とける

田中葵

文字の大きさ
26 / 30
連作「少し貸してほしいんだけど」

第8話 フラっと選挙宣伝されて(汗)

しおりを挟む
 選挙期間に入ると、街は急に“アレを借りたい人たち”であふれ始める。
 候補者の顔写真が貼られたポスターは、まるで「貸してくれ」と書かれた札のように、電柱や掲示板に無造作に並んでいく。

 街中にいた吉岡杏樹は、その光景にいつも「急に頼みごとが増える親戚みたい」と思っていた。
 普段は顔も見ないのに、必要なときだけ丁寧に電話してくる——
 そんな関係に少し似ていた。

 ある午後、街頭演説のマイクが、遠くの商店街から風にのって届く。
 杏樹は、スーパーの帰り道、“いつもここに来ない人の声”が響く違和感に足を止めた。

「市民のみなさんの“力”を、どうか私に——」

 その言い方がどうにも引っかかる。
 力なんて、丸ごと貸す必要がどこにあるのだろう。自分の一票は、一部であって全部ではないはずだ。
 候補者たちは、その“一部”をまとめて借りようとする。

「あの、こちらどうぞ」

 後ろから声をかけられた。
 振り返ると、若いスタッフが短冊状のチラシを差し出していた。選挙期間になると、妙に丁寧な笑顔の人が増える。
 杏樹はその笑顔を見ると、
相手の本音の温度が見えなくなるような気がして、少し苦手だった。

「候補者の政策がまとめてあります。よろしければ——」

「ああ、どうも」

 受け取ると、若いスタッフはさらに声を落とした。

「応援、いただけますか?」

 その一言だけ、ほんの少しだけ本音に近かった。“貸してほしいんです”という、控えめな必死さが透けて見える。
 杏樹は相手の真剣さを無下にできず、曖昧に頷きながらチラシを折り畳む。

「……まあ、考えておきます」

「ありがとうございます!」

 スタッフの声は、借りられたと勘違いしたように明るかった。
 杏樹は、胸の中で小さな申し訳なさを覚える。
 貸したつもりはないのに、相手は借りたつもりになる——
 選挙では、それがよくある。というか、むしろあり過ぎて。

 チラシを眺めると、政策はどれも
「市民のため」
「暮らしを良くするため」と書かれていた。
 どれも正しく、どれも少し嘘だった。
“誰のため”かを言い切れる政治家なんて、おそらく存在しないからだ。

 家に帰ると、テレビの討論会がついていた。
 候補者たちは、視聴者の“一票”をまるでまとめて借りられるかのような口ぶりで話している。

「市民の皆さんは、私を信じて——」

 杏樹はテレビを消し、窓から外を眺めた。
 夕暮れの空は、どこにも属さずにただ広がっていた。

 ——少しだけなら、貸してもいいのかもしれない。

 杏樹はそんなことを考えた。
 丸ごと貸せば裏切られる。全部預ければ、返ってこない。だけど、期待のほんの欠片みたいなものなら、貸してもいい。
 選挙なんて結局、誰かに“一部だけ希望を貸す行為”なのかもしれない。

 翌日、また別の候補者が駅前に来ていた。
 同じようにスタッフがビラを配り、同じように丁寧すぎる笑顔を浮かべている。

 杏樹はその候補者の前を通りかかったとき、足を止めた。
 候補者が少し驚いて、しかしすぐに営業用の笑顔を整える。

「ご関心、ありますか?」

「はい、ちょっとだけ。少しだけ」

 候補者は一瞬、意味を測りかねたように眉を動かしたが、すぐに笑顔に戻る。
 杏樹は続けた。

「全部は貸せません。
 でも、“少しだけなら”向けられます!」

 候補者は言葉を詰まらせ、その一言の重さをどう受け取るべきか迷っているようだった。
 杏樹はそれ以上何も言わずに歩き出した。

 背中の方で、マイクの音が風に流される。

 ──“少しだけ”貸すという態度は、
 借りる側にとって理解しづらいのかもしれない。
 けれど、返ってこないことを前提に
 丸ごと貸す必要なんて、どこにもない。

 家に帰る途中、杏樹は思う。
 市民であるということは、誰かのために全部を差し出すことではなくて、
 疲労も裏切りも込みで、“貸せる分だけで付き合う”そんな距離感を選ぶ自由のことなのだ、と。

 その夜、窓を開けると、
 遠くでまた別の候補者がマイクを握っていた。
 風が音を千切って運んでいく。

 杏樹は小さく笑い、冷めかけたお茶を口に含んだ。

 ——今回は“少しだけ”貸そう。

 そう思える程度には、世界との距離を自分で決められる夜だった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ

BL
鍛えられた肉体、高潔な魂―― それは選ばれし“供物”の条件。 山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。 見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。 誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。 心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

お姫様は死に、魔女様は目覚めた

悠十
恋愛
 とある大国に、小さいけれど豊かな国の姫君が側妃として嫁いだ。  しかし、離宮に案内されるも、離宮には侍女も衛兵も居ない。ベルを鳴らしても、人を呼んでも誰も来ず、姫君は長旅の疲れから眠り込んでしまう。  そして、深夜、姫君は目覚め、体の不調を感じた。そのまま気を失い、三度目覚め、三度気を失い、そして…… 「あ、あれ? えっ、なんで私、前の体に戻ってるわけ?」  姫君だった少女は、前世の魔女の体に魂が戻ってきていた。 「えっ、まさか、あのまま死んだ⁉」  魔女は慌てて遠見の水晶を覗き込む。自分の――姫君の体は、嫁いだ大国はいったいどうなっているのか知るために……

処理中です...