とける

田中葵

文字の大きさ
27 / 30
連作「少し貸してほしいんだけど」

第9話 本当に要るなら

しおりを挟む
 最近、この街の人々は疑い深くなったからなのか「情報を貸したがらない」。
 正確には、貸してくれたり、貸してくれなかったり、ほんの少しだけ貸してくれたり――そのムラの大きさが、かえって社会全体の空気を重くしていた。道を教えるにも遠回し、仕事のノウハウは「まあ、そのうちね」で濁され、誰かが知っているはずの答えに手を伸ばしても、透明な壁に阻まれるような感覚だけが返ってくる。

 晴人(はると)は今日、その透明な壁に三回ぶつかった。
 業務で必要なデータの所在を尋ねても、返ってくるのは曖昧な笑顔と「たぶん共有フォルダのどこか」のみ。どこか、とはどこだ。壁の中か。壁の外か。

「ねえ、あの人たちさ」

 と、同僚の瑠衣(るい)がひそひそ声で言った。

「情報、貸してるつもりなんだよ。きっと」

「貸してるつもりの人ほど、貸せてないよね」

「そうなんだよね。貸したって思い込んでる分、こっちの困り顔が届かないんだよ」

 二人は休憩スペースの丸テーブルに向かい合い、缶コーヒーを開けた。
 貸し渋りの空気は会社だけでなく、SNSでも街中でも感じられ、まるで“情報そのものの値段”がじわじわ上がっているような世界だった。

「で、晴人はどうしたいの?」

「どうしたいって?」

「今日の件、あの人たちから情報借りるの諦めるのか、もう一回行くのか」

 晴人は缶のプルタブを指でいじりながら、答えを探した。
 怒っているわけではない。ただ、いつのまにか“情報の貸し借りにも気疲れが必要な社会”に慣れてしまった自分に、じんわり違和感があった。

「正直さ……」

「うん」

「借りたいよ。情報が欲しいっていうより、“貸してもらえる関係でいたい”っていうほうが、でかい」

 瑠衣は眉を上げた。

「分かる。めちゃくちゃ分かる」

「情報そのものは、探せばどこかにあるんだよ。でも、“あなたなら貸すよ”っていう、あの小さな合図がないと、社会がやけに冷える」

「それ、今日の核心だね」

 瑠衣はカップの縁を指でなぞりながら、ぽつりと言った。

「私さ、こないだ別の部署に訊きに行ったとき、“教えていいのかな”って言われたんだよね。あの声色が忘れられないの」

「それって……貸すか渋るか、相手が迷ったってこと?」

「そう。自分が持ってる情報に“身分証チェック”みたいなものを付けてる感じ。権利証明してからじゃないと渡せませんって」

「それ、もう貸し渋りじゃなくて、貸す気ないよね」

「本人は“慎重なだけ”って思ってるんだけどね」

 二人の会話には、皮肉と疲労が半々に混じっていた。
 だが柔らかい声のやり取りは、今日に限っては救いになっていた。

「じゃあさ」

 瑠衣が缶をテーブルに置き、少し前のめりになる。

「晴人は、どのくらい“貸してほしい”わけ?」

「具体的には……」

 晴人は目を細め、会社の天井を仰いだ。
 光の反射が白っぽく揺れ、言葉がゆっくり形を取っていく。

「必要な情報を、“必要だね”って言ってくれる温度で渡してほしい」

「温度?」

「うん。貸す・貸さないじゃなくて、“困ってるよね”っていう体温。情報より、そっちのほうが大事」

「たしかにね……情報って、内容より“手渡し方”で値段が変わるよね」

「そうなんだよ。雑に投げられると、合ってても受け取りたくなくなるし」

 瑠衣は苦笑した。

「貸し渋りってさ、本当は“貸すことのリスクが大きく見える社会”が生んでる現象なんだよね。誰かに教えて、その誰かが失敗したら、自分も巻き込まれるって思い込んでる」

「それ、あるな」

「でしょ。だからみんな、“貸したふり”だけして逃げる。責任は負わず、評価だけ守りたい感じ」

「貸したふりって、一番キツいよね……」

「そう。貸してもらった気がしないから」

 晴人はうなずきながら、缶コーヒーを両手で包んだ。
 温度がほとんど残っていないのに、不思議と手の中の重みだけは確かだった。

「瑠衣」

「何?」

「今日のデータさ。君なら少し貸してくれる?」

「もちろん。全部は渡せないけど、今日必要な分だけなら、ちゃんと渡すよ。温度つきで」

「温度つき?」

「そう。“大変だったね”の温度。情報の価値はそこにある」

 瑠衣はノートPCを開き、画面をこちらに向けた。
 そこには必要なフォルダへの道筋が丁寧に整理されていた。

「はい、貸し出し。在庫は十分あります」

 冗談めかした言い方に、晴人はふっと笑った。

「ありがとう。返却は?」

「返さなくていいよ。情報は返却不要。ただ……」

「ただ?」

「いつか“別の情報”を貸して。あなたが持ってるやつでいいから」

 その交換条件は、社会に漂う冷たい貸し渋りとは正反対だった。
 貸せるぶんだけ貸し、借りられるぶんだけ借りる――その循環が、小さな場所で静かに息を吹き返していた。

「もちろん。貸すよ。今日の温度、ちゃんと覚えておくから」

「よし。それで十分」

 ふたりはPC画面を挟んで向き合いながら、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
 社会全体が情報を渋っても、こうして“貸し借りの温度”を分け合える関係がひとつあれば、それだけで十分に世界はやわらかくなる。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ

BL
鍛えられた肉体、高潔な魂―― それは選ばれし“供物”の条件。 山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。 見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。 誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。 心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

お姫様は死に、魔女様は目覚めた

悠十
恋愛
 とある大国に、小さいけれど豊かな国の姫君が側妃として嫁いだ。  しかし、離宮に案内されるも、離宮には侍女も衛兵も居ない。ベルを鳴らしても、人を呼んでも誰も来ず、姫君は長旅の疲れから眠り込んでしまう。  そして、深夜、姫君は目覚め、体の不調を感じた。そのまま気を失い、三度目覚め、三度気を失い、そして…… 「あ、あれ? えっ、なんで私、前の体に戻ってるわけ?」  姫君だった少女は、前世の魔女の体に魂が戻ってきていた。 「えっ、まさか、あのまま死んだ⁉」  魔女は慌てて遠見の水晶を覗き込む。自分の――姫君の体は、嫁いだ大国はいったいどうなっているのか知るために……

処理中です...