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第十九章 静かな日々へ
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侯爵家との正式な決着から、二週間が過ぎた。
春は本格的に訪れ、王都の通りには花屋の屋台が並び、色とりどりの花束が人々の腕に抱えられている。
新聞や社交紙の一面からも、あの縁談の見出しは消えた。代わりに、慈善式典での寄付額や新たな奨学基金の計画が話題を占めている。
リディアは青い布切れを手首に巻いたまま、午前中の庭を歩いていた。
庭の忘れな草は、泉のほとりで一斉に咲き始めている。
その景色を見ながら、胸の奥でふっと息をつく。——やっと、静かになった。
昼食の席で、母が穏やかな笑みを浮かべた。
「最近は、あなたが外に出るたびに“落ち着いた”と言われるのよ」
「……そう見えているなら、よかったわ」
母は意味ありげに首を傾げる。
「落ち着いたのは、そばに誰がいるからかしら?」
その問いに、リディアは返事をせず、ただ小さく笑った。
午後、エドガーが屋敷を訪れた。
「花がきれいに咲いていると聞いてな」
彼は庭に出て、泉のそばに立ったリディアに歩み寄る。
「静かだな」
「ええ。——こうして並んで立つのも、やっと落ち着いてできるようになった気がするわ」
二人は泉の縁に腰を下ろし、水面に映る空を眺めた。
「これから、どうする?」とエドガー。
「どうするって?」
「社交界に戻ってもいいし、しばらくは距離を置くこともできる」
リディアは少し考えてから首を振った。
「距離を置く必要はないわ。隠れる理由も、もうないもの」
その答えに、エドガーの瞳がやわらかく緩んだ。
「じゃあ——次は、俺の家で庭を見せよう。小さいが、忘れな草が咲く場所がある」
「……あなたの家の庭?」
「正式に案内するのは初めてだ。家族として迎える準備も、整った」
数日後、エドガーの家を訪れたリディアは、石造りの門をくぐった瞬間に、胸の奥が温かくなるのを感じた。
玄関先には母や使用人たちが整列して迎え、父も控えめながら頷いた。
「よく来たな」
それだけの短い言葉に、承認のすべてが込められていた。
案内された庭は、泉こそなかったが、日当たりの良い一角に青い花々が群生していた。
「ここだ」
エドガーは花の間から、一輪をそっと摘み取る。
「これは、お前に」
差し出された忘れな草を、リディアは両手で受け取った。
「……ありがとう」
「これからも、ずっと隣にいる証だ」
その日、夕暮れの庭で二人の影が長く伸び、やがて一つに重なった。
静かな日々は、嵐の先にようやく訪れたご褒美のようだった。
けれど、風が花を揺らすたびに——どんな日々も、互いに守り合っていく覚悟が必要だと、二人は無言で知っていた。
春は本格的に訪れ、王都の通りには花屋の屋台が並び、色とりどりの花束が人々の腕に抱えられている。
新聞や社交紙の一面からも、あの縁談の見出しは消えた。代わりに、慈善式典での寄付額や新たな奨学基金の計画が話題を占めている。
リディアは青い布切れを手首に巻いたまま、午前中の庭を歩いていた。
庭の忘れな草は、泉のほとりで一斉に咲き始めている。
その景色を見ながら、胸の奥でふっと息をつく。——やっと、静かになった。
昼食の席で、母が穏やかな笑みを浮かべた。
「最近は、あなたが外に出るたびに“落ち着いた”と言われるのよ」
「……そう見えているなら、よかったわ」
母は意味ありげに首を傾げる。
「落ち着いたのは、そばに誰がいるからかしら?」
その問いに、リディアは返事をせず、ただ小さく笑った。
午後、エドガーが屋敷を訪れた。
「花がきれいに咲いていると聞いてな」
彼は庭に出て、泉のそばに立ったリディアに歩み寄る。
「静かだな」
「ええ。——こうして並んで立つのも、やっと落ち着いてできるようになった気がするわ」
二人は泉の縁に腰を下ろし、水面に映る空を眺めた。
「これから、どうする?」とエドガー。
「どうするって?」
「社交界に戻ってもいいし、しばらくは距離を置くこともできる」
リディアは少し考えてから首を振った。
「距離を置く必要はないわ。隠れる理由も、もうないもの」
その答えに、エドガーの瞳がやわらかく緩んだ。
「じゃあ——次は、俺の家で庭を見せよう。小さいが、忘れな草が咲く場所がある」
「……あなたの家の庭?」
「正式に案内するのは初めてだ。家族として迎える準備も、整った」
数日後、エドガーの家を訪れたリディアは、石造りの門をくぐった瞬間に、胸の奥が温かくなるのを感じた。
玄関先には母や使用人たちが整列して迎え、父も控えめながら頷いた。
「よく来たな」
それだけの短い言葉に、承認のすべてが込められていた。
案内された庭は、泉こそなかったが、日当たりの良い一角に青い花々が群生していた。
「ここだ」
エドガーは花の間から、一輪をそっと摘み取る。
「これは、お前に」
差し出された忘れな草を、リディアは両手で受け取った。
「……ありがとう」
「これからも、ずっと隣にいる証だ」
その日、夕暮れの庭で二人の影が長く伸び、やがて一つに重なった。
静かな日々は、嵐の先にようやく訪れたご褒美のようだった。
けれど、風が花を揺らすたびに——どんな日々も、互いに守り合っていく覚悟が必要だと、二人は無言で知っていた。
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