忘れな草の約束を胸に抱く幼なじみ公爵と、誤解とすれ違いばかりの婚約までの物語

柴田はつみ

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エドガー視点スピンオフ第一章 雨の書庫で

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 舞踏会から数日。
 あの夜の光景は、頭から離れなかった。
 最初の曲を彼女と踊らなかった自分を、何度責めたことか。——いや、踊らなかったのではない。踊れなかったのだ。あの場で彼女に手を差し出すよりも、別の顔を保つことを選んでしまった。社交界の中で、家の人間としての立場を守るという言い訳のもとに。

 けれど、その選択が彼女の瞳をどう曇らせたか、翌朝の表情を見れば一目で分かった。
 化粧台の前で、侍女の軽口にも笑わず、鏡に映る自分とだけ向き合っていたあの姿。
 彼女は、何も言わなかった。
 だからこそ、余計に胸の奥に重さが積もっていった。

     

 雨の降る午後、屋敷の廊下はしんと静まり返っていた。
 視察の報告書を探そうと書庫へ向かうと、そこに彼女がいた。
 薄いブルーグレーのドレスの背中が、棚の前で小さく伸び上がっている。
 腰の辺りまで届く髪がふわりと揺れ、そこに雨の匂いが混じったような気がした。

「探し物か?」
 声をかけると、彼女は振り向きもせずに答えた。
「ええ、外交史の——」
「高い棚だな。取るよ」

 自然な仕草のつもりだったが、指先がほんの一瞬、彼女の手に触れた。
 柔らかくて、すぐに離れてしまう温度。
 その一瞬で、胸の奥に溜まっていたざらつきが少し溶ける。

「……ありがとう」
 そう言った声には、距離があった。
 その距離を縮めたくて、気になっていた噂を口にしてしまった。

「あの噂、信じてないだろうな」
「噂?」
「俺とセリーヌのことだ」
「……信じる信じない以前に、私には関係ないことよ」

 ——関係ない?
 心臓が一拍、強く鳴った。
 喉まで出かかった「関係あるだろ」という言葉を、呑み込む。
 表情を保ったまま短く「そうか」とだけ返し、背を向けた。

 書庫を出る直前、振り返ったが、彼女はもう本のページをめくっていた。
 まるで、最初から自分などいなかったかのように。

     

 廊下を歩きながら、心の中で言葉を繰り返す。
 ——関係ない。
 もしそれが本音なら、自分は十年も何をしてきたのか。
 いや、きっと違う。あれは彼女なりの防御だ。そう信じたかった。

 けれど、その日の夜も、その翌日も、彼女の表情は遠かった。
 あの時、真正面から否定してくれていたら——そう思うたび、胸の奥の結び目が固くなっていくのを感じた。
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