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第33章 |エリザの告白
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静養用に整えられた離れは、音が柔らかい。
廊下を伝う足音さえ、厚い絨毯に吸い込まれていく。
リリアーヌは窓辺の長椅子に身を預け、湯気の淡いハーブティーを両手で包んだ。
香りは優しいのに、胸の奥はまだ冷たい。
——“公の場”。
昨夜、舞踏会の空気を裂いた出来事が、何度も瞼の裏に戻ってくる。
ガブリエルの腕の温度。
公爵の荒い声。
そして、自分が初めて見た“あの顔”。
扉が控えめに叩かれた。
「リリアーヌ様。お目覚めでいらっしゃいますか」
侍女長の声だ。
返事をすると、扉が少しだけ開く。
「面会の申し出がございます。……未亡人エリザ様です」
カップがわずかに揺れた。
指先が冷えるのは、まだ癖になっている。
「……どうして」
自分でも驚くほど、声が静かだった。
侍女長は言葉を選ぶように、控えめに続ける。
「エリザ様は“邪魔ならすぐ帰る”と申しております。
先日、閣下へお見舞いに来られた折に……お嬢様が静養中だと耳にされたようです」
“先日、見舞いに来ていた”。
たったそれだけで胸が縮む。
けれど、逃げれば噂が勝つ。
——ユリウスの叱責が、脳裏をかすめた。
リリアーヌはカップを置き、背筋を整える。
「通してください。……短時間だけ」
侍女長が一礼して退き、ほどなく扉が再び開いた。
入ってきたエリザは、想像よりずっと小柄だった。
喪服ではないが、彩りを抑えたグレーのドレス。胸元に黒いリボン。
整えられた髪には、丁寧さと気疲れが同居している。
「失礼いたします、リリアーヌ様」
礼は完璧だった。
その完璧さが、彼女がこの場をどれほど恐れているかを際立たせる。
「……静養中と聞きました。邪魔なら、すぐ帰ります」
まっすぐな声。
責めるために来た人間のそれではない。
リリアーヌは微笑みを作る。
うまく笑えない。けれど、崩れないことはできた。
「お構いなく。どうぞ、お掛けください」
エリザが椅子に腰を下ろすまで、二人の間には透明な壁があった。
外では鳥が鳴いているのに、室内の空気だけが張り詰めている。
エリザは指を重ね、視線を少し落とした。
「本当なら、私がここへ来るべきではないと分かっています。
……けれど、噂がひとり歩きして、あなたが“悪者”にされていると聞きました」
胸がきゅっと痛む。
「私は、悪者ではありません」
誰に向けた言葉か分からない。
自分に言い聞かせたのかもしれなかった。
エリザが小さく頷く。
「はい。あなたは何も奪っていない。
……奪ったのは、あなたではありません」
言い切られて、リリアーヌの息が止まった。
“奪ったのは誰か”——その答えを、彼女は持っているのだろうか。
エリザは、震えるほど小さく息を吸い、続ける。
「私は……謝りに来ました。
外套の件も。後見の件も。
閣下が私に特別な感情を持っているように見える場面を……あなたに見せてしまったことも」
リリアーヌは静かに首を振った。
「善意だと……頭では分かっています。
でも、目で見たものは……簡単には消えません」
エリザの顔が痛みに歪む。
勝者の余裕ではない。
望まない誤解に巻き込まれた人の表情だった。
「……リリアーヌ様。
あなたは、閣下が“好きな方がいる、片思いだ”と仰ったのを……聞いたのですね」
リリアーヌは、カップの縁をそっと撫でた。
「はい。偶然、回廊で。
それで——私は、理解したつもりになりました」
エリザは迷いなく言う。
「その“片思いの相手”が、私だと思われたのですね」
リリアーヌは答えない。
否定も肯定もしない沈黙は、肯定より残酷だった。
エリザは視線を上げ、リリアーヌを見据える。
「違います」
短く、はっきりと。
心臓が跳ねる。
「……違う?」
「はい。違います。
閣下が守っているのは、“私”ではありません」
指先がまた冷たくなる。
エリザは胸元の黒いリボンに触れた。
それは喪ではなく、約束の印のように見えた。
「夫は亡くなる前に、閣下に託しました。
遺児のこと、領地のこと、そして……私が外から狙われることもある、と」
リリアーヌは顔を上げる。
「狙われる……?」
エリザは静かに頷いた。
「夫の死は事故とされています。でも、完全に片づいてはいない。
“遺児の後見”を狙う者がいる。領地を狙う者もいる。
……私が“弱い未亡人”のままでは、危険なのです」
説明の一つ一つが、公爵の沈黙の形を作っていく。
言えば立場が傷つく。噂が飛びつく。
だから彼は言えなかった。
——けれど、その沈黙は、私を壊した。
リリアーヌの瞳が揺れる。
エリザはそこで初めて、声を柔らかくした。
「閣下には、私を守る“義務”がある。
それだけです。……それ以上ではありません」
胸の奥が、ほんの少しだけ息をする。
だが、すぐ別の痛みが浮かび上がった。
「……では。
閣下が“好きな方がいる、片思いだ”と言ったのは、誰のことですか」
エリザは迷わなかった。
「あなたです」
空気が止まる。
窓の外の鳥の声が、遠くへ引いた。
リリアーヌは微笑みかけようとして失敗し、唇がわずかに震えた。
「……そんなはず、ありません。
だって閣下は——」
エリザは遮らない。
ただ淡々と事実を置く。
「閣下は不器用です。
優しくできるのに、言葉が足りない。
……あなたの前では、特に」
リリアーヌは視線を落とす。
「……エリザ様が、羨ましいです」
声が小さすぎて、誰かに聞かれたら消えてしまいそうだった。
「私には、守ってくれる方がいないので」
言った瞬間、胸が裂けそうになる。
“守られない人間”の顔をしてしまった気がした。
エリザはゆっくり首を振る。
「いいえ。あなたには……います」
リリアーヌが顔を上げる。
エリザの瞳は涙を堪えていた。
嫉妬でも勝利でもない。
“自分が間に立ってしまった”人の苦しみが、そこにあった。
「閣下が守りたいのは、あなたです。
私を守る義務は——終わりにしていい」
リリアーヌは息を呑む。
「終わり……?」
エリザは頷いた。
「私は、もう“守られるだけの未亡人”ではありません。
遺児の母として、領地の女主人として、立たなければならない。
そのために——閣下の義務を、ここで終わらせます」
胸の奥で、何かが痛く鳴った。
それは救いではない。
彼女が“代わりに”背負おうとする重さの音だ。
「そんな……無理です」
反射的に言うと、エリザは初めて微笑んだ。
弱いけれど、折れない笑み。
「無理ではありません。
……私が決めます」
“決める”。
その言葉に、リリアーヌは目を見開く。
それはいつも自分が避けてきた言葉だ。
エリザは、最後にひとつだけ強い声で言った。
「リリアーヌ様。
あなたは初恋泥棒ではない。
盗まれたのは、あなたの心の安心です。
だから——取り戻してください。あなたの言葉で」
慰めではなく、背中を押す刃だった。
エリザは椅子から立ち、深く礼をする。
「本日は失礼いたしました。
噂にあなたが負けないように。
……そして、あなたが“選ばれる”のではなく、“選ぶ”方でありますように」
扉が閉まる。
リリアーヌはしばらく動けなかった。
胸の中で凍っていたものが、ゆっくり溶けていく。
——“公の場”。
公爵がそこに立つなら、私はどうする。
待つのか。逃げるのか。
それとも、自分で選ぶのか。
リリアーヌはティーカップを持ち上げた。
温かいのに、指先の冷えだけが残る。
そして、はっきりと口にした。
「……私は、聞かなきゃいけない」
誰に向けた言葉でもない。
自分の心に向けた宣言だった。
廊下を伝う足音さえ、厚い絨毯に吸い込まれていく。
リリアーヌは窓辺の長椅子に身を預け、湯気の淡いハーブティーを両手で包んだ。
香りは優しいのに、胸の奥はまだ冷たい。
——“公の場”。
昨夜、舞踏会の空気を裂いた出来事が、何度も瞼の裏に戻ってくる。
ガブリエルの腕の温度。
公爵の荒い声。
そして、自分が初めて見た“あの顔”。
扉が控えめに叩かれた。
「リリアーヌ様。お目覚めでいらっしゃいますか」
侍女長の声だ。
返事をすると、扉が少しだけ開く。
「面会の申し出がございます。……未亡人エリザ様です」
カップがわずかに揺れた。
指先が冷えるのは、まだ癖になっている。
「……どうして」
自分でも驚くほど、声が静かだった。
侍女長は言葉を選ぶように、控えめに続ける。
「エリザ様は“邪魔ならすぐ帰る”と申しております。
先日、閣下へお見舞いに来られた折に……お嬢様が静養中だと耳にされたようです」
“先日、見舞いに来ていた”。
たったそれだけで胸が縮む。
けれど、逃げれば噂が勝つ。
——ユリウスの叱責が、脳裏をかすめた。
リリアーヌはカップを置き、背筋を整える。
「通してください。……短時間だけ」
侍女長が一礼して退き、ほどなく扉が再び開いた。
入ってきたエリザは、想像よりずっと小柄だった。
喪服ではないが、彩りを抑えたグレーのドレス。胸元に黒いリボン。
整えられた髪には、丁寧さと気疲れが同居している。
「失礼いたします、リリアーヌ様」
礼は完璧だった。
その完璧さが、彼女がこの場をどれほど恐れているかを際立たせる。
「……静養中と聞きました。邪魔なら、すぐ帰ります」
まっすぐな声。
責めるために来た人間のそれではない。
リリアーヌは微笑みを作る。
うまく笑えない。けれど、崩れないことはできた。
「お構いなく。どうぞ、お掛けください」
エリザが椅子に腰を下ろすまで、二人の間には透明な壁があった。
外では鳥が鳴いているのに、室内の空気だけが張り詰めている。
エリザは指を重ね、視線を少し落とした。
「本当なら、私がここへ来るべきではないと分かっています。
……けれど、噂がひとり歩きして、あなたが“悪者”にされていると聞きました」
胸がきゅっと痛む。
「私は、悪者ではありません」
誰に向けた言葉か分からない。
自分に言い聞かせたのかもしれなかった。
エリザが小さく頷く。
「はい。あなたは何も奪っていない。
……奪ったのは、あなたではありません」
言い切られて、リリアーヌの息が止まった。
“奪ったのは誰か”——その答えを、彼女は持っているのだろうか。
エリザは、震えるほど小さく息を吸い、続ける。
「私は……謝りに来ました。
外套の件も。後見の件も。
閣下が私に特別な感情を持っているように見える場面を……あなたに見せてしまったことも」
リリアーヌは静かに首を振った。
「善意だと……頭では分かっています。
でも、目で見たものは……簡単には消えません」
エリザの顔が痛みに歪む。
勝者の余裕ではない。
望まない誤解に巻き込まれた人の表情だった。
「……リリアーヌ様。
あなたは、閣下が“好きな方がいる、片思いだ”と仰ったのを……聞いたのですね」
リリアーヌは、カップの縁をそっと撫でた。
「はい。偶然、回廊で。
それで——私は、理解したつもりになりました」
エリザは迷いなく言う。
「その“片思いの相手”が、私だと思われたのですね」
リリアーヌは答えない。
否定も肯定もしない沈黙は、肯定より残酷だった。
エリザは視線を上げ、リリアーヌを見据える。
「違います」
短く、はっきりと。
心臓が跳ねる。
「……違う?」
「はい。違います。
閣下が守っているのは、“私”ではありません」
指先がまた冷たくなる。
エリザは胸元の黒いリボンに触れた。
それは喪ではなく、約束の印のように見えた。
「夫は亡くなる前に、閣下に託しました。
遺児のこと、領地のこと、そして……私が外から狙われることもある、と」
リリアーヌは顔を上げる。
「狙われる……?」
エリザは静かに頷いた。
「夫の死は事故とされています。でも、完全に片づいてはいない。
“遺児の後見”を狙う者がいる。領地を狙う者もいる。
……私が“弱い未亡人”のままでは、危険なのです」
説明の一つ一つが、公爵の沈黙の形を作っていく。
言えば立場が傷つく。噂が飛びつく。
だから彼は言えなかった。
——けれど、その沈黙は、私を壊した。
リリアーヌの瞳が揺れる。
エリザはそこで初めて、声を柔らかくした。
「閣下には、私を守る“義務”がある。
それだけです。……それ以上ではありません」
胸の奥が、ほんの少しだけ息をする。
だが、すぐ別の痛みが浮かび上がった。
「……では。
閣下が“好きな方がいる、片思いだ”と言ったのは、誰のことですか」
エリザは迷わなかった。
「あなたです」
空気が止まる。
窓の外の鳥の声が、遠くへ引いた。
リリアーヌは微笑みかけようとして失敗し、唇がわずかに震えた。
「……そんなはず、ありません。
だって閣下は——」
エリザは遮らない。
ただ淡々と事実を置く。
「閣下は不器用です。
優しくできるのに、言葉が足りない。
……あなたの前では、特に」
リリアーヌは視線を落とす。
「……エリザ様が、羨ましいです」
声が小さすぎて、誰かに聞かれたら消えてしまいそうだった。
「私には、守ってくれる方がいないので」
言った瞬間、胸が裂けそうになる。
“守られない人間”の顔をしてしまった気がした。
エリザはゆっくり首を振る。
「いいえ。あなたには……います」
リリアーヌが顔を上げる。
エリザの瞳は涙を堪えていた。
嫉妬でも勝利でもない。
“自分が間に立ってしまった”人の苦しみが、そこにあった。
「閣下が守りたいのは、あなたです。
私を守る義務は——終わりにしていい」
リリアーヌは息を呑む。
「終わり……?」
エリザは頷いた。
「私は、もう“守られるだけの未亡人”ではありません。
遺児の母として、領地の女主人として、立たなければならない。
そのために——閣下の義務を、ここで終わらせます」
胸の奥で、何かが痛く鳴った。
それは救いではない。
彼女が“代わりに”背負おうとする重さの音だ。
「そんな……無理です」
反射的に言うと、エリザは初めて微笑んだ。
弱いけれど、折れない笑み。
「無理ではありません。
……私が決めます」
“決める”。
その言葉に、リリアーヌは目を見開く。
それはいつも自分が避けてきた言葉だ。
エリザは、最後にひとつだけ強い声で言った。
「リリアーヌ様。
あなたは初恋泥棒ではない。
盗まれたのは、あなたの心の安心です。
だから——取り戻してください。あなたの言葉で」
慰めではなく、背中を押す刃だった。
エリザは椅子から立ち、深く礼をする。
「本日は失礼いたしました。
噂にあなたが負けないように。
……そして、あなたが“選ばれる”のではなく、“選ぶ”方でありますように」
扉が閉まる。
リリアーヌはしばらく動けなかった。
胸の中で凍っていたものが、ゆっくり溶けていく。
——“公の場”。
公爵がそこに立つなら、私はどうする。
待つのか。逃げるのか。
それとも、自分で選ぶのか。
リリアーヌはティーカップを持ち上げた。
温かいのに、指先の冷えだけが残る。
そして、はっきりと口にした。
「……私は、聞かなきゃいけない」
誰に向けた言葉でもない。
自分の心に向けた宣言だった。
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