『すり替えられた婚約、薔薇園の告白

柴田はつみ

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第十四章 伯爵家の茶会(マリナ)

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 伯爵家ロズモンド邸の庭は、朝の雨を吸い込んだ薔薇が、
 濡れた光をまとっていた。

 白い天幕と銀細工のティーセット。
 香りはアイリス。
 すべてが、“誰かを迎えるため”に整えられている。

 その中央に立つ伯爵令嬢マリナは、
 完璧な笑みを浮かべ、扇を閉じた。

(今日で――彼女の“立ち位置”を決める)



「まぁ、皆さま。
 本日はお越しいただきありがとうございますわ」

 マリナの声が柔らかく広がると、
 周囲の淑女たちは自然と輪を作った。

「近衛騎士殿の護衛実演、昨夜は素晴らしかったそうですわね」
「ええ、影がとても美しくて……」
「“噂”の図版もご覧になった?」

 ざわめきが薄く広がる。

 マリナはその中心で、わざと“聞こえそうで聞こえない”優雅さで言った。

「影は、嘘をつかないものですわ。
 見る角度で、真実が浮かびあがりますのよ」

 言葉だけで、空気が染まる。
 “影=親密”“影=証拠”という印象が植えつけられる。

 彼女は扇の陰で微笑んだ。

(さあ……角度を決めてあげる)



「――シャーロット様がお見えです」

 侍女の声で、空気がわずかに張り詰めた。

 白いドレスのシャーロットが、戸惑いながら近づいてくる。
 その手には、花束の跡を隠すように薄手の手袋があった。

(かわいらしい……けれど、脆いわね)

 マリナは静かに迎えた。

「ようこそ、ヴァレンタイン様。
 お身体は大丈夫?」

「は、はい……」

「まぁ、顔色が。
 昨夜の“影の図版”で驚かれたのでしょう?」

 その一言で、シャーロットの肩がびくりと揺れる。

「そ、そんな……わたしは……!」

「大丈夫。あなたは悪くないわ。
 ――影とは、ときに人の心をつないでしまうものですもの」

 意味深な言葉が、シャーロットの胸に落ちる。

「でも……誤解なんです、本当に……」

「ええ、わかっています」
 マリナは優しく頷いた。
「けれど、人は“見えたもの”を信じるのです」

 その言葉で、シャーロットの表情が曇った。

(追い詰めるのではなく、“包むように”。
 その方が傷は深く残る)



「伯爵令嬢。失礼いたします」

 近衛騎士クリスが姿を現すと、場の空気が引き締まった。
 シャーロットは一瞬、安堵したように目を伏せる。

(……ほら。
 その仕草が、また噂を呼ぶのよ)

 マリナの目が愉悦に細くなる。

「騎士殿。昨夜の護衛実演、素晴らしかったですわ」
「恐縮です。しかし――」
 クリスは一歩踏み出し、はっきりと言った。
「“ご息女の名誉に関わる誤解”が生じております。
 あの図版は――」

「まぁ。
 “否定は取り繕いに見える”と、皆さま仰っていたわ」

 クリスの言葉を柔らかく遮る。

 周囲の淑女たちが、こそこそと囁き始める。

「やはり……?」
「近衛騎士様が庇うなんて……」
「本当に、なのかしら」

 クリスの眉がわずかに動いた。
 シャーロットは今にも泣きそうな表情で俯く。

(追いつめられていく顔……
 美しいわ)



「――マリナ嬢」

 その低い声で、場が一瞬静止した。

 公爵カルロスが姿を現し、
 空気がはりつめる。

「遅れてすまない」
「いえ。昨夜の近衛呼び出し、大変でしたでしょう?」

 マリナはわざと“理由を知っている”ふうに微笑む。

 しかしカルロスの視線は、シャーロットだけを探した。

 目が合った瞬間、
 彼の硬い表情が、ほんのわずか緩む。

(ああ……その目。
 どうして私には向けてくれないの?)

 マリナの胸に、冷たい痛みが走った。

 だからこそ、余計に燃える。

(ならば――
 “あなたが守り損ねた彼女”を、
 わたしが“整った物語”へ押し込めてみせる)



 マリナは優雅に、しかし鋭い声で言った。

「皆さま。
 ヴァレンタイン様に贈られた“花束”をご覧になりましたか?」

 シャーロットが息をのむ。

「い、言わないでください……!」
「まぁ。どうして? とても素敵でしたのに」

 さざ波のように広がる囁き。

「やっぱり近衛騎士様……?」
「いえ、公爵閣下では?」
「どちらにしても、“お見合い”の後に花束だなんて……」

 その噂に、
 カルロスのこめかみがぴくりと痙攣した。

「……花束は、誰からでもない」

 低く抑えられた声。
 怒気が滲む。

「マリナ。この話題を広げるな」

「わたくしはただ……皆さまが“知りたいこと”をお話ししているだけですわ」

(あなたが怒るほど、噂は“確信”に変わる)

 マリナは扇を軽く揺らし、
 柔らかい声で言った。

「シャーロット様。
 ――花束の主は、本当はどなたなの?」

「……わ、わかりません……!」

 涙声に変わるその瞬間。
 マリナの目が光った。

(そう――
 “わからない”が、一番良いの)

 “わからない”は、噂を生み、
 噂は、恋人たちを遠ざける。


 マリナは優しく手を伸ばし、
 シャーロットの手を包むように触れた。

「大丈夫。
 真実は、いずれ明らかになりますわ」

 周囲は“優しい言葉”だと信じた。

 しかし、その裏の意味はただひとつ。

“沈黙は肯定に見える”
“否定すれば取り繕いに見える”

そのどちらでも、
噂は“マリナの望む方向に”進む。

シャーロットは震えて俯いた。

 その姿に、カルロスの拳が震える。

(……守れていない。
 また俺は……!)

 その苦しささえ、
 マリナには甘い音に聞こえた。



 茶会が続く中で、
 マリナは静かに微笑み、心の中で呟いた。

(さあ――
 もっと形になっていきなさい。
 影も、花束も、“沈黙”も)

(そのすべてが
 彼女の立場を、確実に揺らしていくのだから。)

 アイリスの香りが、
 午後の光の中で静かに広がっていた。
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