あなたの片想いを聞いてしまった夜

柴田はつみ

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第34章|恋敵の本音

 静養の離れは、昼でも薄い。
 窓の外は明るいのに、室内の音は絨毯に吸い込まれて、心臓の鼓動だけが際立つ。

 リリアーヌは長椅子に座り、膝の上で手を重ねていた。
 茶は冷めないうちに飲むべきだと分かっているのに、口に運ぶ気力がない。

 ——公の場。

 ユリウスの言葉が、まだ胸の奥で小さく鳴っている。
 公爵がそれを選ぶのかどうか。
 選ぶなら、何を切り捨て、何を守るのか。

 そこへ、侍女長が控えめに入ってきた。

 「リリアーヌ様。面会の申し出がございます。……ガブリエル様です」

 リリアーヌは頷いた。
 拒む理由がないのに、受け入れる理由も見つからない。
 そんな曖昧さを、礼節が覆い隠す。

 「通して」

 扉が開き、ガブリエルが入ってくる。
 外套を外し、剣帯も付けていない。
 この離れでは、彼はいつも“護衛”ではなく“客”の顔をしていた。

 「失礼する」

 声は低く、穏やかだ。
 その穏やかさが、逆に怖い。——本気の前触れの静けさに似ているから。

 「……お加減は」

 問いかけは、いつもより短かった。
 いつもの彼なら、答えを急かさない。
 今日の彼は、急いでいるわけではないのに、迷っていない。

 「医師の言う通り、眠れるようにはなってきました」

 リリアーヌが微笑むと、ガブリエルはその微笑を受け止めない。
 受け止めないのに、傷つけもしない。
 ただ、真っ直ぐに見ている。

 「……その微笑、もう要らない」

 リリアーヌの指が、膝の上で僅かに動いた。

 「私のために作らなくていい」

 言い方は優しい。
 でも、逃げ道を消す優しさだった。

 リリアーヌは目を伏せる。
 作らないと、崩れてしまうからだ。
 崩れる姿を、誰にも見せたくない。

 「……私は、平気です」

 口にした瞬間、自分でも分かる。
 平気な人間が、静養などしない。

 ガブリエルは小さく息を吐き、椅子の背に指を置いた。座らない。
 距離を詰めないのに、存在感だけが近づいてくる。

 「公爵が、動く」

 リリアーヌのまつ毛が揺れた。

 「ユリウスが、そう動かす。王妃も——見てる」

 言葉が的確すぎて、胸が痛い。
 公爵のことを知らないはずがない。
 彼はこの数日、状況を“読んで”いた。
 そして読んだ上で、ずっと黙って支えていた。

 リリアーヌは、思わず口にする。

 「……あなたは、どうしてそこまで」

 ガブリエルは即答しなかった。
 答えを“慎重に選ぶ”沈黙ではない。
 今まで温存してきた本音の扉を、開けるための呼吸だった。

 「無理に聞かないって言ってた」

 彼は自分の過去の言葉を、淡々と拾う。

 「君が苦しいときに、追い詰めたくなかったからだ」

 一歩。
 ガブリエルが近づく。椅子の背越しにではなく、同じ空気の中へ。

 「でも今は違う」

 リリアーヌの喉が鳴る。
 ——違う。
 その一言で、何かが変わってしまう予感がした。

 「今は、君が“消えようとしてる”」

 リリアーヌは眉を寄せた。

 「消えてなんか……」

 言いかけて、言葉が折れる。
 社交の前線から下がる、と決めた。
 それは“消える”に近い。

 ガブリエルは、そこでようやく座った。
 長椅子の向かいではない。少し横——逃げられる距離に。

 「君は優しい」

 褒める言い方じゃない。
 裁く言い方でもない。

 「優しすぎて、自分の痛みを後回しにする」

 リリアーヌは、唇を噛んだ。
 否定できない。

 ガブリエルの目が、静かに濃くなる。

 「俺はね、君が“公爵の幸せ”を優先すると言った時、安心したふりをした」

 その告白は、彼の弱さを曝け出す形だった。
 だから、刺さる。

 「安心したんじゃない。……怖かった」

 リリアーヌが息を呑む。

 「君が自分を捨てる決断を、あまりに綺麗にやるから」

 “綺麗に”。
 その言葉は、褒め言葉ではなく、痛い。

 リリアーヌの手の甲に、視線が落ちる。
 指先がいつも冷える癖。
 それを、ガブリエルは知っている。

 「君が冷えてるのに、誰にも気づかれないのが、俺は嫌だった」

 その“嫌”は、感情の露出だった。
 今まで隠してきたものが、ちゃんと漏れている。

 リリアーヌは、やっと顔を上げた。

 「……あなたは、ずっと正しい」

 ガブリエルは首を振った。

 「正しくなんかない」

 否定の仕方が、やけに真剣だ。

 「俺は今、正しさで君を守るだけじゃ足りないって言ってる」

 心臓が跳ねる。
 リリアーヌは理解してしまう。

 ——告白だ。

 でも、甘い告白ではない。
 切れ味のある、覚悟の告白。

 ガブリエルは、視線を逸らさずに言った。

 「君が笑うなら、俺は本気で奪う」

 室内の空気が、一段冷える。
 窓の外の鳥の声が遠くなる。

 リリアーヌは、反射的に微笑みそうになって——やめた。
 作ると、彼に叱られる気がした。

 「……奪うって」

 声が震えたのは恐怖ではなく、衝撃だった。

 ガブリエルは言い直さない。
 あえて言葉を荒くしない。
 ただ、責任を伴う言葉に変える。

 「君が“自分で選ぶ”ために、俺は選択肢になる」

 それは、押し付けではなかった。
 救いのふりをした束縛でもない。

 「公爵が公の場で何を言おうと、君が望まないなら、俺は一歩引く」

 リリアーヌの喉が詰まる。
 そんな条件、ずるい。
 優しさで逃げ場を塞ぐのは、公爵ではなくガブリエルの方だ。

 「でも」

 ガブリエルの声が、ほんの少しだけ低くなる。

 「君が“諦め”で引くなら、俺は止める」

 リリアーヌの胸が痛む。
 諦め。
 その言葉が、まさに自分の中にあったものだから。

 「私……」

 言葉が続かない。
 自分の気持ちを言葉にすると、現実になってしまう。

 ガブリエルは、その沈黙を急かさない。
 ただ、最後の一押しだけを置く。

 「俺は君に、泣いてほしいわけじゃない」

 彼は目を細めた。

 「でも、泣けないまま消えるのは——もっと嫌だ」

 リリアーヌの目の奥が熱くなる。
 涙は落ちない。落ちるほど、まだ心がほどけていない。

 「……返事は、今じゃなくていい」

 ガブリエルは立ち上がり、距離を戻す。
 その動きが、“本気”の証明だった。
 奪うと言っておいて、乱暴に近づかない。

 「静養が終わったら、君の言葉で聞かせて」

 リリアーヌは小さく頷いた。
 それだけで、彼は満足しない。
 満足しないのに、押し込まない。

 扉へ向かう前、ガブリエルがふと立ち止まる。

 「一つだけ」

 振り返らずに言う。

 「君が誰に選ばれるかじゃない。……君が誰を選ぶかだ」

 それは、ユリウスの言葉と似ていた。
 けれど、温度が違う。

 ユリウスの言葉は、家の論理。
 ガブリエルの言葉は、君の人生の側に立つ。

 扉が閉まる。
 リリアーヌは、しばらく長椅子の上で動けなかった。

 胸の奥が、痛いほど静かだ。
 静かで、温かい。

 ——選ぶ。

 その言葉が、今度は逃げ道ではなく、道しるべに見えた。

 リリアーヌは両手でカップを包み直し、冷えた指先に温度を移した。

 「……返事を保留、ね」

 独り言なのに、唇が僅かに笑った。
 作り物じゃない笑みが、ほんの少しだけ漏れた。

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