あなたの片想いを聞いてしまった夜

柴田はつみ

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第22章|正論の地雷

 花の香りは淡く、優しい。
 なのに、その優しさが胸を痛めることがある。

 リリアーヌは、窓辺の花瓶を見つめていた。
 薄紫と白が、朝の光を受けて透ける。
 触れれば壊れそうで、でも確かにそこにある。

 ——“好きな色”を、知られていた。
 それが嬉しいのではなく、恥ずかしいのでもなく。
 ただ、比較してしまう自分がいちばん嫌だった。

 ヴィオラが静かにカップを置く。

「お嬢様、今日はお粥を少し温かくしてあります」

「ありがとう」

 礼の言葉は出る。
 出るのに、喉の奥は乾いたままだ。

 そのとき、屋敷の奥がざわついた。
 小さな足音が重なり、侍従の声が走る。

「——閣下がお通りです」

 胸が、またひゅっと縮む。
 来ないでほしい。
 でも来てしまう。
 来てしまえば、礼節の鎧を着るしかない。

 扉が開き、アレクシスが入ってきた。
 昨日よりも、目の下に影がある。
 外套は脱いでいる。だが肩の線は硬い。
 “仕事の顔”で来たのが分かる。

「体調は」

 最初の言葉が、それ。
 心配を“確認事項”に変える声。

「大丈夫ですわ」

 リリアーヌは微笑む。薄い微笑。
 薄い微笑が、自分を守る最後の道具みたいだった。

 アレクシスの視線が花瓶へ落ちる。
 淡い薄紫。
 昨日の記憶が、彼の中でまだ熱を持っている。

「……あれは、ブランシュ卿の」

「ええ。お見舞いの品です」

 “品”と言った瞬間、空気が冷える。
 花は花なのに、物にしてしまう。
 物にすれば、胸が痛まないと思った。

 アレクシスは、少しだけ唇を噛んだ。
 何か言いかけて、やめる。
 やめた沈黙が、いつものように長い。

 そして、彼は結局、正しい言葉を選んだ。

「……噂など気にするな」

 正論だった。
 噂など——気にする必要はない。
 気にしなければ、傷つかない。
 気にしなければ、彼も楽だ。

 でも、その正論は、リリアーヌの胸の奥に隠していた最後の柔らかい部分を、正確に踏み抜いた。

 気にするな。
 ——じゃあ、私は何を“気にして”眠れないの?
 噂じゃない。
 噂の形を借りた現実。
 あなたが言葉をくれない現実。

 リリアーヌの微笑が、ほんの僅かに薄くなる。
 薄くなるだけで、崩れない。
 崩れないまま、冷たくなる。

「……承知しました」

 出てしまった。
 いちばん閉じる言葉。

 アレクシスの眉が寄る。

「承知しました、ではなく——」

「噂など気にするな、と仰いましたので」

 声が、丁寧で、硬い。
 丁寧で硬い言葉は、矢になって飛ぶ。

 アレクシスは一歩近づきかけて、止まった。
 距離を詰めることが、彼の“解決”だ。
 けれど、今の彼が距離を詰めれば、礼節の鎧がさらに厚くなるだけだと、分かっていない。

「俺は……君が傷つく必要はないと言っている」

 傷つく必要はない。
 その言い方が、また正しい。
 正しいから、逃げられない。

 リリアーヌは花瓶を見た。
 花は淡い。
 淡いのに、香りが確かにある。
 香りがあるものは、気にしないことができない。

 リリアーヌは視線を戻し、微笑んだまま言った。

「では、私が傷ついているように見えるのですね」

 アレクシスの喉が動いた。
 言葉に詰まるときの動き。

「……そういう意味では」

「そういう意味でしょう」

 切り捨てるつもりはない。
 けれど、切れてしまう。
 それほど、心が薄くなっている。

 ヴィオラが気配を強くする。
 侍女長の“止める”気配。
 だが、止められるほど優しい痛みではない。

 アレクシスは、正論で追い詰めたことに気づいていないまま、続けてしまう。

「君は、公爵家の令嬢だ。
 噂に振り回される必要はない。
 体裁を——」

 体裁。

 その言葉が、最後の杭だった。

 体裁。
 ——私がここで微笑んでいるのも、体裁。
 眠れないのも、食べられないのも、体裁。
 あなたが黙るのも、体裁。

 リリアーヌの微笑が、初めて消えた。

「体裁、ですか」

 声が低い。
 低い声は、涙よりも危険だ。
 涙は溢れるだけだが、低い声は切ってしまう。

 アレクシスはそこで初めて、言葉を止めた。
 止めたのに、遅い。

 リリアーヌは続けた。
 丁寧な言葉で。
 丁寧だからこそ、逃げ場のない刃で。

「噂を気にするな、と。
 体裁を守れ、と。
 ——承知しました」

 また、“承知しました”。
 今度は、彼に向けて突き刺す。

 アレクシスの目が揺れた。
 揺れたのに、言葉が出ない。
 言葉が出ないまま、彼は“正論のまま黙る”という最悪の選択をする。

 沈黙。
 その沈黙が、リリアーヌの中で決定を固める。

 ——この人は、私の心より、正しさを選ぶ。
 正しさは大切。
 でも私は、正しさで抱きしめられない。

 リリアーヌは深く息を吸い、吐いた。
 吐いた息は震えなかった。
 震えないのが、もう怖い。

「静養いたします。
 公務の連絡は侍女長を通して。
 それで、十分でしょう?」

 十分。
 それは、終わりの言葉に近い。

 アレクシスは、やっと焦りの表情を見せた。

「十分、ではない」

 その否定が、初めて“気持ち”だった。
 でも、遅い。
 遅いと感じてしまう自分が、残酷だ。

 リリアーヌは微笑まなかった。
 代わりに、ただ礼をした。
 深く、完璧に。

「失礼いたします、閣下」

 礼をすると、会話は終わる。
 礼をすると、逃げられる。
 礼をすると、心は守れる。
 ——守りすぎて、折れるのに。

 アレクシスは動けなかった。
 その背中が、花瓶の前で小さく見えた。

 花は淡いまま揺れている。
 淡いものほど、壊れやすい。

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