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第九章 公爵の遅刻(カルロス/マリナ)
しおりを挟む王都の空が淡い橙へ変わりはじめた頃。
公爵カルロスは、急ぎ馬車の窓を指で叩き、早く進めと言わんばかりに前を睨んでいた。
――三十分の遅刻。
普段、礼を欠くことのない彼の顔に焦りが影を落とす。
(シャーロット……すまない。
なぜ今日に限って、近衛への急な呼び出しが……)
彼は知らない。
その呼び出しが“誰の差し金”だったかを。
馬車が伯爵邸の門へ着いた瞬間、従者が駆け寄った。
「閣下! すでに“護衛実演”が始まっております!」
「……実演? そんなものが今日あったか?」
「いえ、私どもも存じ上げず……」
嫌な気配が胸をかすめた。
ただの護衛実演で、シャーロットが最前列に座らされているとは思わない。
彼女は人前が苦手だ。そんな場に自ら行くはずがない。
――なのに。
庭に足を踏み入れた瞬間、
カルロスの視界に白いドレスが映った。
(……シャーロット)
最前列。
窓際。
照度の落ちる影の中。
その背を見た瞬間、胸が痛むほど強く脈を打つ。
「まぁ、公爵閣下。お越しくださって嬉しいわ」
声が落ちてきた。
藤色のドレスをまとった伯爵令嬢マリナが、優雅に階段を降りてくる。
その微笑みは、氷より冷たく、薔薇より美しい。
「遅れられましたのね。
――残念ですわ。彼女、とてもがんばっていらしたのに」
さりげなく刺すような一言。
「……“がんばって”?」
「ええ。
護衛実演を“最前列で”ご覧いただきたくて。
淑女の安全のために……とても良い学びになりますでしょう?」
(最前列? なぜだ)
カルロスの眉がわずかに動いた。
「彼女に許可は?」
「もちろん」
マリナの目がすっと細くなる。
「“必要な配慮です”と、私がお伝えしましたわ」
その声音。
その笑み。
その言葉の端の意味。
すべてが、計算。
会場へ進む途中、カルロスの足が止まる。
――鏡。
――紗幕。
――落とされた照度。
――継ぎ目がつくる歪み。
(これは……人を“寄り添って見せる”配置……)
瞬時に理解する。
誰かがこの会場ごと――
“物語を作るために”整えたのだ。
「お美しいでしょう?
鏡も、照明も。
――“見たいものが、より美しく映るように」」
マリナの声が甘く絡む。
カルロスは振り向いた。
「……誰が、これを?」
「さぁ。
人は“きれいに整えられた舞台”を、好むものですわ」
その瞬間、彼は直感した。
(――この女だ)
視線を中央へ向けると、シャーロットがこちらを一度だけ振り返った。
驚き、
安心、
わずかな安堵――
そして、彼に向かって微かに微笑む。
その微笑みを見たとき、カルロスの心に痛みが走った。
(……大丈夫。必ず守る)
だが、その誓いを遮るように、
マリナがささやいた。
「公爵閣下」
「なんだ」
「――遅刻した方が悪いのですよ?」
その笑みは美しく、
その言葉は最も残酷だった。
その一撃で理解する。
今日の遅刻は、
今日の配置は、
今日の実演は、
今日の“影”は――
すべて計算されている。
(俺が遅れたことで、
シャーロットを“彼と並べる舞台”が完成した……)
拳が震える。
だが、公爵としてここで騒げば逆効果。
(……すまない。
もう少し待ってくれ、シャーロット)
カルロスは唇をかすかに噛み、席へ向かった。
その背後で、マリナが静かに扇を閉じる。
「公爵閣下。
あなたが彼女から目を離す隙は――
全部、私のための時間ですのよ。」
風が止まり、
アイリスの香りが、薄く、甘く、残った
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