王の影姫は真実を言えない

柴田はつみ

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第11章|伯爵令嬢クラリスの微笑

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王都の午後は、薄い陽に包まれていた。
けれど公爵邸の玄関ホールだけは、いつもより冷たい。

来客。
それも――“招かれていない香り”を連れてくる客。

「伯爵令嬢クラリス様、ご到着です」

執事ルーファスの声は、乱れない。
乱れないからこそ、私の胸の奥がざわつく。

クラリス。
ヴィオラの背後に“影”として見えた名。
噂を好む女たちが、口元を隠して囁く時に必ず混ぜる名。

――公爵に相応しいのは、あの方。
――汚名の妻ではなく、清らかな伯爵令嬢。

扉が開く。
甘い香水が、ふわりと広がった。

「ごきげんよう、公爵夫人」

クラリスは淡い薔薇色のドレスを纏い、完璧な角度で微笑んだ。
肌は白く、髪は艶やかで、瞳は濃い蜜の色。
“育ちの良さ”が、そのまま形になったような女性。

そして何より――自分が可愛いことを知っている微笑み。

「お会いできて光栄です」

私は微笑み返した。
同じ“微笑み”でも、私のそれは盾だ。
彼女の微笑みは――刃。

「まあ、噂に聞くよりお美しい方。……でも」

クラリスは扇を軽く揺らし、声を柔らかくする。

「妾の噂、気の毒ですわね」

優しい言葉の形をしているのに、胸に刺さる。
気の毒。
――“あなたは哀れな立場”と言いながら、“その立場にいるのは当然”だと決めつける言い方。

「噂は噂ですわ」

私は淡々と返した。
言い返さない。言い返したら、噂が“効いている”と認めることになる。

クラリスは笑みを深めた。

「ええ、もちろん。……でも社交界は、噂が好きですものね。特に“美しい公爵”に関する噂は」

その“美しい公爵”という言葉が、私の胸を痛ませる。
彼は、どんな言葉でも囚われる。
称賛も、同情も、嫉妬も。
すべてが彼を縛る。

「今日はこちらへ、何かご用で?」

私が問うと、クラリスは少し首を傾げた。

「公爵様にご挨拶を、と。……それと、ご心配をお届けに」

ご心配。
また、優しさの仮面。

その時――廊下の奥から足音がした。
規則正しい、迷いのない歩幅。

アラン公爵。

現れた瞬間、空気が変わる。
光の角度まで変わった気がした。
人は、強いものが来ると息を整える。

「クラリス」

アランは短く名を呼ぶ。
友人なのか、ただの顔見知りなのか、温度が読めない。

クラリスはその呼び声だけで花が開いたみたいに笑う。

「まあ、公爵様。お久しぶりですわ」

彼女は一歩踏み出し、自然にアランの近くへ寄った。
近い。
夫婦でもないのに、息が届く距離。

――そして、私の隣ではなく、彼の隣を取る。

当然のように。
まるで「ここが私の場所」と言うみたいに。

私の指先が冷える。
身体の奥から、熱が引く。

(……私の場所は、どこ)

公爵夫人。
そう名乗るのに、立っている場所がない。

アランはクラリスを見たまま、私を見ない。
見ないというより――見られないように見えた。
まるで、目を合わせたら何かが壊れるから。

クラリスは扇の影で、私へ向けて微笑む。
勝ち誇ってはいない。
“哀れんでいる”顔だ。

その哀れみが、いちばん痛い。

「公爵様、お疲れでしょう。王宮の用事が増えたと伺いましたわ」

クラリスの言葉は“さりげない”。
けれど、そのさりげなさが“私の不在”を作る。

アランが答える前に、クラリスは続ける。

「公爵夫人も、何かとお忙しいでしょう? 王妃様からのご招待もあるとか……」

私は息を止めた。

(知ってる……?)

王妃の招待状は、まだ正式には届いていない。
なのに彼女は、噂より早く知っている。

アランの肩が僅かに強張った。
そして彼の左手が、無意識に押さえられそうになり――堪えられる。
癖を隠した。
誰かの前では、見せたくないのだろう。

「……話は後だ」

アランが言う。クラリスにではない。
誰に向けた言葉かも曖昧なまま。

クラリスは柔らかく頷き、アランの隣に寄り添ったまま、私に言った。

「公爵夫人。どうかご無理をなさらないで。妾の噂なんて、耐えるものではないでしょう?」

耐えるものではない。
まるで、耐えている私が愚かだと言うみたいに。

私は微笑んだ。
頬が痛くなるほど、笑みを作った。

「ご心配、痛み入りますわ。公爵家の夫人として、私は恥ずかしくない振る舞いをいたします」

“恥ずかしくない”
その言葉で、自分を縛る。

クラリスの瞳が、ほんの一瞬だけ細くなった。
喜びでも怒りでもない。
“あなたはまだ折れないのね”という確認。

そして、彼女は最も残酷に優しい声で言った。

「ええ。公爵様のために」

――公爵様のために。

その一言で、私は胸の奥がひび割れるのを感じた。

私は、公爵様のために耐える。
でも彼女も、公爵様のためにここに立つ。
その“ために”が、私の居場所を奪う。

アランが、ようやく私へ視線を向けた。
一瞬だけ。
その目は冷たくない。
けれど、何も言わない目だ。

(言わないで、守る)

その守り方が、私を孤独にする。

クラリスはアランの腕に、指先だけを添えた。
抱きつくほど露骨ではない。
でも、社交界が一番喜ぶ“意味のある距離”。

「では公爵様、後ほどお話を。……公爵夫人、どうかお幸せに」

幸せに。
祝福の言葉が、呪いみたいに響いた。

クラリスが去った後、ホールの香水だけが残った。
甘くて、息が詰まる。

私は扇を閉じ、静かに言った。

「……公爵様。私は、やはりあなたに似合わないのですね」

アランの瞳が揺れた。
否定したいのに、否定できない揺れ。

「……そんなことはない」

ようやく出た言葉は、遅すぎて、弱すぎた。

私は微笑んだ。
笑ってしまった。
笑うしかなかった。

「大丈夫です。私は、公爵様のために……耐えますから」

その瞬間、アランの表情がほんの少しだけ歪んだ。
苦しみの形に。

でも彼は、私に近づかない。
私の隣を取らない。

――だから私はまた誤解する。

(私の隣は、最初から空席だったのだ)

社交界の噂よりも冷たいものは、
夫が埋めない“私の隣”だった。
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