23 / 26
連作「少し貸してほしいんだけど」
第6話 また行き違⋯⋯う
しおりを挟む
朝の光が低い角度で差し込むリビングに、湯気の立つカップが二つ並んでいた。
片方はまだ手を付けられずに冷めかけており、もう片方は飲みかけで、縁についた口紅の跡が小さく乾いている。
春の終わりの匂いを含んだ風がカーテンを揺らすたび、二人が昨夜どんな話をしたのかを、家そのものが無言で覚えているようだった。
「……で、結局どうするつもりなのタカは?」
彼女――茉央(まお)が、それほど強くない声で問いかけた。
彼——剛彦(たかひこ)は曖昧に笑ってみせた。笑ったつもりだったが、どう見てもただ口の端が迷っただけの動きだった。
「どうする、っていうのは、どの……話だっけマオちゃん」
「全部よ。ぜんぶまとめて、って意味で聞いてるの」
視線を逸らした彼の肩に、朝の光が斜めに落ちていた。いつもなら彼はすぐに話を変える。天気の話でも、ニュースの話でも、コーヒー豆の挽き方の話でもいい、とにかく別の話題を見つけて逃げる。それが、ここ数カ月の彼の“癖”になっていた。
今日のタカヒコは、逃げなかった。逃げる場所を、少しだけ貸し借りの中で見失ったのかもしれない。
「……マオは、さ。俺に、何をしてほしいの」
その言い方は卑怯なほどやわらかかった。答えを委ねるふりをしながら、責任の半分をそっと相手に渡すような調子だった。
茉央はテーブルの端に置いた指先で、冷めたカップの取っ手をかすかに弾いた。
「してほしいことなんて、そんなにないよ。ただ……たまにでいいから、“心を貸してくれる”って感じが、ほしいだけ」
彼はその言葉をどう理解していいのか迷ったらしく、眉尻がほんの少しだけ落ちた。
「心ごと持って行けって言われるより、ずいぶん軽い要望に聞こえるんだけど」
「軽いでしょう? でもタカは、これすらたまに忘れるんだから」
皮肉ではあったが、刺すためのものではない。言ったあとで茉央がかすかに微笑んだことで、それが“怒りの代わりに渡す、小さな正直さ”だとすぐに分かる種類のものだった。
彼は息を吸い、吐いた。そのリズムは思いのほか静かで、諦めにも似ていたが、それ以上に、何かを決める前の深呼吸に近かった。
「貸すってさ。どうすればいい? 具体的に教えてよ。俺、下手だから、こういうの」
「バカなイケメンで背高いから下手なのは分かってるよ。でも……」
茉央は片手を伸ばし、テーブルの上で待っている彼の手をひっくり返すように掴んだ。
その仕草は“慰め”でも“確認”でもなく、ただの“合図”だった。
「聞いてくれれば、それで半分。もう半分は……返そうとか考えないで、とりあえず置いといてくれればいいの」
「置いとく?」
「うん。あなたの部屋に荷物を少し置かせてもらう、くらいの気楽さでさ」
彼は笑った。今度は本当に笑った。
いつものように照れ隠しではなく、ようやく分かった、という種類の笑いだった。
「じゃあ……今日のぶんくらいなら、貸せると思う」
「今日のぶんだけでいいよ。また明日、借りに来るから」
「明日は……貸せるかな」
「貸してよ。少しでいいから」
言葉だけ聞けばまるで冗談だが、二人の間に流れる空気は軽くなかった。
お互いに他に結婚している相手より今は、大切に、したいから。
むしろ、軽くしすぎないようにと、お互いが気を使いながら踏み出している最初の一歩のようだった。
朝の光は二人の間に、新しい線を引くように差し込んでいた。その線は、貸し借りの境界線のようでもあり、曖昧さを許すための緩衝材のようでもある。
彼はようやく冷めたコーヒーに手を伸ばした。
「今日のぶん、な。……返品不可でお願い」
「いいよ。そもそも返す気なかったし」
茉央の返事は軽く、しかしどこかで深く、心の棚にそっと置かれるようだった。
――今日もまた、少しだけ貸してもらえた。
その確かさだけが、静かに積もっていった。
※この話は別シリーズ「今までやってこれたのに」の「忖度、空気読んでよ」へ続きます。続編は近日公開します
片方はまだ手を付けられずに冷めかけており、もう片方は飲みかけで、縁についた口紅の跡が小さく乾いている。
春の終わりの匂いを含んだ風がカーテンを揺らすたび、二人が昨夜どんな話をしたのかを、家そのものが無言で覚えているようだった。
「……で、結局どうするつもりなのタカは?」
彼女――茉央(まお)が、それほど強くない声で問いかけた。
彼——剛彦(たかひこ)は曖昧に笑ってみせた。笑ったつもりだったが、どう見てもただ口の端が迷っただけの動きだった。
「どうする、っていうのは、どの……話だっけマオちゃん」
「全部よ。ぜんぶまとめて、って意味で聞いてるの」
視線を逸らした彼の肩に、朝の光が斜めに落ちていた。いつもなら彼はすぐに話を変える。天気の話でも、ニュースの話でも、コーヒー豆の挽き方の話でもいい、とにかく別の話題を見つけて逃げる。それが、ここ数カ月の彼の“癖”になっていた。
今日のタカヒコは、逃げなかった。逃げる場所を、少しだけ貸し借りの中で見失ったのかもしれない。
「……マオは、さ。俺に、何をしてほしいの」
その言い方は卑怯なほどやわらかかった。答えを委ねるふりをしながら、責任の半分をそっと相手に渡すような調子だった。
茉央はテーブルの端に置いた指先で、冷めたカップの取っ手をかすかに弾いた。
「してほしいことなんて、そんなにないよ。ただ……たまにでいいから、“心を貸してくれる”って感じが、ほしいだけ」
彼はその言葉をどう理解していいのか迷ったらしく、眉尻がほんの少しだけ落ちた。
「心ごと持って行けって言われるより、ずいぶん軽い要望に聞こえるんだけど」
「軽いでしょう? でもタカは、これすらたまに忘れるんだから」
皮肉ではあったが、刺すためのものではない。言ったあとで茉央がかすかに微笑んだことで、それが“怒りの代わりに渡す、小さな正直さ”だとすぐに分かる種類のものだった。
彼は息を吸い、吐いた。そのリズムは思いのほか静かで、諦めにも似ていたが、それ以上に、何かを決める前の深呼吸に近かった。
「貸すってさ。どうすればいい? 具体的に教えてよ。俺、下手だから、こういうの」
「バカなイケメンで背高いから下手なのは分かってるよ。でも……」
茉央は片手を伸ばし、テーブルの上で待っている彼の手をひっくり返すように掴んだ。
その仕草は“慰め”でも“確認”でもなく、ただの“合図”だった。
「聞いてくれれば、それで半分。もう半分は……返そうとか考えないで、とりあえず置いといてくれればいいの」
「置いとく?」
「うん。あなたの部屋に荷物を少し置かせてもらう、くらいの気楽さでさ」
彼は笑った。今度は本当に笑った。
いつものように照れ隠しではなく、ようやく分かった、という種類の笑いだった。
「じゃあ……今日のぶんくらいなら、貸せると思う」
「今日のぶんだけでいいよ。また明日、借りに来るから」
「明日は……貸せるかな」
「貸してよ。少しでいいから」
言葉だけ聞けばまるで冗談だが、二人の間に流れる空気は軽くなかった。
お互いに他に結婚している相手より今は、大切に、したいから。
むしろ、軽くしすぎないようにと、お互いが気を使いながら踏み出している最初の一歩のようだった。
朝の光は二人の間に、新しい線を引くように差し込んでいた。その線は、貸し借りの境界線のようでもあり、曖昧さを許すための緩衝材のようでもある。
彼はようやく冷めたコーヒーに手を伸ばした。
「今日のぶん、な。……返品不可でお願い」
「いいよ。そもそも返す気なかったし」
茉央の返事は軽く、しかしどこかで深く、心の棚にそっと置かれるようだった。
――今日もまた、少しだけ貸してもらえた。
その確かさだけが、静かに積もっていった。
※この話は別シリーズ「今までやってこれたのに」の「忖度、空気読んでよ」へ続きます。続編は近日公開します
0
あなたにおすすめの小説
中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語
jun( ̄▽ ̄)ノ
大衆娯楽
中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ
★作品はマリーの語り、一人称で進行します。
幸せの25セント
四季苺
恋愛
紅林星野(くればやしほしの)大学二年生は怒っていた。付き合って二年になる彼氏が「三日後に留学する」と伝えてきたからだ。意地っ張りな性格と忙しさが災いして、会うことも素直な気持ちを伝えることもできずに二人の関係が終わってしまいそうだったけれど…バイト先でお客さんがくれた一枚の二十五セント硬貨をきっかけに、星野の気持ちが動き出す!
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる