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無用の長物
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その日は平和な夜だったように思う。誰もいない、また誰も来ない辺境の森の中、ノーランは今日も魔物を狩った。四年前は王都を、もっと前は戦場を駆けていた彼の姿を見る人間は今や一人もいない。人と会わないせいで身なりにも気が入らなくなり、短く切りそろえていた黒髪も随分伸びてきた。かつては『雷の駿馬』なんて呼ばれたものだが、平和な世界に化け物じみた強さは求められないのだ。功績に似合わず平和を愛するノーランにとって、それは喜ばしいこともあった。少し寂しくはあるが。
「はあ」
湧かしたばかりのお湯でコーヒーを淹れる。残り少なくなってきたが、魔物の遺体の報酬に豆くらい要求しても許されるだろうか。転移のための魔方陣が作動するのは常に軍都合だ。今日は準備が遅いらしく、玄関先では瀕死のウォーグが浅い息を繰り返している。そこに品物を書いたメモを入れておけば、二、三日で要求する品が贈られてくることだろう。もちろん魔力はノーラン持ちだが、それはなんのやりとりであっても変わらない。下等な庶民が軍に名を置けるだけありがたいと思えと言うのは元上司の弁である。まあ、一理あるのだろう。
ノーランは元々、小さな村に生まれた少年だそうだ。ある日突然賊に襲われ、村を焼かれた生き残りの一人だ。戦時下の治安は周辺諸国も含めて荒れに荒れており、田舎では珍しくないことだったという。赤ん坊の頃だったからろくな記憶も無いが、とにかく自分の出自はそうなっている。実際敵国の生まれであってもおかしくないと思うが、考えるだけ損な事柄である。民家の物置で置き去りになっているところを王国軍の兵士に拾われ、孤児院に預けられた後軍に入った。どこにでもいる戦争孤児の、ごくごく普通な生き方だ。だがノーランはよくいる孤児に比べて魔法の才能があったらしい。慣例以上の意味もなさそうな魔力検査で歴代最高値を叩き出し、毎日のように別の戦場へと駆り出されていた。この世で五人と使えない移動魔法を使える後ろ盾一つない雑兵はそれでも使い潰して良い存在だったようで、あの頃はろくに眠った記憶も無い。流石に能力に対し安く使われすぎたのではないかと気づいたのは戦争で勝利を収めた後だった。
「……はあー」
ノーランは手元のカップに視線を落としながら溜め息をつく。口の中に広がる苦みは眠気を攫うが、同時に気持ちを落ち着けてもくれた。それから先の仕事が、生きていた中で一番楽しかったように思う。強さと王族の血、それぞれ無用の長物を持った者同士、面白おかしく暮らしていたのに。
「ん?」
第29王子の教育係、もとい王の息子たちの中で最も『どうでもいい』とされた子どものお守りを拝命した。蓋を開けてみればその王子は全くどうでもいい子どもなんかじゃなく、今では次期国王と名高い天才だったのだが。
結局もっと「まともな」教育係をつけるために、あっさりと城を追い出され、人里離れた森で警備を行うように命じられた。別の仕事ならいくらでもあっただろうし、そこに悪意があることくらいは察しが付く。幸いだったのは、着任当初欠伸が出るほどだった平和な森に、どういうわけか魔物が発生するようになったからだ。野放しにしていては歩いて一晩かかる小さな村も壊滅しかねない。国にはいくらでも思うところがあったけれど、だからといっていつかの誰かのような思いを関係のない人間に強いるつもりもなかった。結果的にそれがやりがいとなり、ここで孤独に生活を送ることにも慣れたのだ。
「ああ、やっとか」
木製の古い扉の隙間から、まばゆい光が見える。ようやく魔物が回収されたのだろう。光が収まれば向こうからの転送を待つために魔力の充填を行わなければ、というところでメモを置き忘れたことに気づいた。不測の事態に備えての魔力補充は結局義務なのだが、気が滅入る。それでも仕事は仕事だとドアに手をかけると、ノーランが何をする前にドアノブが下がった。
「は?」
「お久しぶりです。先生」
人の声だ。心地よい高さの、大人の男のものだ。ノーランには覚えがなかったが、庶民育ちに対しそんな呼び方をする相手の心当たりは一人だけだ。
「……アベル?」
「嬉しい、覚えていてくれたんですね」
「忘れるわけないだろう」
過ごしたのはたしか四年間、そして、別れたのは四年前。一緒にいた時間と離れていた時間は、ちょうど同じくらいだ。ノーランよりも十センチは高い位置に目があるところを見ると複雑な心境にもなる。追い抜かれたこともあるが、成長を見逃したことが何よりも悔しい。引き裂かれた、なんて言い方は大袈裟かもしれないが会うことが許されなくなった身だ。
「そうだ、どうしてこんなところまで」
「……ちょっと先生の魔力を借りました」
「は!? 魔方陣で人間は移動させるなって教えただろう!」
「ええ、だから先生の魔力を辿りました」
言葉と共に、前に見えるのはいつも通りの森の風景だけになる。彼の気配はそのまま背後へと移動し、振り向けばのんびりとコーヒーを飲んでいた。
「……殿下の口にするものではありません」
「その呼び方やめてください。今更ですよ」
「……アベル、どうして」
「今は『紅蓮の駿馬』で通ってます」
さらさらの赤い髪を揺らして、第29王子は笑ってみせる。二つ名を受け継いだのはおそらく本人の意志だろう。こんな辺境まで追いやったノーランの存在を、国はなるたけ目に入れたくないはずだ。となれば勝手に名乗っているだけか、あるいは文句を言う人間を片っ端から黙らせたか。後者とも言い切れないのは、かつてろくに出来なかった移動魔法を軽々使いこなして見せたからだ。多分彼は、今のノーランよりずっと強い。この力を見誤っていた国を考えると情けなくも思えたが、その判断すらままならないほどに人材が不足しているのだろう。つまり、強く頭も良いアベルはその血筋だけでなく能力的にも国から欠けてはいけない存在ということになる。
「ここに来る……ってことはまあ、言えてないだろうけれど。ちゃんと外出するとは言ってきただろうな?」
「いいえ」
「いいえ、って君……」
「だって逃げてきたんですよ? 言ってくるわけないじゃないですか」
「……何かあったのか?」
頭をよぎったのは物騒な予想だ。この国には王子がやたらと多いから、王位争いが起きない方がおかしい。そんな中で子爵令嬢の母を持つ有能な末っ子ほど目障りな物もないだろう。最有力候補とはいえ、その状況自体がイレギュラーなのだ。侯爵や公爵の血を引く者や、せめてもっと早くに生まれた者など、もっともらしい候補はいくらでもいる。アベルを失うことがどれだけの損失かわからないか、あるいはその損失をわかって尚野望に走るか。
「あの、難しい顔されてますけど今王都も全く平和ですよ」
「へ?」
「王位も争うまでもない、ということになって」
「いやまあ、それはそうだろうけど」
「で、逃げてきました」
「ああ。……うん?」
「王になっても叶いたいことは何も叶わなさそうなので」
椅子の上でくつろぐ様は、そうは言っても高貴に見える。姿勢の問題か、それとも顔立ちが美しいからだろうか。教えていた頃はまだまだ少年といった様子で、そりゃ育ちは良さそうだったがここまでの貫禄はなかったというのに。
「そういうことなので先生……ノーランさん。オレと駆け落ちしてください」
「……は?」
「このままだとどこかの令嬢と結婚なんです、オレ」
「駆け落ち?」
「ええ。オレが一緒になるのはノーランさん以外考えられないので」
「オレと、きみが?」
「はい」
一瞬、言葉の意味が理解出来なかった。なんとか納得できる情報を繋ぎ合わせようとしたが、どうにも形になりそうにない。政略結婚を嫌がるという気持ちはまあわからなくもない。ノーランにだって一度や二度なら上がってきた話だ。そのときはやはり庶民の嫁など嫌だと候補の女性が泣いたのか一瞬で立ち消えたが、あのまま縁談が決まっていたらと思うと気が沈む。
「ノーランさんと一緒に住めるような小さい家を国外に建てましょう」
一人で逃げる、というのは心細いのだろうか。アベルも大人になったとは言え、それでも18歳だ。この国で息を殺して暮らすにしろ他国に亡命するにしろ、誰か見知った相手がいる方が心強いだろう。幸いノーランは戦闘に長けているし、隣に置いておくだけでそれなりの安心感は与えられる。
「もう土地の目星はつけているんです。ああ、ここのことは心配しないでください。元凶に話もつけましたから。全くうちの国の運が良いのか、向こうが悪いのか。まあ、オレたちとしては幸運ですよね。十分な交渉材料になりましたし」
となれば、駆け落ちと言う言葉は何かの言葉遊びだろうか。ノーランが本を読み始めたのはごくごく最近、欲しいものがあるなら書き伝えろと伝令がきてからだ。知らない一般教養はいくらでもあるから、きっと引用元も存在するのだろう。もしくはアベルなりのジョークというやつだろうか。
「覚えてますか、ノーランさんにどんな暮らしがしたいか聞いたら、海の近くでのんびり釣りでもするような暮らしって言ってたの。あのときはあまりに平和でビックリしたんですけど、今ならそれも叶えられます。……オレにはノーランさんさえ隣にいてくれたら、そこがどこでも楽園ですから」
とにかく、ノーランに求められているのはアベルを護衛することだ。国家への反逆とも取られかねないが、まあそのくらいは甘んじて受け入れよう。既に幼い自分を助けてくれたらしいことを原因とした忠誠心は失せていた。もしアベルがいなかったなら誰もいない森からはさっさと出奔しようと思っていたに違いない。
「ノーランさん、オレは……ノーランさん?」
「ん? ああ、わかってるよ。君と一緒に行く」
「……今までの話聞いてました?」
「え?」
アベルの大袈裟な溜め息が、静かな部屋に響き渡った。今までの話、駆け落ちという言葉遊びで亡命を誘われたより後、何か言っていたのだろうか。
「もういいです。一緒に来てくれるなら、今はそれだけで」
「そ、そうか? もう一回話しては……」
「……後で、たくさんお話しましょう」
そう言うと、アベルは空のカップをテーブルに置いて立ち上がる。差し出された手も大きくなってはいたけれど、こちらはまだノーランよりも小さいままだ。
「これからはずっと一緒ですからね」
「ああ、君のことはちゃんと守るから」
「……やっぱり、なんにも聞いてない」
手を取ると、ぐい、と引き寄せられる。思わずバランスを崩せば彼の胸へと飛び込む形になり、ノーランは慌ててアベルを見上げた。そのまま唇に触れた感触は、なんだったのだろう。
「さ、いきましょう」
「へ……?」
「しっかり捕まっていてください。ね?」
いたずらっぽい問いかけには頷くことしか出来なかった。いつの間にか背に回っていたアベルの両腕に気づいたとき、視界が揺らぐ。ノーランは家にも国にも名残惜しさはないが、どういうわけかひどく動揺せざるを得なかった。
「はあ」
湧かしたばかりのお湯でコーヒーを淹れる。残り少なくなってきたが、魔物の遺体の報酬に豆くらい要求しても許されるだろうか。転移のための魔方陣が作動するのは常に軍都合だ。今日は準備が遅いらしく、玄関先では瀕死のウォーグが浅い息を繰り返している。そこに品物を書いたメモを入れておけば、二、三日で要求する品が贈られてくることだろう。もちろん魔力はノーラン持ちだが、それはなんのやりとりであっても変わらない。下等な庶民が軍に名を置けるだけありがたいと思えと言うのは元上司の弁である。まあ、一理あるのだろう。
ノーランは元々、小さな村に生まれた少年だそうだ。ある日突然賊に襲われ、村を焼かれた生き残りの一人だ。戦時下の治安は周辺諸国も含めて荒れに荒れており、田舎では珍しくないことだったという。赤ん坊の頃だったからろくな記憶も無いが、とにかく自分の出自はそうなっている。実際敵国の生まれであってもおかしくないと思うが、考えるだけ損な事柄である。民家の物置で置き去りになっているところを王国軍の兵士に拾われ、孤児院に預けられた後軍に入った。どこにでもいる戦争孤児の、ごくごく普通な生き方だ。だがノーランはよくいる孤児に比べて魔法の才能があったらしい。慣例以上の意味もなさそうな魔力検査で歴代最高値を叩き出し、毎日のように別の戦場へと駆り出されていた。この世で五人と使えない移動魔法を使える後ろ盾一つない雑兵はそれでも使い潰して良い存在だったようで、あの頃はろくに眠った記憶も無い。流石に能力に対し安く使われすぎたのではないかと気づいたのは戦争で勝利を収めた後だった。
「……はあー」
ノーランは手元のカップに視線を落としながら溜め息をつく。口の中に広がる苦みは眠気を攫うが、同時に気持ちを落ち着けてもくれた。それから先の仕事が、生きていた中で一番楽しかったように思う。強さと王族の血、それぞれ無用の長物を持った者同士、面白おかしく暮らしていたのに。
「ん?」
第29王子の教育係、もとい王の息子たちの中で最も『どうでもいい』とされた子どものお守りを拝命した。蓋を開けてみればその王子は全くどうでもいい子どもなんかじゃなく、今では次期国王と名高い天才だったのだが。
結局もっと「まともな」教育係をつけるために、あっさりと城を追い出され、人里離れた森で警備を行うように命じられた。別の仕事ならいくらでもあっただろうし、そこに悪意があることくらいは察しが付く。幸いだったのは、着任当初欠伸が出るほどだった平和な森に、どういうわけか魔物が発生するようになったからだ。野放しにしていては歩いて一晩かかる小さな村も壊滅しかねない。国にはいくらでも思うところがあったけれど、だからといっていつかの誰かのような思いを関係のない人間に強いるつもりもなかった。結果的にそれがやりがいとなり、ここで孤独に生活を送ることにも慣れたのだ。
「ああ、やっとか」
木製の古い扉の隙間から、まばゆい光が見える。ようやく魔物が回収されたのだろう。光が収まれば向こうからの転送を待つために魔力の充填を行わなければ、というところでメモを置き忘れたことに気づいた。不測の事態に備えての魔力補充は結局義務なのだが、気が滅入る。それでも仕事は仕事だとドアに手をかけると、ノーランが何をする前にドアノブが下がった。
「は?」
「お久しぶりです。先生」
人の声だ。心地よい高さの、大人の男のものだ。ノーランには覚えがなかったが、庶民育ちに対しそんな呼び方をする相手の心当たりは一人だけだ。
「……アベル?」
「嬉しい、覚えていてくれたんですね」
「忘れるわけないだろう」
過ごしたのはたしか四年間、そして、別れたのは四年前。一緒にいた時間と離れていた時間は、ちょうど同じくらいだ。ノーランよりも十センチは高い位置に目があるところを見ると複雑な心境にもなる。追い抜かれたこともあるが、成長を見逃したことが何よりも悔しい。引き裂かれた、なんて言い方は大袈裟かもしれないが会うことが許されなくなった身だ。
「そうだ、どうしてこんなところまで」
「……ちょっと先生の魔力を借りました」
「は!? 魔方陣で人間は移動させるなって教えただろう!」
「ええ、だから先生の魔力を辿りました」
言葉と共に、前に見えるのはいつも通りの森の風景だけになる。彼の気配はそのまま背後へと移動し、振り向けばのんびりとコーヒーを飲んでいた。
「……殿下の口にするものではありません」
「その呼び方やめてください。今更ですよ」
「……アベル、どうして」
「今は『紅蓮の駿馬』で通ってます」
さらさらの赤い髪を揺らして、第29王子は笑ってみせる。二つ名を受け継いだのはおそらく本人の意志だろう。こんな辺境まで追いやったノーランの存在を、国はなるたけ目に入れたくないはずだ。となれば勝手に名乗っているだけか、あるいは文句を言う人間を片っ端から黙らせたか。後者とも言い切れないのは、かつてろくに出来なかった移動魔法を軽々使いこなして見せたからだ。多分彼は、今のノーランよりずっと強い。この力を見誤っていた国を考えると情けなくも思えたが、その判断すらままならないほどに人材が不足しているのだろう。つまり、強く頭も良いアベルはその血筋だけでなく能力的にも国から欠けてはいけない存在ということになる。
「ここに来る……ってことはまあ、言えてないだろうけれど。ちゃんと外出するとは言ってきただろうな?」
「いいえ」
「いいえ、って君……」
「だって逃げてきたんですよ? 言ってくるわけないじゃないですか」
「……何かあったのか?」
頭をよぎったのは物騒な予想だ。この国には王子がやたらと多いから、王位争いが起きない方がおかしい。そんな中で子爵令嬢の母を持つ有能な末っ子ほど目障りな物もないだろう。最有力候補とはいえ、その状況自体がイレギュラーなのだ。侯爵や公爵の血を引く者や、せめてもっと早くに生まれた者など、もっともらしい候補はいくらでもいる。アベルを失うことがどれだけの損失かわからないか、あるいはその損失をわかって尚野望に走るか。
「あの、難しい顔されてますけど今王都も全く平和ですよ」
「へ?」
「王位も争うまでもない、ということになって」
「いやまあ、それはそうだろうけど」
「で、逃げてきました」
「ああ。……うん?」
「王になっても叶いたいことは何も叶わなさそうなので」
椅子の上でくつろぐ様は、そうは言っても高貴に見える。姿勢の問題か、それとも顔立ちが美しいからだろうか。教えていた頃はまだまだ少年といった様子で、そりゃ育ちは良さそうだったがここまでの貫禄はなかったというのに。
「そういうことなので先生……ノーランさん。オレと駆け落ちしてください」
「……は?」
「このままだとどこかの令嬢と結婚なんです、オレ」
「駆け落ち?」
「ええ。オレが一緒になるのはノーランさん以外考えられないので」
「オレと、きみが?」
「はい」
一瞬、言葉の意味が理解出来なかった。なんとか納得できる情報を繋ぎ合わせようとしたが、どうにも形になりそうにない。政略結婚を嫌がるという気持ちはまあわからなくもない。ノーランにだって一度や二度なら上がってきた話だ。そのときはやはり庶民の嫁など嫌だと候補の女性が泣いたのか一瞬で立ち消えたが、あのまま縁談が決まっていたらと思うと気が沈む。
「ノーランさんと一緒に住めるような小さい家を国外に建てましょう」
一人で逃げる、というのは心細いのだろうか。アベルも大人になったとは言え、それでも18歳だ。この国で息を殺して暮らすにしろ他国に亡命するにしろ、誰か見知った相手がいる方が心強いだろう。幸いノーランは戦闘に長けているし、隣に置いておくだけでそれなりの安心感は与えられる。
「もう土地の目星はつけているんです。ああ、ここのことは心配しないでください。元凶に話もつけましたから。全くうちの国の運が良いのか、向こうが悪いのか。まあ、オレたちとしては幸運ですよね。十分な交渉材料になりましたし」
となれば、駆け落ちと言う言葉は何かの言葉遊びだろうか。ノーランが本を読み始めたのはごくごく最近、欲しいものがあるなら書き伝えろと伝令がきてからだ。知らない一般教養はいくらでもあるから、きっと引用元も存在するのだろう。もしくはアベルなりのジョークというやつだろうか。
「覚えてますか、ノーランさんにどんな暮らしがしたいか聞いたら、海の近くでのんびり釣りでもするような暮らしって言ってたの。あのときはあまりに平和でビックリしたんですけど、今ならそれも叶えられます。……オレにはノーランさんさえ隣にいてくれたら、そこがどこでも楽園ですから」
とにかく、ノーランに求められているのはアベルを護衛することだ。国家への反逆とも取られかねないが、まあそのくらいは甘んじて受け入れよう。既に幼い自分を助けてくれたらしいことを原因とした忠誠心は失せていた。もしアベルがいなかったなら誰もいない森からはさっさと出奔しようと思っていたに違いない。
「ノーランさん、オレは……ノーランさん?」
「ん? ああ、わかってるよ。君と一緒に行く」
「……今までの話聞いてました?」
「え?」
アベルの大袈裟な溜め息が、静かな部屋に響き渡った。今までの話、駆け落ちという言葉遊びで亡命を誘われたより後、何か言っていたのだろうか。
「もういいです。一緒に来てくれるなら、今はそれだけで」
「そ、そうか? もう一回話しては……」
「……後で、たくさんお話しましょう」
そう言うと、アベルは空のカップをテーブルに置いて立ち上がる。差し出された手も大きくなってはいたけれど、こちらはまだノーランよりも小さいままだ。
「これからはずっと一緒ですからね」
「ああ、君のことはちゃんと守るから」
「……やっぱり、なんにも聞いてない」
手を取ると、ぐい、と引き寄せられる。思わずバランスを崩せば彼の胸へと飛び込む形になり、ノーランは慌ててアベルを見上げた。そのまま唇に触れた感触は、なんだったのだろう。
「さ、いきましょう」
「へ……?」
「しっかり捕まっていてください。ね?」
いたずらっぽい問いかけには頷くことしか出来なかった。いつの間にか背に回っていたアベルの両腕に気づいたとき、視界が揺らぐ。ノーランは家にも国にも名残惜しさはないが、どういうわけかひどく動揺せざるを得なかった。
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