王の影姫は真実を言えない

柴田はつみ

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第40章|あなたに似合わない私、ではなく

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夜は、ようやく静かだった。

王宮の発表が終わり、噂の舌が凍りついた日。
屋敷へ戻る馬車の中で、アランはずっと私の手を離さなかった。
握りしめるほど強くはない。けれど、確かに離さない。

その温度が、怖かった。

温かいものは信じたくなる。
信じた瞬間、また奪われる気がする。
私はずっと、奪われる前提で生きてきた。

公爵邸に着くと、使用人たちが深く礼をし、言葉を飲み込んだ。
“妾”という単語が、今日から禁句になる。
禁句になっただけで、傷が消えるわけではないのに。

アランは私を自室へ送る――かと思った。
いつものように、扉の前で止まり、命令だけ落として去るのだと思った。

でも、その夜は違った。

「……今夜は」

アランが低く言い、廊下の突き当たりではなく、私の寝室の扉の前で足を止めた。

「話をする」

心臓が跳ねた。

話。
私たちは今まで、ほとんど話をしてこなかった。
言葉を交わすたびに誤解が増え、沈黙でしか守れない夜が続いた。

「……はい」

返事が小さくなる。
声を大きくすると、泣いてしまいそうだった。

扉が開く。
中は、いつもと同じ私の部屋。
いつもと同じ灯り。
でも、空気だけが違った。

“別々の寝所”という当たり前が、今夜は揺れている。

ミナが控えめに入ってきて、視線を落としたまま言った。

「お飲み物を……」

「いらない」

私が答えた。
香りが怖いから。
毒が怖いから――ではない。
今夜は、余計なものがあると心が逃げる気がした。

ミナが一礼し、扉を閉める。
鍵は掛けない。
掛ける必要がないほど、今夜の部屋は“二人の牢”だ。

沈黙。

沈黙が、久しぶりに私たちの間に落ちた。
でも、いつもの沈黙とは違う。
いつもの沈黙は逃げ道だった。
今夜の沈黙は、真実へ向かう道だ。

アランは窓際に立つ。
雨は降っていない。
それでも彼は、窓の外を見ている。
闇の中に敵がいるか確かめる癖。
守るための癖。

そして――左手を、僅かに押さえる癖。

私はその手を見て、喉が痛くなった。
その傷は王命に逆らえなかった罰。
守れなかった過去。
そして、私を守るために増えた痛み。

(私のせいで、この人は)

血が蘇る。
私は息を整え、決めた。

今夜、言う。
全部は言えなくても、私の言える範囲の真実を。
それが“妻”としての最後の仕事だ。

私はゆっくり口を開いた。

「……公爵様」

声が震える。
震えを押さえられない。

アランは振り向かない。
振り向いたら、壊れてしまうのだろう。
私が。あるいは彼が。

それでも、低い声で答えた。

「……何だ」

短い答え。
それだけで終わらせたいという壁。
でも今夜は、壁を越える。

私は椅子の背を掴み、喉の奥の鎖を引きちぎるように言った。

「私は、国王陛下の妾ではありません」

言った瞬間、胸が痛い。
痛いのに、少しだけ呼吸ができた。
言えなかった言葉が、ようやく外へ出た。

アランの背が僅かに強張る。
でも振り向かない。
振り向かない代わりに、左手が強く押さえられる。

私は続けた。

「国王陛下は……私を“守るために”、噂を止めなかったのです」

喉が震える。
涙が出ない目が、熱い。

「妾の噂が盾になると……そう教えられました。
 真実を言えば、誰かが死ぬと」

ロザの言葉。
宰相の条件。
マルタの告白。
全部が一本の線になる。

私は息を吸い、最後の核心を言った。

「私は……国王陛下の異母妹です」

言ってしまった。
この言葉を言うのに、私はどれだけの夜を殺したのだろう。

部屋の空気が凍った。

アランが、ゆっくり振り向いた。

その瞳には、怒りも嫉妬もなかった。
あったのは――痛みと、深い悔いと、理解。

そして、何よりも。
“守れなかった”という顔。

私は震える声で言った。

「だから、言えませんでした。あなたに。
 言えば、あなたが巻き込まれる。あなたが死ぬかもしれない」

言葉にした瞬間、涙が出そうになって、でも出ない。
泣けない私が、口だけで泣いている。

「私は、あなたを傷つけたくなかった。
 あなたが“気の毒”と言われ続けるのが嫌だった。
 それなのに……」

喉が詰まる。
言葉が蘇る。

――恥を広げるだけだ。

私は息を震わせたまま、言った。

「あなたに似合わない私だと……ずっと思っていました」

告白は、刃になる。
自分の胸に刺さる刃。

「私がいなければ、あなたは傷つかない。
 あなたの名も汚れない。
 あなたは、もっと――」

言いかけた瞬間、アランが一歩踏み出した。

近い。
その距離に、私は反射的に肩をすぼめそうになる。
触れられない距離に慣れすぎていた。

でも、逃げられなかった。

アランの手が伸び、私の顎の高さで止まる。
触れたいのに触れない――いつもの癖。
その癖が、今夜は破られた。

彼の指が、私の頬に触れた。

温かい。

触れられた瞬間、私は息を呑んだ。
温かさが怖い。
温かさが、涙を呼ぶ。

アランは低く言った。

「……お前は、俺に似合わないんじゃない」

声が僅かに震えている。
泣けない人の震え。

「俺が、お前に似合わなかった」

その言葉で、胸の奥が崩れた。

私は首を振ろうとした。
違う、と言おうとした。
でも声が出ない。

アランは自分の左手を見た。
古傷の痕。
そこに指先を当てる。

そして、ゆっくり言った。

「あの日から、守ると決めていた」

あの日。

王命に逆らえなかった日。
守れなかった日。
その罰の痕が残った日。

「守れなかった過去を……二度と繰り返さないために」

私は喉が震え、言葉が落ちた。

「……では、どうして」

どうして触れなかったの。
どうして眠らなかったの。
どうして冷たかったの。

全部、言えないままの“どうして”。

アランの瞳が細くなる。
痛そうに。
それは、答えを持っている人の顔だ。

「触れたら、奪われると思った」

短い答え。
でもその短さに、何年分もの恐怖が詰まっている。

「王宮に。噂に。宰相に。……俺自身に」

俺自身に。
その言葉で、私は理解する。

彼は嫉妬していた。
でも嫉妬の正体は“恋敵”ではなく、
“王宮に妻を握られる屈辱”と“奪われる恐怖”だった。

「それでも今日――」

アランが、私の手を取った。
王宮で取った時より強く。
でも痛くない強さで。

「離さない」

その一言が、私の胸の奥の鎖を少しだけ緩めた。

私はやっと、泣けた。

声を上げて泣くのではない。
静かに、頬を濡らす涙。
泣き方を取り戻す涙。

「……ごめんなさい」

小さく呟くと、アランが首を振った。

「謝るな」

いつもと同じ言葉。
でも今夜のそれは、壁ではなく抱擁の入口だった。

アランは私を抱きしめた。

国王の抱擁とは違う。
守るための抱擁ではない。
奪うためでもない。
ただ、妻として抱きしめる抱擁。

私はその胸に額を押し当て、呼吸をした。
やっと、息ができた。

「……あなたは、私を恥だと思ったのでは」

私が震える声で言うと、アランの腕が僅かに強くなる。

「恥だと思ったのは――俺の無力だ」

低い声。
泣けない人の告白。

「守るために、突き放すしかなかった。
 だが突き放した分だけ、お前の心が死んでいくのを見ていた」

私は息を呑んだ。

見ていた。
見ていたのに、止められなかった。

「……今さら、優しくできないと言った」

アランが苦しそうに続ける。

「違う。優しくしたかった。
 でも優しくすれば、王宮に隙を見せる。
 隙を見せれば、お前が消える」

消える。
その言葉の重さが、今夜は違って聞こえた。
怖いのに、もう逃げない。

私は胸の奥で、静かに決める。

(もう、逃げない)

(沈黙だけで生きない)

アランの腕の中で、私は頷いた。

「……私、あなたの妻でいていいですか」

今さらなのに、今だから聞ける問い。

アランの声が、耳元で落ちた。

「俺の唯一の妻だ」

その言葉で、私は泣いた。
泣けない私が、ようやく泣けた。

夜は静かだった。
噂が静かになった夜。
王宮の命令が届かない夜。
二人の心だけが、ようやく同じ場所に戻る夜。

アランは私の手を取り、寝台へ導いた。
別々の夜具ではない。
同じ寝所。

私は怖かった。
でも怖さより、温かさの方が勝った。

寝台の端で、私は最後に言った。

「……あなたに似合わない私、ではなく」

喉が震える。
でも、言えた。

「あなたが、私を選んでくれた私――になりたい」

アランが、私の頬に触れた。
指先が優しい。

「なれる」

短い答え。
今度は壁ではない。

「俺が、そうする」

蝋燭の火が揺れ、影が重なる。
その影はもう、孤独の影ではなかった。

――“汚名の花嫁”ではなく、
“公爵の唯一の妻”として。

ようやく私は、同じ夜の中で、安心して目を閉じることができた。
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