あなたの片想いを聞いてしまった夜

柴田はつみ

文字の大きさ
20 / 39

第20章|休む許可

 静養が決まった翌朝。
 屋敷はいつもより静かだった。静かすぎて、逆に耳が痛い。

 リリアーヌは寝台から起き上がろうとして、ふと手を止めた。
 窓辺のカーテンが淡く揺れている。
 朝日は優しいはずなのに、今日はまぶしすぎた。

 ——休む。
 ただ休むだけ。
 それなのに、胸がざわつく。

 体が怠い。頭が重い。
 眠ったはずなのに、眠った気がしない。
 夢の中でも礼をして、笑って、聞き分けの良い返事をしていた。

「お嬢様」

 ヴィオラが、湯気の立つ白湯を盆に載せて入ってくる。
 動きは静かで、音も立てない。
 侍女長の“静かさ”は、気遣いではなく管理だ。
 管理されるほど、自分が弱っていることを思い知らされる。

「……起きて大丈夫よ」

 口にしてから、言葉が空虚だと分かった。
 大丈夫かどうかなど、誰が決めるのだろう。

 ヴィオラは白湯を差し出し、穏やかに言う。

「大丈夫かどうかは、お嬢様ではなく、お体が決めます」

 優しいのに、逃げ道がない。

 リリアーヌは白湯を口に含んだ。
 温かい。
 温かさが喉を通るだけで、涙が出そうになる。
 温かいものを受け取るのが久しぶりだった気がした。

 そこへ、扉がノックされた。
 執事ではない。侍従でもない。
 屋敷の空気が少しだけ固まる音がした。

「——レイヴン公爵閣下からでございます。書簡を」

 侍女が差し出した封蝋の赤が、妙に鮮やかだった。

 リリアーヌは、受け取ろうとして手を止めた。
 封を切れば、また心がざわつく。
 切らなければ、何も変わらない。
 どちらにせよ、痛い。

 ヴィオラが代わりに受け取り、淡々と告げる。

「お嬢様は静養中です。内容は私が確認します」

 侍女長の声は、盾だ。
 リリアーヌは盾の陰で、少しだけ呼吸が楽になる。
 楽になったことが、情けなくもあった。

 ヴィオラが封を切り、目を走らせる。
 読み終えた顔が、ほんの僅かに険しくなる。

「……閣下は、本日中にお見舞いに来られると」

 胸がひやりとした。

「断って」

 言葉が、思ったより早く出た。
 拒絶しているつもりはない。
 ただ——今会えば、薄い微笑が剥がれてしまう。
 剥がれたら、戻せない。

 ヴィオラはすぐに頷かない。
 頷かないのは、敵だからではない。
 お嬢様を守るために、別の判断をするからだ。

「お嬢様。医師は“避けない方がよい”と」

「……でも、私……」

 言葉が詰まる。
 “でも”の先に何を言えばいい。
 会いたくない。会えば苦しい。
 苦しい理由は言えない。

 ヴィオラは、ふっと息を吐き、柔らかく言った。

「会う必要はありません。
 ですが、拒むと“拒絶”として残ります」

 拒絶。
 その言葉が、診察室の空気を思い出させる。
 拒絶しているつもりはない。
 礼節で撤退しているだけ。
 ——それでも、相手には拒絶に見える。

 リリアーヌは白湯の杯を置いた。指先が震えた。

「……なら、手紙で十分だわ」

 それなら礼節で済む。
 言葉で距離を固定できる。
 それが、今の自分の安全策だった。

 ヴィオラは小さく頷いた。

「では、閣下には“お嬢様から”お返事を」

 自分から。
 自分の言葉で。
 それが、静養の最初の試練みたいに思えた。

 リリアーヌは机に向かい、ペンを取った。
 青いインクが紙に滲む。
 短く、丁寧に。
 余計な温度を含めないように。

『ご配慮、痛み入ります。
 医師の指示により静養しておりますので、お見舞いはご遠慮くださいませ。
 公務に関する連絡は、これまで通り侍女長ヴィオラを通していただければ幸いです。
 ——ご心配なく』

 最後の一言を書いた瞬間、ペン先が止まった。
 “ご心配なく”
 それは、相手を安心させる言葉のはずなのに、
 自分を遠ざける刃になる。

 書いてしまった。
 書いてしまえば、引き返せない。

 ヴィオラが封をし、侍女に渡す。
 扉が閉まると同時に、部屋がまた静かになった。

 静かすぎる。
 静かすぎて、心の音が聞こえる。

「……これで、いいのよね」

 リリアーヌは、自分に言い聞かせるように呟いた。
 休むために。
 壊れないために。
 これ以上、誰にも迷惑をかけないために。

 ヴィオラは、返事をしない。
 返事をしない優しさが、胸に痛い。

 昼過ぎ、庭の方から馬車の音が聞こえた。
 屋敷の誰かが窓辺に立ち、ざわりとした気配が走る。

 ——来たの?

 胸が跳ねた。
 書簡は届いたはず。
 それでも来たのなら、彼は礼節を破っている。
 礼節を破ってまで来たのなら、何を言うつもりだ。

 リリアーヌは、息を止めた。
 そして——次の瞬間、侍女が慌てたように入ってくる。

「お嬢様……ブランシュ卿がお見えでございます」

 ガブリエル。
 恋敵。
 でも、今の彼は“恋敵”というより、
 こちらの意志を尊重する人——という印象のほうが強い。

「……通して」

 口にしたあと、自分でも驚いた。
 アレクシスは拒んだのに、ガブリエルは通す。
 その違いが、胸に刺さる。

 ガブリエルは応接間ではなく、廊下で礼をした。
 寝室近くへは踏み込まない。
 無理に距離を詰めない。
 それだけで、呼吸が少し楽になる。

「突然すまない。妹が、君の顔色を気にしていた。
 ——花を」

 差し出された花束は、淡い色。
 派手ではない。
 けれど、確かに“好きそうだ”と思える色だった。

 リリアーヌは花を見つめ、ほんの少しだけ笑った。
 薄い微笑ではない。
 小さな、自然な笑み。

「……ありがとう」

 声が、久しぶりに柔らかい。

 そのやり取りを、廊下の角から誰かが見ていた。
 気配だけで分かる。
 屋敷の者ではない。
 硬い空気。

 ——アレクシス?

 振り向きたくない。
 振り向けば、微笑がまた薄くなる。

 ガブリエルはそれに気づいたのか、声を落とした。

「無理に話さなくていい。
 君が休めるように、俺は“来た”という事実だけ置いて帰る」

 事実だけ。
 それは、優しい。
 優しさが、残酷でもある。
 比べてしまうから。

 リリアーヌは花束を抱き、静かに言った。

「……私は、初恋泥棒じゃない」

 急に零れた言葉に、自分でも驚いた。
 でも、言ってしまいたかった。
 自分の潔白を、自分で守りたかった。

 ガブリエルは微笑まず、真剣に頷いた。

「知ってる。
 君は奪ってない。——君は、ただ好きになっただけだ」

 その一言が、胸の奥の固い塊を少しだけ溶かした。

 扉の向こうで、誰かの靴音が止まった。
 止まったまま、動かない。
 聞いている。
 聞いているくせに、入ってこない。

 リリアーヌは唇を噛んだ。
 入ってこない沈黙が、いちばん痛い。

 ガブリエルは礼をし、踵を返す。

「休め。——泣くのは、元気になってからでいい」

 泣くのは元気になってから。
 そんな許可があることを、リリアーヌは知らなかった。

 ガブリエルが去り、廊下に残った静けさの中で、
 リリアーヌは花束の香りに顔を寄せた。

 温度のあるものが、少しだけ呼吸を戻してくれる。

 けれど——扉の向こうの沈黙は、まだそこにある。

令嬢は「ご心配なく」で距離を固定し、公爵はそれを“拒絶”だと誤読する。そこへ恋敵ガブリエルの見舞いが入り、令嬢がほんの少し笑う——それが、公爵の胸に決定的な痛みを生む。

あなたにおすすめの小説

私は彼に選ばれなかった令嬢。なら、自分の思う通りに生きますわ

みゅー
恋愛
私の名前はアレクサンドラ・デュカス。 婚約者の座は得たのに、愛されたのは別の令嬢。社交界の噂に翻弄され、命の危険にさらされ絶望の淵で私は前世の記憶を思い出した。 これは、誰かに決められた物語。ならば私は、自分の手で運命を変える。 愛も権力も裏切りも、すべて巻き込み、私は私の道を生きてみせる。 毎日20時30分に投稿

【完結】ジュリアはバツイチ人生を謳歌する

ariya
恋愛
エレン王国の名門貴族・アグリア伯爵家に嫁いだジュリア・アグリア(旧姓ベルティー)。 夫のアベル・アグリア伯爵は、騎士として王妃の護衛任務に没頭し、結婚翌日からほぼ別居状態。 社交界のパーティーでは妻のエスコートを代理人に任せ、父の葬儀にも顔を出さず、事務的な会話と手紙のやり取りだけの日々が続く。 ジュリアは8年間の冷遇に耐え抜いたが、ある朝の食事中、静かに切り出す。 「私たち、離婚しましょう」 アベルは絶句するが、ジュリアは淡々と不満を告げる。 どれも自分のしでかしたことにアベルは頭を抱える。 彼女はすでに離婚届と慰謝料の用意を済ませ、夫の仕事に理解を示さなかった「有責妻」として後腐れなく別れるつもりだった。 アベルは内心で反発しつつも、ジュリアの決意の固さに渋々サイン。 こうしてジュリア・アグリアは、伯爵夫人としての全てを置き去りにし、バツイチ人生を開始する。 【感謝】 第19回恋愛小説大賞にて奨励賞を受賞しました。 ありがとうございます。

[完結]「私が婚約者だったはずなのに」愛する人が別の人と婚約するとしたら〜恋する二人を切り裂く政略結婚の行方は〜

h.h
恋愛
王子グレンの婚約者候補であったはずのルーラ。互いに想いあう二人だったが、政略結婚によりグレンは隣国の王女と結婚することになる。そしてルーラもまた別の人と婚約することに……。「将来僕のお嫁さんになって」そんな約束を記憶の奥にしまいこんで、二人は国のために自らの心を犠牲にしようとしていた。ある日、隣国の王女に関する重大な秘密を知ってしまったルーラは、一人真実を解明するために動き出す。「国のためと言いながら、本当はグレン様を取られたくなだけなのかもしれないの」「国のためと言いながら、彼女を俺のものにしたくて抗っているみたいだ」 二人は再び手を取り合うことができるのか……。 全23話で完結(すでに完結済みで投稿しています)

【完結】ご安心を、2度とその手を求める事はありません

ポチ
恋愛
大好きな婚約者様。 ‘’愛してる‘’ その言葉私の宝物だった。例え貴方の気持ちが私から離れたとしても。お飾りの妻になるかもしれないとしても・・・ それでも、私は貴方を想っていたい。 独り過ごす刻もそれだけで幸せを感じられた。たった一つの希望

【完結】大好きな幼馴染には愛している人がいるようです。だからわたしは頑張って仕事に生きようと思います。

たろ
恋愛
幼馴染のロード。 学校を卒業してロードは村から街へ。 街の警備隊の騎士になり、気がつけば人気者に。 ダリアは大好きなロードの近くにいたくて街に出て子爵家のメイドとして働き出した。 なかなか会うことはなくても同じ街にいるだけでも幸せだと思っていた。いつかは終わらせないといけない片思い。 ロードが恋人を作るまで、夢を見ていようと思っていたのに……何故か自分がロードの恋人になってしまった。 それも女避けのための(仮)の恋人に。 そしてとうとうロードには愛する女性が現れた。 ダリアは、静かに身を引く決意をして……… ★ 短編から長編に変更させていただきます。 すみません。いつものように話が長くなってしまいました。

愛しているからこそ、彼の望み通り婚約解消をしようと思います【完結済み】

皇 翼
恋愛
「俺は、お前の様な馬鹿な女と結婚などするつもりなどない。だからお前と婚約するのは、表面上だけだ。俺が22になり、王位を継承するその時にお前とは婚約を解消させてもらう。分かったな?」 お見合いの場。二人きりになった瞬間開口一番に言われた言葉がこれだった。 初対面の人間にこんな発言をする人間だ。好きになるわけない……そう思っていたのに、恋とはままならない。共に過ごして、彼の色んな表情を見ている内にいつの間にか私は彼を好きになってしまっていた――。 好き……いや、愛しているからこそ、彼を縛りたくない。だからこのまま潔く消えることで、婚約解消したいと思います。 ****** ・感想欄は完結してから開きます。

旦那様は離縁をお望みでしょうか

村上かおり
恋愛
 ルーベンス子爵家の三女、バーバラはアルトワイス伯爵家の次男であるリカルドと22歳の時に結婚した。  けれど最初の顔合わせの時から、リカルドは不機嫌丸出しで、王都に来てもバーバラを家に一人残して帰ってくる事もなかった。  バーバラは行き遅れと言われていた自分との政略結婚が気に入らないだろうと思いつつも、いずれはリカルドともいい関係を築けるのではないかと待ち続けていたが。

侯爵令嬢ソフィアの結婚

今野綾
恋愛
ソフィアは希少なグリーンアイを持つヴィンセントと結婚した。これは金が欲しい父の思惑と、高い爵位が欲しいヴィンセントの思惑が一致したからに過ぎない。 そもそもヴィンセントには恋人がいて、その恋人は身分に大きな差があるために結婚することは叶わないのだ。 結婚して早々、ソフィアは実家から連れてきた侍女夫婦とあばら屋に住むように言われて…… 表紙はかなさんのファンアートです✨ ありがとうございます😊 2024.07.05