あなたの片想いを聞いてしまった夜

柴田はつみ

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第29章 |恋敵の抱擁

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 舞踏会の夜は、音までが金色に光っていた。
 弦の震え、グラスが触れ合う鈴、絹が擦れる小さなさざ波。——すべてが、王国の体裁を保つために整えられた音だった。

 リリアーヌはその中心に立っていた。

 王妃が“戻した”席順。
 それは名誉であり、同時に檻でもある。誰もが彼女の微笑を見て、彼女が“平気”だと思う。

 けれどその薄い微笑の下で、指先はずっと冷えていた。

 「リリアーヌ様、少しお水を」

 侍女長が差し出すグラスに、リリアーヌはほんの僅かに頷く。
 唇を湿らせても、喉の渇きは消えない。眠れない夜が続くと、体は正直になる。立っているだけで、世界が遠くなる瞬間がある。

 視線の端に、公爵がいた。
 いつも通りの姿勢、いつも通りの顔。仕事の顔を纏い、礼節の距離を守っている。

 ——あの距離が、優しさでないことを知ってしまったのはいつからだろう。

 「……今夜は」

 公爵が一歩だけ近づきかけて、言葉を切った。
 周囲の視線が寄る。王妃の席順の“中心”にいる彼女に、公爵が近づくということは——噂に火をくべるということだ。

 公爵はそれを分かっている。分かっていて、止まる。
 そして止まるたびに、リリアーヌの胸は小さく沈む。

 「ご配慮に感謝いたします」

 リリアーヌは礼の言葉だけを置いて、微笑んだ。
 その微笑が薄いと誰かが言うなら、きっと正しい。けれど彼女はそれ以上、何も足せない。

 足元が、ほんの少し浮いた。

 次の瞬間、床が斜めに傾いだ気がした。
 音楽が遠くなる。灯りが滲む。世界の輪郭が、薄紙みたいに破れる。

 (……まずい)

 そう思ったときには遅かった。

 膝が折れる。
 ドレスの裾が空気を掴み、視界が流れ落ちていく。

 「リリアーヌ!」

 腕が、確かな強さで彼女の背を支えた。
 香水ではなく、冬の外気の匂い。騎士の外套の匂い。
 ガブリエルだ、と理解するより先に、彼の腕が彼女を抱き留めていた。

 「大丈夫。息を、ゆっくり」

 彼は声を低くして、周囲に聞こえないように言う。
 リリアーヌの指先を包む手は、熱を分け与えるみたいに温かい。

 恥ずかしい。情けない。
 ——そう思うべきなのに、体は“安全”を優先してしまう。

 彼の胸に額が触れた。
 その瞬間、広間のざわめきが、一段だけ大きくなるのが分かった。

 誰かが囁く。
 「まあ」「大丈夫かしら」
 そして、必ず混じる——「公爵様は?」

 公爵の気配が、遠い場所で固まったまま動かない。
 視線だけが刺さるのに、足音が来ない。

 (……来ない)

 来られないのだ。
 礼節。体裁。王妃の席順。社交界の目。
 正しい理由が並べば並ぶほど、彼女の胸に“結論”が立ち上がる。

 ——私は、選ばれていない。

 「少し外へ」

 ガブリエルが外套を肩に掛けようとして、すぐ思い直し、侍女長を見た。
 侍女長が無言で頷き、外套を受け取ってリリアーヌの肩を包む。

 「失礼いたします」

 侍女長が周囲に礼をし、リリアーヌを支える。
 ガブリエルはその隣で、彼女の歩幅に合わせて歩く。

 その小さな行列が広間を横切る間——公爵は、一度も近づかなかった。
 目だけが追う。手は出ない。声は出ない。

 すれ違いざま、ガブリエルが公爵にだけ聞こえる声で言った。

 「……彼女に触れられないなら、せめて言葉で守れ」

 公爵の目が揺れた。
 けれどそれでも、彼は何も言わない。

 扉が閉まる。

 音楽が、遠くで続いている。
 まるで何も起きなかったみたいに。

 リリアーヌは廊下の冷気に触れて、少し息が戻った。
 けれど胸の奥の冷えは、戻らない。

 「すみません……ご迷惑を」

 「迷惑なら、ここまで来ない」

 ガブリエルの返答は即座だった。
 叱るでもなく、慰めるでもなく、当然のように“いる”。

 彼の“いる”は、痛いほど優しい。

 そして彼女は知ってしまう。
 今夜、広間で最も残酷だったのは——倒れたことではない。

 公爵が、動けなかったことだ。

 侍女長がそっと言った。

 「リリアーヌ様。——息は戻りました。ですが、心は……無理をなさらないで」

 リリアーヌは頷いた。
 微笑は、作れなかった。

 遠くの広間の扉の向こうで、誰かが笑う声がした。
 その笑い声の中に、公爵の声は混じっていない。

 (——声が、聞こえない)

 それだけで十分に、泣けた。

 けれど泣けば、噂が“事実”になる。
 リリアーヌは目を伏せたまま、ただ呼吸を数えた。

 そのとき、廊下の奥で、靴音が止まった。

 息を呑むほどの沈黙。
 いや、沈黙ではない。

 ——言葉にならない間。

 公爵が立っていた。
 近づいてきた。ようやく。

 だがその歩みは、遅すぎる。

 「……リリアーヌ」

 名を呼ぶ声が、震えていた。

 (今さら)

 そう思ったのに、胸が痛む。

 公爵は、彼女ではなく——ガブリエルの腕の位置を見た。
 視線がそこに刺さって、抜けない。

 ガブリエルが静かに立ち直る。
 その動きは挑発ではなく、礼儀だった。礼儀の形をした防壁。

 「閣下。彼女は今、立っているのがやっとです」

 公爵は返事をしない。
 ただ、喉が詰まったように息を吸った。

 「……俺は」

 言いかけて、言葉が続かない。

 その瞬間、リリアーヌは理解した。
 ——彼は、言葉で守る人ではない。守るべき場面で、黙る人だ。

 そしてその“黙り”が、今夜の彼女を殺す。

 公爵の拳が、わずかに震えた。

 (嫌だと思っているのは、私じゃない)

 ——彼は、彼の“嫌だ”に気づいただけだ。
 私の痛みには、まだ触れていない。

 リリアーヌは一歩、後ろへ退いた。
 侍女長の影に、静かに身を隠す。

 その小さな退きが、決定打になることを、彼は知らない。

 公爵の目が、初めて焦る。

 「……待て」

 その声が、広間よりも冷たい廊下に落ちた。

 ——引き:公爵の声が、荒くなる
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