あなたの片想いを聞いてしまった夜

柴田はつみ

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第40章 “毎日会える”の意味


 静養の離れの朝は、音が少ない。
 鳥の声も、風の擦れる音も、どこか遠い。——世界が、そっと距離を取ってくれている。

 リリアーヌは窓辺で、湯気の立つハーブティーを両手で包んでいた。
 指先の冷えはまだ残る。けれど昨日より、少しだけ戻ってきた感覚がある。
 眠れたからではない。
 夜の終わりに、胸の奥で「消えない」と決めたからだ。

 扉が控えめに叩かれた。

 「リリアーヌ様。本日、王妃宮よりお使いがございます。……そして、もう一件」

 侍女長の声は、いつもより柔らかい。
 しかし油断はない。——彼女は、守るために柔らかくなる人だ。

 「……閣下がお見えです。今朝は面会を求めるのではなく、手紙を預けたいと」

 胸が小さく跳ねた。
 会いに来ない。求めない。預ける。
 それは、昨日の彼が言った「急がない」を、形にしたやり方だ。

 「……受け取ります」

 侍女長が一礼し、薄い封書を差し出す。
 封蝋は公爵家の紋。だが押しつけがましくない小ささ。
 体裁のための封ではなく、届かせるための封に見えた。

 侍女長が去ると、部屋はまた静かになる。
 リリアーヌは封蝋を切らず、しばらく掌で温めるように持った。
 熱が移る。紙の匂いがする。
 ——言葉の匂い。

 やがて、リリアーヌは封を開けた。

 中に入っていたのは、長い手紙ではない。
 一枚。短い。逃げないためだけに書かれたような文字。

リリアーヌ

昨夜、俺は「次はお前の前で言う」と言った。
それでも今日、お前の静養を邪魔したくない。

だから今は、結論ではなく約束だけを書いておく。

俺は、もう沈黙で守らない。
義務を盾にして、お前を曖昧にしない。

お前が望む日、お前が望む場所で、
お前が選べる言葉を持って行く。

——逃げない。


 リリアーヌは文字を指でなぞり、息を吐いた。
 選べる言葉。
 それは、甘い言葉ではない。
 自分が「はい」とも「いいえ」とも言える言葉。

 (……やっと、私に戻ってきた)

 そのとき、再び扉が叩かれた。
 今度は侍女長の後ろに、ガブリエルが立っている。

 「失礼する。……五分でいい」

 彼は今日も外套を外し、剣帯もない。
 それでも立ち姿は護衛だ。——近づかず、逃げ道だけは塞がない。

 侍女長は目でリリアーヌに確認し、彼を通した。

 ガブリエルは室内に入ると、手紙に気づいたらしい。
 だが聞かない。
 無理に聞かないという彼の正攻法は、最後まで変わらない。

 「顔色が、昨日よりいい」

 褒めるためではなく、確かめるための声。
 リリアーヌは小さく頷く。

 「眠れました。少しだけ」

 ガブリエルはそれ以上追わず、椅子に腰掛けた。
 向かいではない。斜め。
 視線を合わせられるけれど、逃げられる距離。

 「公爵から?」

 問いは一言だけ。
 詮索ではない。状況確認。

 リリアーヌは手紙を畳み、テーブルに置いた。

 「……約束だけ、です」

 ガブリエルは短く頷いた。
 そこに皮肉も失望もない。
 ただ、彼女の選択を邪魔しないための頷き。

 沈黙が落ちる。
 けれどそれは、重く押し潰す沈黙ではない。
 言葉を急がないための間だ。

 リリアーヌが先に口を開いた。

 「ガブリエル。あなたは……昨日、言いましたね。
 彼が何を言おうと、私が望まないなら引くって」

 ガブリエルの目がわずかに細くなる。

 「言った」

 「……あの場で、あなたが前に出たのは、私のため?」

 ガブリエルは少しだけ息を吐いた。
 正しい答えを探す息ではない。
 正直に言うための息だ。

 「半分は、君のため」
 そして視線を上げる。
 「半分は、俺のためだ」

 リリアーヌの胸が微かに痛んだ。
 彼が自分の欲を言えることが、逆に誠実だから。

 「俺は、君が消えるのが嫌だ。……昨日も言った」
 短く言って、続ける。
 「でも、君が公爵を選ぶなら、それは君の人生だ」

 君の人生。
 その言い方が、王妃の言葉よりも温度を持って響く。

 リリアーヌは指先を握り、ほどいた。
 冷えが少しだけ和らいでいるのに気づく。

 「私ね……ずっと、選ばれる側にいました」
 声が小さくなる。
 「席順も、噂も、体裁も。……全部」

 ガブリエルは頷く。急かさない。

 リリアーヌは、手紙に視線を落とした。

 「でも、昨日答えを出さないって言えた」
 微笑が漏れそうになって、今度は漏れた。
 作り物じゃない、短い笑み。

 「それだけで、少し……生き返った気がする」

 ガブリエルは目を伏せ、静かに言う。

 「うん。……それでいい」

 侍女長が廊下の向こうで、何かを指示する気配がした。
 静養の離れでも、生活は動いている。

 ガブリエルは立ち上がり、扉へ向かう。
 だが出る前に、振り返らずに一言だけ残した。

 「俺は条件を変えない」
 声は低い。
 「泣かせるな、って公爵に言ったのは、脅しじゃない。誓いだ」

 リリアーヌの喉がきゅっと締まった。

 「……ありがとう」

 ガブリエルは返事をしない。
 返事の代わりに、扉の前で一度だけ立ち止まり、静かに言う。

 「返事は、君のタイミングでいい」

 そして出ていった。

 部屋に残ったのは、手紙と、湯気と、静かな鼓動だけ。

 リリアーヌは窓辺へ戻り、封書を胸の前に押し当てた。
 約束だけの紙。
 でも、約束は毎日会えるより重い。

 (毎日会えるって、なんだろう)

 社交界では、毎日会うことなんて珍しくない。
 回廊ですれ違う。茶会で同席する。王妃宮で顔を合わせる。
 ——全部、偶然のふりをした必然。

 けれど彼女が欲しいのは、そこじゃない。

 偶然で会える関係ではなく、
 会うことを選ぶ関係。

 リリアーヌは手紙を机に置き、羽根ペンを取った。
 便箋を前にして、少し迷う。
 それでも、書いた。

 短い一行だけ。

閣下へ

逃げないと言うなら、私も逃げません。
ただし、私の前で。私の言葉で。
——次は、約束ではなくあなたの言葉をください。

 封をする手が、震えない。
 それが、今日の自分の答えだった。

 リリアーヌは侍女長を呼び、この手紙を渡した。
 侍女長は一瞬だけ目を細め、何も言わずに受け取る。
 その沈黙は、許可だった。

 扉が閉まる。

 リリアーヌはゆっくり息を吸い、窓の外を見る。
 王都は今日も上品な嘘でできている。
 でも、その嘘の隙間に――自分の本当が、少しだけ差し込んだ。

 そして彼女は、はっきりと心の中で言った。

 (毎日会えるのは、もう偶然じゃなくていい)

 会う
 話す
 選ぶ

 その三つを、誰かに決められるのではなく、自分で決める。

 ——だから、手を取るのは“許し”じゃない。
 選択だ。

 リリアーヌはティーカップを持ち上げ、今度はちゃんと口をつけた。
 温かさが喉を通り、胸の奥へ落ちていく。

 その瞬間、扉の向こうで誰かが笑う声がした。
 侍女かもしれない。遠くの庭師かもしれない。
 小さな生活の音。

 リリアーヌは、ほんの少しだけ笑った。

 作り物じゃない笑みで。

 ——エピローグ:数日後、ガブリエルは妹に笑って言う。
 「負けたよ。……でも、納得して負けた」

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