忘れな草の約束を胸に抱く幼なじみ公爵と、誤解とすれ違いばかりの婚約までの物語

柴田はつみ

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第三章 夜会の影

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 視察から戻って数日。
 机の引き出しの奥には、渡せなかった短い紙切れがまだ残っている。
 あの夕刻の悔いが、心の奥に澱のように沈んだままだった。

 ——動かなければ、また何も伝えられない。
 そんな思いに押されるように、便箋を一枚取り出す。
 長い言葉は要らなかった。
 飾れば飾るほど、届く前に色褪せてしまう気がした。

《この夜、俺の隣に》

 ただそれだけを書き、封をした。
 字のかすれ具合や紙の質まで、無意識に何度も見直してしまった。
 受け取ったとき、彼女は何を思うだろう。来てくれるだろうか。
 不安と期待が、同じ速さで胸を満たしていく。

     

 夜会の会場は、金色の光と人々の笑い声に満ちていた。
 足を踏み入れた瞬間から、視線を探す。
 ——いた。

 淡い色のドレスに包まれた背筋のまっすぐな姿。
 胸の奥がじわりと熱くなる。
 ただそこに彼女がいる、それだけで息が深くなるのを感じた。

 人混みを抜けようとしたとき、視界の端に伯爵令息の姿が映る。
 彼女の隣に立ち、何かを耳打ちしている。
 その横顔に、彼女はかすかに笑みを返していた。

     

 近づいて声をかける。
「……来てくれたな」
「ええ」
 短い返事とともに、彼女の手首の内側で青い布切れがわずかに覗く。
 その一瞬で、胸の熱がさらに広がった。

「踊ろう」
 差し出した手に、彼女はためらいなく応えてくれた。
 舞曲が始まり、彼女を腕の中に迎える。
 軽やかなステップと、かすかな香り。
 この瞬間だけでいい——そう思えるほど、心が満たされていく。

     

 曲が終わると、伯爵令息が現れた。
「次は私と一曲を」
 反射的に「いや」と言いかけた唇を、彼女の微笑みが制した。
「……ええ」

 その背を見送りながら、胸の奥に冷たい感触が残る。
 彼女が楽しそうにしているなら、それでいい——そう自分に言い聞かせるが、視線はどうしても彼女の方へ戻ってしまう。

 夜会の影の中で、青い布切れが淡く揺れていた。
 それは自分に向けられた灯火なのか、それとも——。
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