王の影姫は真実を言えない

柴田はつみ

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第38章|最後の毒

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その茶会の招待状は、薄い薔薇色だった。

上質紙に浮かぶ金の縁取り。
香水の匂いが紙にまで染みついている。
触れただけで、甘い香りが指先に残る気がした。

――香り。

その単語だけで喉の奥が反射的に縮む。
“針”が、まだ身体のどこかに残っているような気がするから。

ミナが震える声で言った。

「奥様、断りましょう。もう……」

断れば「妾だから逃げた」。
出れば「妾だから呼ばれた」。

逃げ道はない。
でも今回は違う。
今回は、守るために“行く”。

机の上に、エレナが静かに小瓶を置いた。
透明な液体。匂いはない。
医師の手が作る“現実”。

「奥様。これを、杯の縁に一滴」

「……何ですか」

「反応薬です。毒が混じれば、わずかに色が変わります」

色が変わる。
目に見える形になる。

噂は見えない。
毒も、普段は見えない。
だから人は、見えないものに殺される。

エレナは淡々と続けた。

「今回、相手は“決着”を取りに来ます。微量ではありません」

決着。

その言葉に、胸が冷たくなる。

アランは部屋の隅で、黙って聞いていた。
相変わらず表情は動かない。
でも左手が時折、僅かに押さえられる。
怒りを抑える癖。
守れない恐怖を抑える癖。

夜から、彼は少しだけ変わった。
冷たさの理由が変わったのだ。

嫉妬ではない。
絶望だ。

「……行くな」

言いそうな顔をして、言わない。
言えば、また私の心が死ぬと分かっている。

だから彼は、命令の形で守る。

「ガイを付ける」

短い声。
私を“守るための命令”。

エレナが頷く。

「会場に入れる護衛は限られます。ですが、私は“侍医”として同席できます」

侍医。
王宮の肩書。
それが今は盾になる。

盾。
私はまた盾に守られる。
盾でしか生きられない。

私は招待状を握りしめ、静かに言った。

「終わらせましょう」

ミナが息を呑む。
アランの目が、ほんの僅かに揺れる。
“終わらせる”という言葉が、ここまで重いのだと知った。



茶会は、伯爵家のサロンで開かれた。

白い百合、淡い薔薇、香草の束。
香りが重なって、空気が甘い。
甘いのに、胃が冷える。

客たちの笑い声が高い。
高い笑いは、獲物を囲う時の音に似ている。

私は“公爵夫人の顔”で入室した。
背筋を伸ばし、歩幅を揃え、視線を下げすぎない。

でも、視線は刺さる。

「まあ……来たのね」
「今度は倒れないかしら」
「公爵様は一緒じゃないの?」
「そりゃ……恥を広げるだけだものね」

第29章の言葉が、別の口で蘇る。
他人の口は、簡単に夫の言葉を奪う。

胸の奥が痛い。
でも痛いだけで、泣けない。

そして――彼女がいた。

伯爵令嬢クラリス。

薔薇色のドレス。
蜂蜜みたいな瞳。
微笑みだけが完璧で、目が笑っていない。

「ごきげんよう、公爵夫人」

優しい声。
優しい声ほど、冷たい刃になる。

「今日はお加減がよろしいようで、安心しましたわ」

安心。
その単語に、私は微笑めなかった。
安心など、この場にない。

クラリスは扇の影で囁く。

「ねえ、今日で“噂”は終わると思いません?」

終わる。
その言い方が、まるで“死ぬ”と同義に聞こえる。

私は静かに返した。

「終わらせるのは……噂ではなく、あなたの遊びですわ」

クラリスの瞳が、一瞬だけ細くなる。

「まあ。強いのね」

強いふりをしているだけ。
守られるために。
壊れないために。

茶が運ばれてきた。

琥珀色。
湯気。
そして――甘く濃い香り。

〔伏線E:香るお茶〕

喉が反射的に縮む。
体が覚えている。
あの針の痛みを。

エレナが私の隣に座り、白い手袋のまま杯を受け取った。
視線だけで合図する。

――今。

私は指輪の下に隠した小瓶を、膝の上でそっと傾ける。
杯の縁に、一滴。

誰にも見えない動き。
でも、私の心臓は暴れていた。

(お願い)

(色が変わって)

(変わらないで)

矛盾した祈り。

エレナが杯をわずかに回し、縁の光を見た。
その瞳が、ほんの僅かに硬くなる。

「……出ました」

小さな声。
けれど私には雷鳴みたいに聞こえた。

出た。
毒が。

縁の一部が、薄く、青みを帯びている。
ほとんど分からない程度の変化。
でも、確かに“針”がそこにいる。

私は息を止めた。

(やっぱり)

クラリスは微笑んでいる。
微笑んだまま、私の杯を見ている。

「さあ、公爵夫人。冷めてしまいますわ」

優しいふり。
殺すふり。

私は杯を持ち上げた。
飲まない。
でも飲まないと、噂はまた別の形で生きる。

――妾は罪があるから飲めない。
――公爵夫人は、王のものだから毒に怯える。

噂は、飲んでも飲まなくても生まれる。
なら、今日だけは“証拠”を生む。

私は微笑みの代わりに、静かに言った。

「……クラリス様。香りが少し強いようですわ」

クラリスの眉が、一瞬だけ動いた。

「まあ。繊細なのね」

「繊細で結構です。私は、二度と倒れたくありませんから」

その言葉で、周囲の貴婦人たちがざわめく。
ざわめきは噂になる。
でも今は、ざわめきが味方になる。

エレナが立ち上がった。
侍医としての所作。
礼儀正しく、逃げ道のない動き。

「恐れ入ります。公爵夫人の体調管理のため、茶葉と香料の確認をいたします」

クラリスの笑みが固まる。

「……失礼では?」

「失礼より、命が優先です」

エレナの声は静かだが、刃のように真っ直ぐ。

その瞬間、クラリスがふっと笑った。

「大げさね。毒だなんて」

その笑い声が、白いサロンに滑る。
滑って、底で止まる。

「毒があるなら、誰が何のために?」

彼女の問いは、あまりにも自然だ。
自然すぎて、逆に不自然。

私は杯を置き、指輪を握りしめた。
青石が冷たい。
でも今は、その冷たさが私を強くする。

「……あなたのために」

私は言った。
震える声で。
でも、言った。

クラリスの目が、冷たく光った。

「私のため?」

「私を“妾”にして、追い出すため」

言葉にした瞬間、喉が痛い。
痛いのに、止められない。
私の沈黙が、夫に血を流させた。
もう沈黙だけで守るのは終わりにしたい。

クラリスが、扇を閉じた。
その音が、乾いた。

「……証拠は?」

証拠。

その言葉を待っていた。

エレナが、杯の縁を示し、反応の色を皆に見せた。
わずかな青。
でも、医師が“毒”と言えばそれは毒になる。

「検査します。茶葉も香料も、器も」

クラリスは笑う。
でもその笑いは、もう甘くない。

「勝手になさい」

そして、次の瞬間――
彼女が私の杯を取ろうとした。

奪うためではない。
“飲ませる”ためだ。

私は反射的に立ち上がった。
椅子が擦れる音。

周囲が息を呑む。

クラリスの指先が、私の手袋に触れた瞬間、
私ははっきり確信した。

――これは最後の毒だ。

ここで倒れれば、私は“自然に”死ぬ。
噂は完成する。
公爵は哀れなまま終わる。

「離して」

私の声は、思ったより冷たかった。
冷たい声は、守るための声だ。
アランがいつもそうするように。

クラリスの目が細くなる。

「あなた、まだ分からないの? 噂はね、勝った方が真実になるの」

その言葉に、背筋が凍る。

その瞬間――サロンの扉が開いた。

空気が一段冷える。

アラン公爵が入ってきた。

誰もが息を止める。
“公爵が来た”だけで、噂の風向きが変わる。

アランは私の隣に来ない。
――一歩手前で止まり、低く言った。

「手を離せ」

クラリスが笑う。

「まあ、公爵様。来てくださったの?」

その声に甘さが戻る。
相手を取り込もうとする声。

アランは笑わない。

「毒を盛ったのか」

その問いに、サロンが凍る。

クラリスの瞳が一瞬だけ揺れた。
そしてすぐに笑う。

「そんなはずないわ。公爵様、噂に踊らされているのはあなたよ」

噂。
踊らされる。
その言葉は、私たちがずっと浴びてきた刃だ。

でも今日は違う。
今日は証拠がある。

エレナが淡々と告げた。

「毒の反応が出ています。検査結果が揃えば、あなたは逃げられません」

逃げられない。

その言葉で、クラリスの顔から微笑みが消えた。
美しい仮面が剥がれる瞬間は、残酷なほど静かだった。

私は息を吐いた。
胸の奥が震える。

(終わる)

終わるのは、茶会ではない。
“妾の噂”という長い毒だ。

でも同時に思う。

(終わらせるために、私はどれだけ血を見た?)

アランの傷。
ミナの震え。
私の沈黙。
国王の飲み込んだ言葉。

すべてが、この杯の縁の青に繋がっている。

私は青石の指輪を握りしめ、静かに立っていた。

――最後の毒は、見抜かれた。

あとは、証拠を揃えるだけ。
そして、噂を作ってきた者たちに、真実の刃を返すだけ。
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