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犬馬の年

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――文政6年(1823) 正月――

 人が亡くなった年から、次の年へと跨ぐ正月は、どこか薄暗く、せっかくの飯もすっかり不味くなってしまうものである。それが、年を重ねて、親しき友人がこの世を去ったならば、なおさらであろう。
「だめだ。何も食べる気が起きない……」
「どうされたんですか……」
家族と離れた南畝の横にいるのは、彼がいつ知り合ったかも分からない妾。その名をお香といった。好色艶やかな南畝その人が、若い女を目の前にしても……思い出すのは、焉馬との昔のことばかりである。いつ頃の話だっただろうか。

「このくらいでどうかね」
「流石、手慣れの者は違うね、焉馬。一生、感謝してもしきれないぜ」
腕を組んで語り合う二人の目の前には、落成間近の南畝の邸宅が聳え立っていた。焉馬の本業は、何を隠そう、大工の棟梁である。
「中々の出来だろう」
「いやあ。お前さんは実に器用なやつだ。噺も巧いし、友人も豊富。おまけに狂歌も達者ときた。こりゃ敵わん」
「いや、文才では南畝に軍配があがると思うがな」
「俺には戯れる才能しかない。お前は実に真面目で……」
「突然そういうことを言うやつは、俺は信用しないことにしている」
「何を!」
はははは……

 昨日のことのように思い出す。南畝の枯れた心は、月日が流れ、草花が活き活きと芽吹く季節になっても、一向に癒やされることはなかった。
 ある日のことである。
「……お香、俺、もういいや」
「先生。何仰っているの」
「いや……この年まで、俺は何をしてきたのか、と思ってな」
「あら、珍しいこと。先生、そんなこと思われたこと今までありまして?」
「お前には分からん……どうせ気楽に生きている野郎だと、思ってんだろう」
「そんなことありませんわ、先生」
「それももう、遥か昔……ああ、昔は馬鹿で良かったなあ。はあ……ちょっと出掛けてくる」
「ええ?そんなご用事、先生、今日はなかったでしょう?」
「いいんだ……もし帰ってこなかったら、南畝は道端で転んで死んだよ、とでも言っておいておくれ。笑い噺の一つや二つになるだろ」
「まあ、死んだなんて。変なこと仰らないで」
「ふん……別にいいのサ。別にどうでも……」
南畝はすぐに出ていった。……ちなみに、このお香と名乗る女は、相当いい女であったようである。

ずっと歩いて、ついに永代橋近くに差し掛かった時、南畝は焉馬の言葉を思い出していた。
――不思議だと思うから、不思議なんだ。案外……自然なことかも知れんぞ――
「そう言われたってなあ……」
自分の二の腕を無闇に掻きむしりながら、南畝は呟いた。おや、よく見ると袖に、小さな虫が付いている。
「どこから付いてやがった。しっしっ」
手で払った拍子で、南畝は虫を潰してしまった。あゝ……。
「はは……随分呆気なく死んじまったな。……次は、俺の番……か」
 その時、南畝の姿が一瞬にして消えた。

 お香は待てど暮らせど南畝が帰ってこないので、ついに言いつけ通り、転んで死んだことにした。葬式もあげなかった為に、南畝の友人たちは、俄には信じ難いと彼女を非難したが、唯一、南北だけはその言葉を信じると言った。
「おい。儂らは死体も見ていないのに、妾の戯言を信じるのか」
「ああ、俺は信じるね。お香さん、忙しいところ悪いが、少しこの老いぼれと話をしないか」
南北は力強くお香の腕を引き、細い裏路地へと連れていった。
「何ですか……」
「南畝が死んだのは、嘘だね?」
「……実は、私も分からないのが本音ですわ」
「ふむ……もしかして、南畝は、永代橋の方に行かなかったかい」
「分かりませんわ。ただ……」
「ただ?」
「ひどく……ご友人の死に、落ち込んでいました」
「ご友人……焉馬か」
「はい……恐らく……」
「わかった。有難うよ。これ……何かの足しにでもしてくれ」
南北は懐から幾らかの銭を出し、お香に手渡した。
「ええ!こんなに頂けません」
「いいんだ。あいつには世話になったから。さあ、さあ」
南北は彼女が受け取ったことを確認すると、すっとその場から去ろうとした。
「待ってください!」
お香は必死に呼び止めたが、かの大戯作者は、背を向けて手を振るのみであった。

南北は中村座へと向かう道の途中で、こう呟いた。
「これか“渡り”か。南畝の奴、帰ってくるつもりは、一体あるのかね。もし……帰ってきて、俺が生きていなかったら、その時は……」
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