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第31章|誘拐未遂
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その日、空は薄い鉛色だった。
晴れでも雨でもない中途半端な天気は、噂に似ている。形が曖昧なのに、人を濡らす。
公爵邸の朝は、相変わらず静かだった。
静けさの中に、近衛の靴音だけが混じる。
廊下を曲がるたび、甲冑の留め具が小さく鳴る。
その音が「ここは安全だ」と告げるのではなく、「ここは見張られている」と告げてくる。
(監視)
私はショールの端を握りしめ、息を浅くした。
沈黙を選んだはずなのに、沈黙の重さが日に日に増していく。
「奥様、本日は温室の換気だけでも」
ミナが慎重に言う。
“外出”が禁じられてから、温室は私に残された唯一の逃げ道だった。
けれど温室さえ、いまは安全とは言い切れない。押し花が増えた。棚板に傷があった。合図があった。
そして近衛隊長バルドの配下が、当たり前の顔で敷地内を歩いている。
「……少しだけ」
私は頷いた。
“少しだけ”という言葉は、祈りに近い。
これ以上、何も起きませんように、と。
玄関ホールで待っていたのは、近衛服を着た男が二人。
見慣れない顔。
腰に下げた剣、肩章の刺繍、革手袋の擦れた手。
どれも整っているのに、どこか微妙に“揃いすぎている”。
「公爵夫人」
前に出た男が、丁寧すぎる礼をした。
礼が丁寧すぎる人は、怖い。
「近衛隊長バルドより、随行の命を」
随行。
命。
言葉が鎖になる。
「……温室まで、ですか」
ミナが問いかけると、男は微笑んだ。
微笑みが、薄い。
「敷地内でも死角はございます。昨今、物騒ですので」
物騒。
それは“あなたが狙われている”の婉曲だ。
私は頷いた。頷くしかない。
青石の指輪が冷たく光る。
その冷たさが、今日も私を現実に繋ぐ。
⸻
庭へ出ると、風が頬を撫でた。
花の香りが薄く、土が湿っている。
空が重いせいか、白椿がいつもより白い。
温室へ続く小径を歩く。
左右に植えられた薔薇の枝が、微かに揺れる。
背後にはミナ。さらにその後ろに近衛の男たち。
足音が四つ、規則正しく並ぶ。
(まるで護送)
私は自分の思考に、ぞくりとした。
護送されるのは罪人だ。
私は何の罪を犯したのだろう。
――真実を言えない罪。沈黙の罪。生きている罪。
温室の扉が見えた、その時だった。
「こちらへ」
近衛の男が、温室ではなく、脇に伸びる細い通路を指した。
そこは植え込みが濃く、屋敷の裏手へ回り込む道。
人目が少ない。音も吸われる。
「……温室は、あちらですが」
ミナが反射的に言う。
男の微笑みが消えた。
「温室の裏側にも換気口がございます。近道です」
近道。
その言葉が、私の背中を冷たくした。
近道は、誰にも見られない。
誰にも見られない場所は、噂が最も好きな場所だ。
噂は見えないところで生まれ、見えるところで殺す。
私は足を止めた。
「奥様」
ミナが小さく呼ぶ。
その声が震えている。
私の指先も震えそうになり、手袋越しに爪を立てた。
近衛の男が一歩近づく。
距離が詰まる。
香りがないはずの男から、鉄の匂いがする。
「公爵夫人。お進みください」
それはお願いではない。
命令だ。
王宮の命令。逆らえば“自然に”消える命令。
私は、ほんの僅かに首を振った。
「……ここは、通りません」
その瞬間、空気が変わった。
二人の男の視線が冷たくなる。
礼儀が剥がれ、職務がむき出しになる。
「公爵夫人」
低い声。
近衛服の男が、私の腕に手を伸ばした。
触れられる。
その一瞬、身体が硬くなる。
私は悲鳴を上げなかった。上げられなかった。
公爵夫人は取り乱してはいけない。
取り乱した瞬間、噂が勝つ。
でも――ミナが叫んだ。
「やめてくださいっ!」
ミナが私の前に立つ。
その小さな背中が、盾のように震えている。
男はミナを払いのけた。
乱暴ではない。だが容赦がない。
“物をどかす”動き。
ミナがよろめき、私は咄嗟に手を伸ばした。
その瞬間、腕を掴まれた。
強い力。
革手袋の冷たさ。
痛い。
痛いのに、声が出ない。
「静かに」
男が耳元で囁く。
甘い囁きではない。
刃の囁き。
「抵抗すれば、侍女が怪我をする」
私は息を呑んだ。
ミナが床に膝をついている。
震えながら、私を見ている。
(やめて)
言えない。
声にすれば、彼らはもっと強くなる。
その時、もう一人の男が私の背後に回り、外套を被せるようにして視界を奪おうとした。
黒い布が目の前に迫る。
闇が落ちる。
――その瞬間、鋭い声が響いた。
「離せ」
低い。
冷たい。
怒りが削ぎ落とされた声。
アラン公爵。
私は布の隙間から、黒い影が迫るのを見た。
走る足音。剣の鞘が鳴る音。
そして、空気が裂けるような気配。
「公爵……!」
近衛の男が言いかけた瞬間、アランの拳が飛んだ。
次の瞬間、私を掴んでいた手が外れる。
体がふらつき、私は膝を折りかけた。
でも、倒れない。倒れたら噂が勝つ。
私は必死に踏ん張った。
アランは私の前に立った。
壁のように、影のように。
それでも触れない距離。
触れる余裕がない距離。
「近衛の名を騙るな」
アランの声が、低く響く。
彼の左手が一瞬だけ動きかけて止まる。
痛みを抑え、衝動を抑える癖。
男たちは剣を抜いた。
金属の音が、植え込みに吸われる。
(ここは死角だ)
ここは“近道”だ。
誰も見ていない。
だから、何でも起こせる。
アランは剣を抜かなかった。
抜けなかったのではない。
抜けば“公爵が近衛を斬った”という物語になる。
彼は物語を作らせないために、最短で終わらせようとする。
「奥様を渡せ」
男の声が荒くなる。
礼儀はもうない。
アランが一歩踏み出す。
肩の線が硬い。
戦場の線。
「俺の妻だ」
その一言が、胸に刺さった。
妻。
公の場で、誰の前ででもない場所で、彼が私を“妻”と呼んだ。
救いのはずなのに、痛い。
この状況で、こんな言葉を聞くなんて。
男が剣を振り上げる。
次の瞬間――アランが私を背後へ押しやった。
触れた。
ほんの一瞬、私の肩に彼の掌の熱が乗った。
その熱が、胸の奥まで落ちた。
「見るな」
アランの声が、私にだけ落ちる。
命令の形をした守り。
でも私は見てしまう。
剣が、アランの腕を掠めた。
赤い線が走る。
血が、黒い外套に滲む。
(血)
胸が詰まる。
アランは顔色ひとつ変えない。
変えないまま、相手の手首を掴み、捻り、剣を落とさせた。
金属が地面に落ちる音が、異様に大きい。
もう一人の男が背後から回り込む。
アランが振り返り、肘で防ぐ。
その動きが速すぎて、私は呼吸を忘れる。
「公爵夫人を――!」
叫び声。
そして、足音。
遠くから、別の足音が近づいてくる。
公爵邸の護衛――ガイの足音だ。
遅い。
でも、来た。
男たちは一瞬だけ目配せし、撤退するように植え込みの向こうへ走った。
逃げ道が用意されていた。
最初から“誘拐未遂”ではなく、“奪取”の計画だったのだ。
アランが追おうとした。
追うより先に、左手が押さえられる。
血が滴っている。
それでも追う気だ。
「公爵様!」
私が声を上げた。
自分でも驚くほどの声。
叫んだ瞬間、喉が痛い。
でも止めたかった。これ以上、彼が傷つくのが怖かった。
アランは一瞬だけこちらを振り向き、低く言った。
「……無事か」
それだけ。
優しさが痛いほど短い。
私は頷いた。
頷くしかない。
ガイが駆けつけ、状況を見て顔色を変えた。
「公爵様! 奥様!」
ガイが男たちの逃げた方を追うよう護衛に指示し、同時にミナを起こす。
ミナは震えながらも立ち上がり、私の手を握った。
その手が冷たい。
(私は……生きている)
生きているのに、心臓が痛い。
痛いのは恐怖ではない。
目の前で流れた血のせいだ。
アランは自分の腕の傷を見ない。
見てしまえば痛みが現実になるから。
現実になれば、泣いてしまうから。
彼は平然と外套を整え、私を見下ろした。
「……屋敷へ戻る」
命令。
いつもの命令。
でもその命令の下に、震えるほどの焦りがあるのが分かった。
守れなかったら、終わる。
彼はそういう目をしていた。
私は足が動かなかった。
「奥様、歩けますか」
ミナの声が震える。
私は頷こうとして、息を呑んだ。
アランの外套の袖から、血が滴っている。
ぽたり、ぽたりと地面に落ちる。
赤が、土に吸い込まれていく。
(私のせいで)
その言葉が、胸の奥で形になる。
妾の噂のせいで。
監視のせいで。
沈黙のせいで。
真実を言えないせいで。
“私のせいで、この人は傷つく”。
その事実が、初めて現実になった。
私は震える声で言った。
「……ごめんなさい」
アランの目が、ほんの僅かに揺れる。
怒りではない。
苦しみの揺れ。
「謝るな」
短い言葉。
それだけで終わらせたいという壁。
でも、その壁の向こうに、痛みがある。
「……帰るぞ」
彼は私に手を差し出さない。
抱きしめない。
それでも、私の前に立ち続ける。
影の盾として。
屋敷へ戻る途中、すでに噂は走っていた。
使用人の目が揺れる。
護衛が増える。
門が閉まる。
邸内が騒然とする。
そしてその騒然の中心で、女たちは囁く。
「やっぱり妾だから狙われたのよ」
「王宮が“回収”しようとしたんじゃない?」
「近衛服だったって? ……まあ、やっぱりね」
“やっぱりね”。
その言葉が、私の胸を抉る。
アランは医務室へ向かう途中も、表情を変えなかった。
血を流しながら、平然を装う。
泣けない公爵。
泣いたら、噂に負けるから。
泣いたら、彼女がもっと危険になるから。
私はその背中を見て、初めて気づく。
守られるということは、誰かを傷つけることなのだと。
そして私の沈黙は、その傷を増やしているのだと。
噂は、この夜さらに悪化する。
――妾は狙われる。
――公爵は血を流しても、妻に触れない。
――だから真実だ。
真実ではないのに。
真実を言えない私が、真実を作ってしまう。
私は青石の指輪を握りしめ、唇を噛んだ。
(もう、これ以上……)
そう思った瞬間、私は知る。
もう、“噂”だけでは終わらない。
命が動き、血が流れ、真実が封印を破ろうとしている。
そして、その真実の前で――
アラン公爵は、さらに傷つくことになる。
晴れでも雨でもない中途半端な天気は、噂に似ている。形が曖昧なのに、人を濡らす。
公爵邸の朝は、相変わらず静かだった。
静けさの中に、近衛の靴音だけが混じる。
廊下を曲がるたび、甲冑の留め具が小さく鳴る。
その音が「ここは安全だ」と告げるのではなく、「ここは見張られている」と告げてくる。
(監視)
私はショールの端を握りしめ、息を浅くした。
沈黙を選んだはずなのに、沈黙の重さが日に日に増していく。
「奥様、本日は温室の換気だけでも」
ミナが慎重に言う。
“外出”が禁じられてから、温室は私に残された唯一の逃げ道だった。
けれど温室さえ、いまは安全とは言い切れない。押し花が増えた。棚板に傷があった。合図があった。
そして近衛隊長バルドの配下が、当たり前の顔で敷地内を歩いている。
「……少しだけ」
私は頷いた。
“少しだけ”という言葉は、祈りに近い。
これ以上、何も起きませんように、と。
玄関ホールで待っていたのは、近衛服を着た男が二人。
見慣れない顔。
腰に下げた剣、肩章の刺繍、革手袋の擦れた手。
どれも整っているのに、どこか微妙に“揃いすぎている”。
「公爵夫人」
前に出た男が、丁寧すぎる礼をした。
礼が丁寧すぎる人は、怖い。
「近衛隊長バルドより、随行の命を」
随行。
命。
言葉が鎖になる。
「……温室まで、ですか」
ミナが問いかけると、男は微笑んだ。
微笑みが、薄い。
「敷地内でも死角はございます。昨今、物騒ですので」
物騒。
それは“あなたが狙われている”の婉曲だ。
私は頷いた。頷くしかない。
青石の指輪が冷たく光る。
その冷たさが、今日も私を現実に繋ぐ。
⸻
庭へ出ると、風が頬を撫でた。
花の香りが薄く、土が湿っている。
空が重いせいか、白椿がいつもより白い。
温室へ続く小径を歩く。
左右に植えられた薔薇の枝が、微かに揺れる。
背後にはミナ。さらにその後ろに近衛の男たち。
足音が四つ、規則正しく並ぶ。
(まるで護送)
私は自分の思考に、ぞくりとした。
護送されるのは罪人だ。
私は何の罪を犯したのだろう。
――真実を言えない罪。沈黙の罪。生きている罪。
温室の扉が見えた、その時だった。
「こちらへ」
近衛の男が、温室ではなく、脇に伸びる細い通路を指した。
そこは植え込みが濃く、屋敷の裏手へ回り込む道。
人目が少ない。音も吸われる。
「……温室は、あちらですが」
ミナが反射的に言う。
男の微笑みが消えた。
「温室の裏側にも換気口がございます。近道です」
近道。
その言葉が、私の背中を冷たくした。
近道は、誰にも見られない。
誰にも見られない場所は、噂が最も好きな場所だ。
噂は見えないところで生まれ、見えるところで殺す。
私は足を止めた。
「奥様」
ミナが小さく呼ぶ。
その声が震えている。
私の指先も震えそうになり、手袋越しに爪を立てた。
近衛の男が一歩近づく。
距離が詰まる。
香りがないはずの男から、鉄の匂いがする。
「公爵夫人。お進みください」
それはお願いではない。
命令だ。
王宮の命令。逆らえば“自然に”消える命令。
私は、ほんの僅かに首を振った。
「……ここは、通りません」
その瞬間、空気が変わった。
二人の男の視線が冷たくなる。
礼儀が剥がれ、職務がむき出しになる。
「公爵夫人」
低い声。
近衛服の男が、私の腕に手を伸ばした。
触れられる。
その一瞬、身体が硬くなる。
私は悲鳴を上げなかった。上げられなかった。
公爵夫人は取り乱してはいけない。
取り乱した瞬間、噂が勝つ。
でも――ミナが叫んだ。
「やめてくださいっ!」
ミナが私の前に立つ。
その小さな背中が、盾のように震えている。
男はミナを払いのけた。
乱暴ではない。だが容赦がない。
“物をどかす”動き。
ミナがよろめき、私は咄嗟に手を伸ばした。
その瞬間、腕を掴まれた。
強い力。
革手袋の冷たさ。
痛い。
痛いのに、声が出ない。
「静かに」
男が耳元で囁く。
甘い囁きではない。
刃の囁き。
「抵抗すれば、侍女が怪我をする」
私は息を呑んだ。
ミナが床に膝をついている。
震えながら、私を見ている。
(やめて)
言えない。
声にすれば、彼らはもっと強くなる。
その時、もう一人の男が私の背後に回り、外套を被せるようにして視界を奪おうとした。
黒い布が目の前に迫る。
闇が落ちる。
――その瞬間、鋭い声が響いた。
「離せ」
低い。
冷たい。
怒りが削ぎ落とされた声。
アラン公爵。
私は布の隙間から、黒い影が迫るのを見た。
走る足音。剣の鞘が鳴る音。
そして、空気が裂けるような気配。
「公爵……!」
近衛の男が言いかけた瞬間、アランの拳が飛んだ。
次の瞬間、私を掴んでいた手が外れる。
体がふらつき、私は膝を折りかけた。
でも、倒れない。倒れたら噂が勝つ。
私は必死に踏ん張った。
アランは私の前に立った。
壁のように、影のように。
それでも触れない距離。
触れる余裕がない距離。
「近衛の名を騙るな」
アランの声が、低く響く。
彼の左手が一瞬だけ動きかけて止まる。
痛みを抑え、衝動を抑える癖。
男たちは剣を抜いた。
金属の音が、植え込みに吸われる。
(ここは死角だ)
ここは“近道”だ。
誰も見ていない。
だから、何でも起こせる。
アランは剣を抜かなかった。
抜けなかったのではない。
抜けば“公爵が近衛を斬った”という物語になる。
彼は物語を作らせないために、最短で終わらせようとする。
「奥様を渡せ」
男の声が荒くなる。
礼儀はもうない。
アランが一歩踏み出す。
肩の線が硬い。
戦場の線。
「俺の妻だ」
その一言が、胸に刺さった。
妻。
公の場で、誰の前ででもない場所で、彼が私を“妻”と呼んだ。
救いのはずなのに、痛い。
この状況で、こんな言葉を聞くなんて。
男が剣を振り上げる。
次の瞬間――アランが私を背後へ押しやった。
触れた。
ほんの一瞬、私の肩に彼の掌の熱が乗った。
その熱が、胸の奥まで落ちた。
「見るな」
アランの声が、私にだけ落ちる。
命令の形をした守り。
でも私は見てしまう。
剣が、アランの腕を掠めた。
赤い線が走る。
血が、黒い外套に滲む。
(血)
胸が詰まる。
アランは顔色ひとつ変えない。
変えないまま、相手の手首を掴み、捻り、剣を落とさせた。
金属が地面に落ちる音が、異様に大きい。
もう一人の男が背後から回り込む。
アランが振り返り、肘で防ぐ。
その動きが速すぎて、私は呼吸を忘れる。
「公爵夫人を――!」
叫び声。
そして、足音。
遠くから、別の足音が近づいてくる。
公爵邸の護衛――ガイの足音だ。
遅い。
でも、来た。
男たちは一瞬だけ目配せし、撤退するように植え込みの向こうへ走った。
逃げ道が用意されていた。
最初から“誘拐未遂”ではなく、“奪取”の計画だったのだ。
アランが追おうとした。
追うより先に、左手が押さえられる。
血が滴っている。
それでも追う気だ。
「公爵様!」
私が声を上げた。
自分でも驚くほどの声。
叫んだ瞬間、喉が痛い。
でも止めたかった。これ以上、彼が傷つくのが怖かった。
アランは一瞬だけこちらを振り向き、低く言った。
「……無事か」
それだけ。
優しさが痛いほど短い。
私は頷いた。
頷くしかない。
ガイが駆けつけ、状況を見て顔色を変えた。
「公爵様! 奥様!」
ガイが男たちの逃げた方を追うよう護衛に指示し、同時にミナを起こす。
ミナは震えながらも立ち上がり、私の手を握った。
その手が冷たい。
(私は……生きている)
生きているのに、心臓が痛い。
痛いのは恐怖ではない。
目の前で流れた血のせいだ。
アランは自分の腕の傷を見ない。
見てしまえば痛みが現実になるから。
現実になれば、泣いてしまうから。
彼は平然と外套を整え、私を見下ろした。
「……屋敷へ戻る」
命令。
いつもの命令。
でもその命令の下に、震えるほどの焦りがあるのが分かった。
守れなかったら、終わる。
彼はそういう目をしていた。
私は足が動かなかった。
「奥様、歩けますか」
ミナの声が震える。
私は頷こうとして、息を呑んだ。
アランの外套の袖から、血が滴っている。
ぽたり、ぽたりと地面に落ちる。
赤が、土に吸い込まれていく。
(私のせいで)
その言葉が、胸の奥で形になる。
妾の噂のせいで。
監視のせいで。
沈黙のせいで。
真実を言えないせいで。
“私のせいで、この人は傷つく”。
その事実が、初めて現実になった。
私は震える声で言った。
「……ごめんなさい」
アランの目が、ほんの僅かに揺れる。
怒りではない。
苦しみの揺れ。
「謝るな」
短い言葉。
それだけで終わらせたいという壁。
でも、その壁の向こうに、痛みがある。
「……帰るぞ」
彼は私に手を差し出さない。
抱きしめない。
それでも、私の前に立ち続ける。
影の盾として。
屋敷へ戻る途中、すでに噂は走っていた。
使用人の目が揺れる。
護衛が増える。
門が閉まる。
邸内が騒然とする。
そしてその騒然の中心で、女たちは囁く。
「やっぱり妾だから狙われたのよ」
「王宮が“回収”しようとしたんじゃない?」
「近衛服だったって? ……まあ、やっぱりね」
“やっぱりね”。
その言葉が、私の胸を抉る。
アランは医務室へ向かう途中も、表情を変えなかった。
血を流しながら、平然を装う。
泣けない公爵。
泣いたら、噂に負けるから。
泣いたら、彼女がもっと危険になるから。
私はその背中を見て、初めて気づく。
守られるということは、誰かを傷つけることなのだと。
そして私の沈黙は、その傷を増やしているのだと。
噂は、この夜さらに悪化する。
――妾は狙われる。
――公爵は血を流しても、妻に触れない。
――だから真実だ。
真実ではないのに。
真実を言えない私が、真実を作ってしまう。
私は青石の指輪を握りしめ、唇を噛んだ。
(もう、これ以上……)
そう思った瞬間、私は知る。
もう、“噂”だけでは終わらない。
命が動き、血が流れ、真実が封印を破ろうとしている。
そして、その真実の前で――
アラン公爵は、さらに傷つくことになる。
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