あなたの片想いを聞いてしまった夜

柴田はつみ

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第31章:追うのが遅い


 舞踏会の音楽は、夜明けまで続いたらしい。
 けれど公爵には、あの廊下の扉が閉まった瞬間から、何も聞こえなかった。

 ——自分の声だけが、耳の奥で反響していた。

 触るな。

 言ったのは自分だ。
 守るつもりで、取り返すつもりで——結果、彼女を怯えさせた。

 公爵は手袋を外し、掌を見つめる。震えはもう止まっている。
 代わりに、胸の奥の熱だけが居座り、冷めない。

 (俺は……何をしている)

 体裁。礼節。義務。
 それらを盾にして、肝心なものから目を逸らしてきた。

 その肝心なものが、今夜、目の前から消えたというのに。

 公爵は広間の端で立ち尽くしたまま、ようやく一歩を踏み出した。
 追うのが遅い。分かっている。それでも、今、行かなければ終わる。

 廊下へ出ると冷気が頬を打った。
 遠くで夜会の笑いが続く。——まるで、何もなかったかのように。

 曲がり角の先に侍女長がいた。鉄のように背筋を伸ばし、彼を通す気配がない。

 「閣下」

 丁寧で、拒絶に近い声だった。

 「お嬢様はお休みになりました。医師の指示です」

 「……会わせろ」

 短い命令。
 口にした瞬間、公爵は自分の愚かさを噛む。

 侍女長の目が、わずかに冷えた。

 「会わせる理由がございません」


 公爵は息を整えた。
 一度でいい。言葉を間違えない。

 「……謝りたい」

 侍女長は動かない。
 謝罪の“形”なら彼はいくらでも用意できる。だからこそ、試してくる。

 「何を、ですか」

 喉が詰まる。
 謝りたいのに、言葉が出ない。いつも通りだ。

 ——けれど、いつも通りなら、もう間に合わない。

 「……怯えさせた」

 侍女長が微かに瞬いた。
 その反応だけで、公爵は確信する。——あの一歩は、恐怖だった。

 「それだけではございません」

 冷たいほど静かな声が続く。

 「お嬢様は倒れられました。原因は不眠と食欲不振。
 その間、閣下は何を見ておいででしたか」

 公爵は答えられない。
 ——答えが残酷だからだ。

 見ていなかった。
 噂と体裁と、自分の義務ばかりを見ていた。

 侍女長は一歩だけ退き、扉の前を空けた。

 「五分だけ。声を荒げないでください。命令をしないでください。
 できないなら——戻ってください」

 公爵は頷く。
 それが許可ではなく、条件だと理解して。

 扉が開いた。

 室内は薄暗い。暖炉の火が小さく揺れ、薬草の匂いが微かに漂う。

 寝台の横に、ガブリエルが立っていた。外套も剣帯も外している。
 客ではなく、護衛の気配だ。

 「……失礼する」

 公爵が言うと、ガブリエルは短く頷くだけだった。
 責める目もない。余計な言葉もない。
 その抑えた強さが、公爵の胸をざわつかせる。

 寝台に近づくと、リリアーヌは目を開けていた。
 起きているというより——眠れずにいた顔だった。

 頬が少しこけ、唇の色が薄い。
 それでも微笑は作れる。作ってしまう。

 公爵の口が、昨夜と同じ文を選びかける。

 静養中と聞いた。邪魔ならすぐ帰る——

 噛み殺した。

 違う。
 彼女に必要なのは距離ではない。言葉だ。選ぶ言葉だ。

 公爵は膝をつき、目線の高さを合わせた。
 触れない。命令しない。
 条件のためではない。今まで守れなかったものを守るために。

 「……昨夜、俺は」

 言い訳が喉へ上がる。
 飲み込む。

 「……怖がらせた。すまない」

 リリアーヌの睫毛が、ほんの僅かに動いた。
 けれど微笑は変わらない。

 「お気遣いなく。——私は大丈夫です」

 その“大丈夫”は、昨夜の廊下より冷たく聞こえた。

 公爵は拳を握りそうになり、ゆっくり開いた。
 感情で押したら終わる。

 「……大丈夫じゃない、と言いたくなる」

 言葉を少しだけ柔らかくする。

 「倒れるまで気づけなかった。俺が悪い」

 リリアーヌは視線を逸らした。寝台の端に落ちる影を見つめる。

 「閣下は、お忙しいですから」

 許しではない。
 諦めだ。

 ガブリエルの低い声が落ちる。

 「彼女は“忙しさ”を責めていない。
 ——見ようとしなかったことに、傷ついている」

 正しい。腹が立つほど正しい。
 だが今は、その正しさに噛みつく場面ではない。

 公爵はリリアーヌだけを見る。

 「……俺は、説明するのが下手だ」

 情けない告白。
 けれど初めて、それは逃げではなかった。

 「下手でも、言うべきだった。
 お前が倒れる前に。……泣かせないために」

 リリアーヌがゆっくり顔を上げる。
 澄んだ目。——もう期待を置いていない目。

 「泣いておりませんわ」

 「知っている」

 公爵は息を吐いた。

 「だから怖い。
 泣かないことに慣れた人は——消える」

 布団の上で、指先が僅かに揺れた。
 その小さな動きが、公爵の喉を焼く。

 言うべき核心に近づくほど、怖い。

 好きだ。
 お前を選ぶ。

 ——それを言えば、いま抱えているものすべてが動く。
 だが黙れば、彼女が壊れる。もう壊れかけている。

 公爵は唇を噛み、まず一つだけを取り戻す。

 「……昨夜の“触るな”は取り消す」

 侍女長が小さく息を呑む。
 ガブリエルの目がわずかに細くなる。

 リリアーヌは微笑のまま首を傾げた。

 「取り消して、何か変わりますか」

 優しいのに、残酷な問い。

 公爵は胸の奥が痛む。
 変わる。変えたい。——けれど、今すぐ差し出せる言葉が足りない。

 「……変える。変える努力をする」

 そして、恐ろしく正直に付け足す。

 「お前が——俺を怖がらないように」

 リリアーヌの表情は動かない。
 それが答えだった。

 「閣下」

 礼儀正しい声。侍女長へ向けるのと同じ、社交の声。

 「ご足労、感謝いたします。ですが、今は静養が第一ですので」

 ——追うのが遅い。

 公爵は、その言外を理解してしまう。
 今の彼女には、謝罪を受け取る余力も気力もない。

 ガブリエルが一歩前へ出た。

 「五分は終わりだ。閣下」

 公爵は立ち上がる。
 言い返さない。昨夜の自分を繰り返さないために。

 「……リリアーヌ」

 名を呼ぶだけで、喉が焼ける。
 彼女は目を上げない。

 公爵は扉へ向かい、そこで足を止めた。
 背中越しに、言葉を落とす。

 「俺は——遅すぎた」

 それだけが、今の彼に言える真実だった。

 扉が閉まる。

 廊下で侍女長が淡々と言った。

 「閣下。次に来るときは、謝罪ではなく——“選ぶ言葉”をお持ちください」

 公爵は答えられない。
 けれど胸の奥で、何かが固まる音がした。

 ——逃げない。
 公の場で、筋を通す。
 彼女を守るために、自分の沈黙を捨てる。

 その決意が遅いことを、彼は知っている。
 知っているからこそ、今度は遅れたまま終わらせない。

 公爵は廊下の窓から、薄明の空を見上げた。
 夜明けは冷たく、容赦がない。

 それでも、始まる。

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