あなたの片想いを聞いてしまった夜

柴田はつみ

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第18章|嫉妬の自覚

 アレクシスは、執務室の窓を開けた。
 冷たい夜気が入り込み、燭台の火が揺れる。
 それでも胸の内の熱は冷めない。

 ——彼女を泣かせるなら、俺が側にいます。

 ガブリエルの静かな宣言が、まだ喉の奥に刺さったままだ。
 あの声は挑発ではない。
 守ると決めた男の、誓いの声だ。
 誓いの声は、正しすぎて、反論できない。

 反論できないことが、こんなにも腹立たしいとは知らなかった。

 机の上には政務の書類。
 封蝋の赤。
 整然とした文字。
 いつもなら、これが世界だ。
 今は、文字が滑って読めない。

 視界の端に、ユリウスが差し出した一枚の書簡がある。
 ヴァルモン家の封。
 侍女長経由の通達。
 ——礼節の撤退。

 胸の奥が、ぎゅっと縮む。

「……消えるのか」

 誰もいない室内で、思わず声が漏れた。
 消える、という言葉は間違っている。
 彼女は消えるわけじゃない。
 ただ、俺の届く場所から退く。
 それだけ。
 それだけが、怖い。

 扉がノックされた。
 ユリウスが静かに入ってくる。
 執事はいつも通り無表情で、いつも通り的確だ。

「閣下。明朝の予定でございますが——」

「後だ」

 短く遮ってしまう。
 その口調に、自分でも驚く。
 焦りが、言葉の角を尖らせる。

 ユリウスは一瞬だけ目を上げ、淡々と告げた。

「……ブランシュ卿が、明日も王宮に入られるとのこと」

 明日も。
 その情報が、胸の奥に火をつけた。

「……なぜ」

「妹君の用件に付随して、リリアーヌ様の護衛役として」

 護衛。
 その言葉が、昨日までの自分なら“適切”で終わったはずだ。
 今は違う。

 護衛という名目で、彼女の隣に立つ。
 彼女の歩幅に合わせ、彼女の沈黙に寄り添う。
 彼女が薄く笑う時、理由を問わず、ただ温度を差し出す。

 ——それは、俺ができなかったことだ。

 アレクシスは指を組み、強く握った。
 手の中で骨がきしむ。

「……彼は、彼女に触れたのか」

 言ってしまった瞬間、胸の奥が冷える。
 自分で自分を汚した気がした。
 彼女を、そんな見方で測るな。
 だが、止まらない。

 ユリウスは眉一つ動かさず、事実だけを返す。

「触れません。礼節を守る男です」

 守る。
 礼節を守る。
 ——それが、いちばん厄介だ。

 アレクシスは苛立ちのまま言った。

「礼節で、俺のものを奪う気か」

 口から出た言葉に、空気が固まった。
 “俺のもの”
 その言い方は、傲慢で、幼い。
 だが今の胸は、その幼さでしか形にならない。

 ユリウスの視線が、ほんの僅かに鋭くなる。

「閣下。——誰のものでもありません」

 言い返されて、胸が痛む。
 痛むのに、反論できない。
 正しいのは執事だ。

 アレクシスは、乱暴に息を吐いた。

「分かっている」

 分かっている。
 分かっているのに、嫌だ。

 その瞬間、ようやく気づいた。
 自分の胸の痛みの正体に。

 ——嫉妬。

 情けないほど単純な感情。
 理屈がない。
 政務に不要。
 それでも胸が勝手に叫ぶ。

 嫌だ。
 彼女が、あいつの隣で笑うのが嫌だ。
 薄い微笑ではなく、楽な笑みを向けるのが——嫌だ。

 アレクシスは、机の端を指で叩いた。
 小さな音が、苛立ちを誤魔化す。

「……俺は、何をしている」

 ユリウスは静かに答えた。

「遅れておられます」

 遅れている。
 王妃にも言われた。
 ガブリエルにも突きつけられた。
 そして今、執事にも言われる。

 遅い男は、嫌われる。

 アレクシスは唇を噛んだ。
 噛むほどに、自分の無力が沁みる。

「俺は、説明ができない」

 吐き出した言葉は、悔しさの形だった。

 ユリウスは一拍置き、慎重に言う。

「できないのではなく、選ばなかったのです。
 “守るために黙る”を選んだ。
 ですが閣下——黙るほど、守りたい方は遠ざかります」

 守りたい方。
 その言い方が、胸に刺さる。
 守りたい。
 守りたいのに、守り方が分からない。

 アレクシスは立ち上がり、窓の方へ歩いた。
 遠くの庭園に灯が点り、王宮の石が夜気に沈む。
 光と影の境目が、まるで今の自分だ。

「……嫌だ」

 小さく言う。
 言葉にした瞬間、胸が痛いほど確かになる。
 嫌だと認めたなら、次は理由を言え。
 理由を言うなら、覚悟が要る。

 だが、覚悟より先に現実が来る。

 ユリウスが低く続けた。

「リリアーヌ様、ここ数日お顔色が優れません。
 侍女長ヴィオラ殿も、静養を考えているようです」

 静養。
 その言葉が、胸を冷やした。

「……体調が?」

「眠れておられないご様子だと」

 眠れていない。
 それは——俺のせいだ。

 アレクシスは、初めて心臓が掴まれたような感覚を覚えた。
 嫉妬が熱だとしたら、これは冷たい恐怖だ。

「医師を」

 言葉が勝手に出た。
 仕事の指示の形を借りて、彼女へ手を伸ばす。

 ユリウスは頷いたが、すぐに言う。

「閣下が動けば、また噂が育ちます。
 ——それでも動かれますか」

 噂。
 体裁。
 いつもなら最優先に置くべきもの。
 だが今、胸が答える。

 噂など、どうでもいい。
 彼女が折れるほうが、恐ろしい。

 アレクシスは、息を吸って、吐いた。
 そして、短く言う。

「……動く」

 その一言が、決意ではなく焦りだと分かっている。
 焦りだけでは、救えない。
 救うには、言葉が要る。

 でも今は、言葉より先に彼女の体が壊れそうだ。

 アレクシスは外套を取った。
 いつもの仕事の外套ではない。
 夜の冷えから守るための、厚い外套。

 守る。
 守るという言葉を、ようやく自分の中で正しく使った気がした。

 扉へ向かう背中に、ユリウスの声が落ちる。

「閣下。嫉妬は罪ではありません。
 ——罪は、言わないことです」

 アレクシスは答えられなかった。
 答えられないまま、扉を開ける。

 廊下の冷気が頬を打つ。
 その冷たさの中で、胸の熱はまだ消えない。

 嫉妬がある。
 嫌だがある。
 そして、その“嫌だ”の裏にあるものの名を、まだ言えない。

 (引き)嫉妬を自覚した公爵は、言葉の代わりに“行動”で埋めようとしてしまう。——次章、医師の診断。不眠と食欲不振。静養を命じられ、公爵は初めて本気で動揺する。

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