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第18章|王弟アドリアンの一礼
しおりを挟む噂は、倒れた者に優しくない。
私が茶会で意識を失ったという話は、翌朝には王都の端まで届いていた。
“公爵夫人は虚弱”――それならまだ良い。
“妾は罪の匂いに弱い”――そういう形に、噂はすぐ変わる。
私は寝台の上で、ミナが淹れた薬草茶を見つめていた。
湯気は柔らかいのに、私は杯を持つ手が震える。
(香りが怖い)
甘い匂いが、まだ喉に残っている。
飲み物は、今や私にとって“刃”だった。
「奥様、今日は――」
ミナが言いかけて止まる。
断れるなら、外へは出ない。
けれど断れない。
「王宮の慈善式典……ですね」
私が言うと、ミナは目を伏せた。
王妃主催の慈善式典。
名目は孤児院への寄付、実態は“見せる社交”。
そして私の出席は、半ば命令だった。
断れば「妾だから王宮に近づけない」と言われる。
出れば「妾だから王宮に呼ばれる」と言われる。
どちらでも、噂が勝つ。
護衛のガイが、玄関で待っていた。
今日の彼は鎧の光沢が鈍い。
余計な目立ちを避けるためだ。
守り方にも、王都の空気に合わせる必要がある。
馬車の中、私は窓の外を見ないようにしていた。
見れば、噂が目に入る気がする。
耳に入る気がする。
心が折れる気がする。
王宮の大広間は、白と金で飾られていた。
花が並び、光が跳ね、笑い声が高い。
私は公爵夫人としての顔を作る。
背筋を伸ばし、歩幅を整え、視線を下げすぎない。
けれど、人の視線は刺さる。
「あの方よ……倒れたって」
「香りに弱いのね。妾は香油を纏うものなのに」
「公爵様が気の毒……」
言葉は聞こえないふりをする。
聞こえないふりが、私の生存術。
――その時。
広間の空気が、ふっと変わった。
人々がざわめき、道が開く。
そこを歩いてきたのは、国王の弟――王弟アドリアンだった。
柔らかな金髪。
笑みを浮かべる目。
人の心の隙を見抜くような、優しい顔。
(この人は……危うい)
優しい人は、噂の餌になる。
優しい所作は、意味にされる。
アドリアンは私の前で足を止めた。
周囲が静まる。
一瞬だけ、全員が呼吸を止める。
そして彼は――ゆっくりと、深く一礼した。
その所作は、完璧だった。
公爵夫人に向ける敬意。
王家が“公爵家の妻”を認めるという、明確な宣言。
でも同時に――
それは“妾の噂”を抱える女に、王家が近づいたという意味でもあった。
噂が、息を吹き返す音がした。
「公爵夫人、先日のこと……驚きました」
アドリアンの声は優しい。
あまりにも優しい。
「お加減はいかがですか。王都は、時に香りが強すぎる」
香り。
その言葉で、私は喉が締まった。
「ご心配、痛み入ります」
私は微笑みを作る。
作りながら、胸が痛い。
アドリアンは私の指輪に目を落とした。
青石の指輪。
光が当たって、海の底のように沈む青。
「……陛下は、あなたを大切にしておられる」
その一言が、刃だった。
周囲の貴婦人たちの扇が、一斉に上がる。
耳が立つ。目が光る。
噂が膨らむ。
(やめて)
心の中で叫ぶ。
口には出せない。
アドリアンは、私の苦しさを知らないふりをして、さらに続ける。
「公爵も、あなたを守るために苦しんでいるでしょう」
――守るために苦しんでいる。
その言葉だけは、胸に刺さった。
それだけは真実に近いから。
でも、真実に近い言葉ほど危険だ。
噂は真実に寄っていくほど、強くなる。
アドリアンは一歩だけ近づき、声を落とした。
「今日、あなたの周りは騒がしい。……もし苦しければ、私が盾になりますよ」
盾。
その瞬間、私は背中が冷えた。
盾が増えれば増えるほど、噂は「彼女は守られる女だ」と確信する。
国王の妾。王弟の庇護。
公爵は哀れ。
最悪の連鎖。
「恐れ入ります。ですが、公爵家の妻として……」
私は言葉を選び、丁寧に距離を作ろうとした。
その時――広間の向こう側で、空気が一段冷えた。
アラン公爵が入ってきた。
黒に近い軍装。
金の肩章。
表情のない美貌。
そして、目だけが鋭い。
彼は人波を割って歩き、まっすぐこちらへ来る。
視線は――私ではなく、アドリアンに向いていた。
(来ないで)
心が叫ぶ。
来てほしいのに、来ないでほしい。
来れば、噂が完成する。
来れば、嫉妬が形になる。
来れば、私が苦しくなる。
アランは私の隣に立たない。
――一歩手前で止まり、アドリアンに向かって短く礼をした。
「王弟殿下」
声は低い。
礼は完璧。
でも、温度がない。
アドリアンは微笑む。
「アラン。公爵夫人の具合が心配でね」
“心配”。
その言葉が、社交界の口に一番美味しい。
アランの視線が、私の指輪へ落ちた。
次に、アドリアンの手元へ。
そして、私の顔へ。
私の胸が、ぎゅっと縮む。
アランは何を誤解する?
“王弟が彼女に手を伸ばしている”
“王家が彼女を囲っている”
“彼女は王家の女だ”
誤解は、もう十分に育っている。
アドリアンは、わざとらしく私に向けて言った。
「公爵夫人。あなたは一人で耐えすぎる。王家はあなたを見捨てない」
その言葉で、噂は完成する。
“王家は妾を見捨てない”。
私は息ができなくなった。
その瞬間――アランが、ほんの僅かに私の前へ出た。
盾になる位置。
でも触れない。
触れない盾。
「……恐れながら、殿下」
アランの声が落ちる。
「妻は、公爵家が守ります」
たったそれだけ。
でも、その一言が広間をざわつかせた。
公爵が“妻”と言った。
公の場で、明確に。
救いのはずなのに、胸が痛い。
なぜなら、アランは“守る”と言っただけで、“愛している”とは言わない。
そしてその守り方は、私をますます孤独にする。
アドリアンは微笑み、手を引いた。
優雅に、そして意図的に。
「失礼。では私は、退きましょう」
そう言って、もう一度私に向かって一礼する。
深く、丁寧に。
その一礼は、社交界にとって最高の燃料だった。
――王弟が公爵夫人に頭を下げた。
――国王の妾は、王家に庇護されている。
――公爵は哀れ。
噂が走る音がした。
花の香りより速く、言葉が走る。
アランの隣で、私は息を整えようとした。
でも、息が苦しい。
アランは低く囁いた。
「……目を合わせるな」
命令。
守るための命令。
私は頷く。
頷くしかない。
(公爵様……)
(あなたが守れば守るほど、私は妾になっていく)
その矛盾が、胸を裂く。
そしてアランは、私に触れないまま、広間の中心へ私を導いた。
腕を取らない。
手も取らない。
ただ、影のように横に立つだけ。
その距離が、また誤解を生む。
――公爵は妻に触れない。
――妾だから触れない。
――だから王弟が守る。
疑惑の鎖が、音を立てて締まっていく。
私は微笑みを作れなかった。
作れないまま、王宮の光の中に立ち尽くした。
噂が、また一段高く咲いた夜だった。
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