25 / 30
連作「少し貸してほしいんだけど」
第7話 ほわっ、と
しおりを挟む
放課後の音というのは、どうしてこんなに落ち着きがないのだろう、と黎斗はときどき思う。
チャイムが鳴ってから三十分も経つのに、校舎のどこかではまだ誰かが笑い、誰かが走り、誰かが教室の扉を乱暴に締めていく。
湿った空気の隙間を、少年少女の声が行き交うそのざわめきは、ちょっとした夕立みたいに突発的で、気まぐれで、そして少しだけ寂しい。
そんな音の残り香がまだ漂う廊下を、澪の靴音だけがゆっくり進んでいた。
彼女は、階段の踊り場に立つ黎斗に気づくと、首をかしげたまま小さく笑った。
「珍しいね、こんなところで」
「ちょっと待ってた」
「私を?」
「他に誰がいるの」
言い方は淡々としているのに、その奥で少しだけ照れている気配がある。黎斗のそういうところを、澪は嫌いになれなかった。
「で、どうしたの?」
「声を貸してほしくて」
「声?」
澪は困ったように笑い、鞄を持ち直した。
“声を貸す”なんて、まるで寓話の一節みたいな言い方だと思う。それでも話を促すように階段の手すりにもたれ、黎斗の言葉を待った。
「今日のスピーチ、さ……俺、あんまり上手くいかなくて」
「ああ、聞いてたよ。そんなに悪くなかったけど」
「澪が思う“悪くない”って、たぶん他の人の“すごく良い”くらいなんだよ」
「そんなことないでしょ」
「あるんだよ」
黎斗は小さく息を吐き、続けた。
「で……その、練習付き合ってくれないかな。澪の前だと、不思議とちゃんと話せるから」
「へえ、理由は?」
「わからん。でも、澪に向かって話してる時は、変に構えなくていい気がする」
「私、そんな効能あったんだ」
「あったんだよ、たぶん生まれつき」
黎斗の軽口は普段よりずっと柔らかかった。
澪はため息交じりに笑いながら、でもその頼り方を悪くは思わなかった。必要とされたというよりも、“頼る相手として選ばれた”という手触りが、胸の奥で微かに温かかったから。
「いいよ。貸すよ、声」
「ほんと?」
「うん。ただし条件付き」
「条件?」
「変な借り方したら、利子つくよ?」
黎斗は一瞬だけ黙り、そして吹き出した。
「なんだよそれ」
「声ってさ、返ってくる時に形変わってたりするから。ほら、誰かを励ましたつもりが逆に相手を傷つけたり、逆もあったり」
「……あるな、そういうの」
「だから、丁寧に使ってねってこと」
澪の言葉は柔らかいのに、妙に核心を突いていた。
黎斗は頷き、階段の下の小さな空き教室へ向かって歩き出す。
「じゃあ、借りる」
「どうぞ。好きなだけ」
「いや、好きなだけは困る。返せない」
「返さなくていいよ」
「なんで?」
「あなたのスピーチがうまくなるなら、それで充分」
そんなふうに言われたのは初めてだった。
褒められるのとも違う、慰められるのとも違う。
ただ、ささやかな“肯定”を受け取ったような気持ちになって、黎斗は喉の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。
空き教室は、夕方の光が斜めに差し込んで、机の上を薄金色に照らしていた。
澪は椅子を引き、手の甲で頬を支えながら、言った。
「じゃあ、どうぞ。聞いてるから」
「いくよ……」
黎斗は深呼吸をした。
そして、澪の前だけでは不思議と素直になれる声で、ゆっくり語り始めた。
言葉を探すたびに、澪の視線が“急がなくていいよ”と伝えてくる。
声が震えそうになる瞬間には、小さく頷いてくれる。
話が途切れたときは、少しだけ微笑んで“続けて”と促してくれる。
ああ、これだ――と黎斗は思った。
自分が“声を貸してほしい”と思った理由は。
ただ、上手く話したいからじゃない。
澪に向かっているこの瞬間だけ、自分の言葉がまっすぐに落ち着く。それが心地よくて、手放しがたかっただけだ。
五分ほどで話し終えると、澪は「うん、良かったよ」と淡々と言った。
それは褒め言葉というより、本当に事実だけを渡してくれるような、余計な熱のない言い方だった。
「本当に?」
「うん。今日よりずっと良かった」
「そっか……」
「ねえ、黎斗」
「ん?」
「声、また貸してほしくなったら言ってね。利子は、まあ……気分次第にしとく」
黎斗は、顔を上げた。
返事をする代わりに、静かに頷いた。
外では、校庭のどこかでサッカー部がボールを蹴る音が響いていた。
その律動に合わせて、澪は机の天板を指で軽くトントンと叩きながら言った。
「じゃあ、次の人、どうぞ?」
「次の人?」
「あなたの“声”が届く相手。クラスに何人かいるでしょ。ほら、あの子とか」
「……やめろ、急に刺す方向でくるな」
「刺してないよ。ただの観察」
その会話に、ふたりは同時に笑った。
その笑い声こそが、たぶん誰にも貸す予定のなかった――
でも結果的に相手へ預けてしまった、小さな心の一部だった。
*
その笑い声こそが、たぶん澪が一番「貸したかった声」だったのだろう、と黎斗はあとになって思う。
練習だとか、スピーチだとか、理由はいくらでも添えられるけれど――本当はただ、誰かと共有できる溶けるような声が、どこかに少しだけ必要だったのだ。
窓の外の日が傾き、教室の床に落ちる光の帯が細くなっていく。
澪は鞄を肩にかけ、振り返って言った。
「じゃあ、今日はここまで。返却期限は……そのうちでいいよ」
「期限、ゆるいな」
「声ってさ、期限つけちゃうと濁るから」
「濁るの?」
「ええ。私の声も、あなたの声も。あんまり急かすと、音が固くなる」
「……なるほど」
「だから、いまのままでいいの」
そう言って澪は軽く手を振った。
その声はまるで“また明日”という普通の挨拶のようでいて、少しだけ特別な気配をふくんでいた。
黎斗はその気配に気づかないふりをしながら、けれど胸のどこかにそっとしまった。
貸し借りというほど大げさではない。
ただ、自分の言葉が誰かにまっすぐ届く瞬間があるということ――それだけで、黎斗は嬉しかった。
チャイムが鳴ってから三十分も経つのに、校舎のどこかではまだ誰かが笑い、誰かが走り、誰かが教室の扉を乱暴に締めていく。
湿った空気の隙間を、少年少女の声が行き交うそのざわめきは、ちょっとした夕立みたいに突発的で、気まぐれで、そして少しだけ寂しい。
そんな音の残り香がまだ漂う廊下を、澪の靴音だけがゆっくり進んでいた。
彼女は、階段の踊り場に立つ黎斗に気づくと、首をかしげたまま小さく笑った。
「珍しいね、こんなところで」
「ちょっと待ってた」
「私を?」
「他に誰がいるの」
言い方は淡々としているのに、その奥で少しだけ照れている気配がある。黎斗のそういうところを、澪は嫌いになれなかった。
「で、どうしたの?」
「声を貸してほしくて」
「声?」
澪は困ったように笑い、鞄を持ち直した。
“声を貸す”なんて、まるで寓話の一節みたいな言い方だと思う。それでも話を促すように階段の手すりにもたれ、黎斗の言葉を待った。
「今日のスピーチ、さ……俺、あんまり上手くいかなくて」
「ああ、聞いてたよ。そんなに悪くなかったけど」
「澪が思う“悪くない”って、たぶん他の人の“すごく良い”くらいなんだよ」
「そんなことないでしょ」
「あるんだよ」
黎斗は小さく息を吐き、続けた。
「で……その、練習付き合ってくれないかな。澪の前だと、不思議とちゃんと話せるから」
「へえ、理由は?」
「わからん。でも、澪に向かって話してる時は、変に構えなくていい気がする」
「私、そんな効能あったんだ」
「あったんだよ、たぶん生まれつき」
黎斗の軽口は普段よりずっと柔らかかった。
澪はため息交じりに笑いながら、でもその頼り方を悪くは思わなかった。必要とされたというよりも、“頼る相手として選ばれた”という手触りが、胸の奥で微かに温かかったから。
「いいよ。貸すよ、声」
「ほんと?」
「うん。ただし条件付き」
「条件?」
「変な借り方したら、利子つくよ?」
黎斗は一瞬だけ黙り、そして吹き出した。
「なんだよそれ」
「声ってさ、返ってくる時に形変わってたりするから。ほら、誰かを励ましたつもりが逆に相手を傷つけたり、逆もあったり」
「……あるな、そういうの」
「だから、丁寧に使ってねってこと」
澪の言葉は柔らかいのに、妙に核心を突いていた。
黎斗は頷き、階段の下の小さな空き教室へ向かって歩き出す。
「じゃあ、借りる」
「どうぞ。好きなだけ」
「いや、好きなだけは困る。返せない」
「返さなくていいよ」
「なんで?」
「あなたのスピーチがうまくなるなら、それで充分」
そんなふうに言われたのは初めてだった。
褒められるのとも違う、慰められるのとも違う。
ただ、ささやかな“肯定”を受け取ったような気持ちになって、黎斗は喉の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。
空き教室は、夕方の光が斜めに差し込んで、机の上を薄金色に照らしていた。
澪は椅子を引き、手の甲で頬を支えながら、言った。
「じゃあ、どうぞ。聞いてるから」
「いくよ……」
黎斗は深呼吸をした。
そして、澪の前だけでは不思議と素直になれる声で、ゆっくり語り始めた。
言葉を探すたびに、澪の視線が“急がなくていいよ”と伝えてくる。
声が震えそうになる瞬間には、小さく頷いてくれる。
話が途切れたときは、少しだけ微笑んで“続けて”と促してくれる。
ああ、これだ――と黎斗は思った。
自分が“声を貸してほしい”と思った理由は。
ただ、上手く話したいからじゃない。
澪に向かっているこの瞬間だけ、自分の言葉がまっすぐに落ち着く。それが心地よくて、手放しがたかっただけだ。
五分ほどで話し終えると、澪は「うん、良かったよ」と淡々と言った。
それは褒め言葉というより、本当に事実だけを渡してくれるような、余計な熱のない言い方だった。
「本当に?」
「うん。今日よりずっと良かった」
「そっか……」
「ねえ、黎斗」
「ん?」
「声、また貸してほしくなったら言ってね。利子は、まあ……気分次第にしとく」
黎斗は、顔を上げた。
返事をする代わりに、静かに頷いた。
外では、校庭のどこかでサッカー部がボールを蹴る音が響いていた。
その律動に合わせて、澪は机の天板を指で軽くトントンと叩きながら言った。
「じゃあ、次の人、どうぞ?」
「次の人?」
「あなたの“声”が届く相手。クラスに何人かいるでしょ。ほら、あの子とか」
「……やめろ、急に刺す方向でくるな」
「刺してないよ。ただの観察」
その会話に、ふたりは同時に笑った。
その笑い声こそが、たぶん誰にも貸す予定のなかった――
でも結果的に相手へ預けてしまった、小さな心の一部だった。
*
その笑い声こそが、たぶん澪が一番「貸したかった声」だったのだろう、と黎斗はあとになって思う。
練習だとか、スピーチだとか、理由はいくらでも添えられるけれど――本当はただ、誰かと共有できる溶けるような声が、どこかに少しだけ必要だったのだ。
窓の外の日が傾き、教室の床に落ちる光の帯が細くなっていく。
澪は鞄を肩にかけ、振り返って言った。
「じゃあ、今日はここまで。返却期限は……そのうちでいいよ」
「期限、ゆるいな」
「声ってさ、期限つけちゃうと濁るから」
「濁るの?」
「ええ。私の声も、あなたの声も。あんまり急かすと、音が固くなる」
「……なるほど」
「だから、いまのままでいいの」
そう言って澪は軽く手を振った。
その声はまるで“また明日”という普通の挨拶のようでいて、少しだけ特別な気配をふくんでいた。
黎斗はその気配に気づかないふりをしながら、けれど胸のどこかにそっとしまった。
貸し借りというほど大げさではない。
ただ、自分の言葉が誰かにまっすぐ届く瞬間があるということ――それだけで、黎斗は嬉しかった。
0
あなたにおすすめの小説
邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ
零
BL
鍛えられた肉体、高潔な魂――
それは選ばれし“供物”の条件。
山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。
見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。
誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。
心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
お姫様は死に、魔女様は目覚めた
悠十
恋愛
とある大国に、小さいけれど豊かな国の姫君が側妃として嫁いだ。
しかし、離宮に案内されるも、離宮には侍女も衛兵も居ない。ベルを鳴らしても、人を呼んでも誰も来ず、姫君は長旅の疲れから眠り込んでしまう。
そして、深夜、姫君は目覚め、体の不調を感じた。そのまま気を失い、三度目覚め、三度気を失い、そして……
「あ、あれ? えっ、なんで私、前の体に戻ってるわけ?」
姫君だった少女は、前世の魔女の体に魂が戻ってきていた。
「えっ、まさか、あのまま死んだ⁉」
魔女は慌てて遠見の水晶を覗き込む。自分の――姫君の体は、嫁いだ大国はいったいどうなっているのか知るために……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる