終わって、校内にいる生徒もまばらになってきている。
今日は庵野と待ち合わせをしている。
姫宮は人けが少なくなると、スピードを気にすることなく階段を駆け上がった。
突き当たりを曲がって、1番東の教室にたどり着く。
教科書は机の上に置きっぱなしだった。
音楽の老教師が抜けていてたすかった。
そして───窓辺に、人影を見つけた。
背の高く、いかにも男らしい体つきの男だ。
よく見覚えのある後ろ姿が、手すりをつかみ、勢いよく前のめりに倒れる。
「な···──、にやってんだ!」
姫宮は彼へ突進した。
不意をつかれた相手が、姫宮に押され、床に倒れこむ。
姫宮もその後のことは考えていなくて、思い切り彼の上へまたがってしまった。
「···姫宮さん?」
抑揚のない声が、クエスチョンマークをつけ、名前を呼ぶ。
黒髪の間から覗いた鋭い視線が、いくらか幼く見えた。
「···意味、わかんねぇ。なんで、あんたが···」
「意味わかんねぇのはこっちだろーが!」
更衣月の言葉を遮り、叫んだ声は、僅かに震えていた。
「んなとこから飛び降りってお前アホか!早まんな馬鹿野郎!」
姫宮が叱咤する。
更衣月は不思議なものでも見るような目で、こちらを見上げていた。
「···今日、ここの掃除、す」
勢いに押されて呟くと、姫宮の顔がカッと赤くなる。
綺麗な顔が、どうしようもなく悔しげに歪められた。
「へぇ、それでここがちょうどいいってか?お前馬鹿か!?どんな事があっても、命だけは──」
「いや、違ぇ。···っす」
「はぁ?!」
姫宮は激昂している。
彼はやり場のない手を握りしめ、更衣月の腹の辺りを殴りつけた。
少し痛い。
「何が違ぇんだよ、あ?!どっからどー見ても、飛び降りようとしてただろうが」
彼はどうして、こんなに怒ってるんだ?
他人なんだから、死のうが生きようがどうでもいいじゃないか。
むしろ面倒な後輩なんだから、いなくなった方がラッキーとか、ないのか?
どちらにせよこれ以上罵倒されるのはゴメンだ。
更衣月は首を振った。
「丁度校門見えたんで。見てただけっす」
「はぁ??」
「······」
なぜ見ていたのかを説明するのは、躊躇われた。
「おいお前、適当なこと言って、誤魔化そうとしてんじゃねぇだろーな」
姫宮がこちらをきつく睨みつける。
丁度、校門が見えた。
姫宮が庵野雅と待ち合わせしている場所だ。
たまたま話を聞いてしまった。
見たくないのに、気がつけば前のめりになって探していたなんて、言えるわけが無い。
「飛び降りとか、全然、ないっす」
「じゃあ何しようとしてたんだよ?」
引き上げられていた眉が、いくらか弱くなる。
憎しみにも似た、しかし少し違う感情が湧き上がる。
頼むから、これ以上惨めにしないでくれ。
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