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第1話 あなたは妃になれません
しおりを挟む「あなたは妃になれません」
その言葉は、あまりにも静かに告げられた。
怒鳴られたわけではない。
責め立てられたわけでもない。
けれど、リシェル・フォン・アルヴェーンの胸を切り裂くには、それで十分だった。
王妃マティルダは、いつもと変わらぬ優雅な声音で言っただけだった。
昼下がりの陽射しが大きな窓から差し込み、磨かれた床の上に淡い光を落としている。王宮の私室は美しく整えられ、白い薔薇が活けられた花瓶からは、かすかに甘い香りが漂っていた。
なのに、リシェルには寒かった。
指先が冷たい。
喉の奥がひどく乾く。
それなのに、顔だけはうまく平静を装ってしまいそうで、自分でも嫌になる。
膝の前で重ねた手は白く、細い。俯いた拍子に、淡い栗色の髪が頬にかかった。強い光を跳ね返すような華やかな色ではない。やわらかく落ちるその髪も、白い肌も、榛色の瞳も、どこまでも静かで控えめだ。昔から、リシェルはそういう娘だった。
目を奪うような美しさではなく、気づく人だけが気づくような、ひっそりとした佇まい。
「……お言葉の意味を、伺ってもよろしいでしょうか」
震えないよう気をつけた声は、思ったよりも静かに出た。
王妃は椅子に腰かけたまま、まっすぐリシェルを見つめている。
冷たい目ではなかった。
怒っているわけでもない。
ただ、決定を告げる者の目だった。
「そのままの意味です。あなたは王太子妃には向きません」
「……妃教育は、まだ」
「本日をもって終了です」
言葉が、足元から順番に世界を壊していく。
本日をもって終了。
つまり、落第。
幼い頃から受けてきた妃教育が。
王太子妃候補として積み重ねてきた時間が。
ゆっくりと、丁寧に、でも容赦なく切り捨てられていく。
リシェルは爪が掌に食い込むのを感じた。
痛みがなければ、今ここに立っていることすら曖昧になりそうだった。
「わたくしは……何か、大きな失敗をいたしましたか」
自分でも驚くほど、その問いは幼かった。
責めたいわけではない。
ただ知りたかったのだ。
何を間違えたのか。
どこが足りなかったのか。
何年もかけて身につけてきたものが、たった今、無価値にされた理由を。
王妃は少しだけ目を伏せた。
「あなたは真面目です」
「……はい」
「礼儀も、教養も、努力も申し分ありません」
「でしたら、なぜ」
「華がありません」
その一言で、呼吸が止まった。
華が、ない。
わかっていた。
ずっとわかっていたことだった。
リシェルは大人しい。
人前で機転の利いた会話を返すのは得意ではない。
華やかな笑顔で場の中心に立つこともできない。
誰とでもすぐ打ち解け、軽やかに笑い合えるような娘ではない。
けれど、それでもと思っていた。
慎み深さも、誠実さも、妃に必要なもののはずだと。
派手ではなくても、支える力なら身につけられると。
そう信じて、ここまで来たのに。
「王太子妃に必要なのは、正しさだけではありません」
王妃の声は穏やかだった。
「人を惹きつける華やかさ。社交の場を明るくする会話。王家の象徴として立てる気配。あなたは悪くないのです。ただ、足りないのです」
悪くない。
ただ、足りない。
その慰めのような言葉が、かえって残酷だった。
叱られたほうがまだよかった。
怠けていたと言われたほうが、まだ救いがあった。
努力が足りなかったのなら、もっと頑張れたかもしれない。
でも違う。
頑張っても届かない場所があると、今ここで告げられている。
「……そう、ですか」
それしか言えなかった。
王妃の視線が、ほんのわずかに和らぐ。
哀れまれているのかもしれない、とリシェルは思った。
それがたまらなく苦しかった。
「今後については、こちらで整えます」
「今後」
「あなたには、これまで通り静かに過ごしていただきます。軽々しく噂を広げる者がいては、王家の体面にも関わりますから」
「……かしこまりました」
王家の体面。
その言葉に、胸の奥がすうっと冷えていく。
ああ、自分はそこなのだ、と思った。
悲しんでもいい一人の娘ではなく、王家の都合の中で静かに片づけられる候補者のひとり。
最初からそうだったのだろう。
わかっていたつもりだったのに、こうして切られる瞬間は、やはり痛い。
「下がりなさい、リシェル」
王妃の言葉に、リシェルは規定通り一礼した。
「……はい、王妃殿下」
足がふわふわする。
ちゃんと歩けているのか、自分でもわからない。
ただ、転ばないことだけを考えて扉へ向かう。
扉に手をかけた、その時だった。
「リシェル」
王妃に呼び止められ、彼女は振り返った。
「あなたは優しい子です。ですが、王宮では優しいだけでは足りません」
優しいだけでは足りない。
最後のその言葉が、胸の一番柔らかいところに深く沈んだ。
「……お心に留めます」
それが精一杯だった。
部屋を出た瞬間、廊下の空気がひどく冷たく感じた。
高い窓から差し込む光も、白い石壁も、いつもと何も変わらない。
変わってしまったのは自分だけだった。
あなたは妃になれません。
その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
妃になれない。
妃教育は終わり。
ここまでの年月は、届かなかった。
廊下の途中で足が止まりそうになる。
けれど止まってはいけない。
泣いてもいけない。
誰に見られるかわからない場所で、みっともなく崩れるわけにはいかなかった。
「お嬢様!」
角を曲がったところで、侍女のミラが駆け寄ってきた。
控えめな足音だったのに、今のリシェルにはひどく大きく聞こえる。
「ミラ……」
「王妃殿下にお呼び出しと聞いて……お顔が真っ青です。何を、言われたのですか」
言葉にしようとした瞬間、喉が詰まった。
言ってしまえば、本当に現実になる。
まだどこかで夢のように思っていたかったのに。
けれど、ミラの顔を見た途端、張りつめていたものが少しだけ緩む。
「……わたくし、」
声がかすれた。
「妃になれないのですって」
ミラの顔色が変わる。
「そんな……」
「妃教育も、今日で終わりだと」
「お嬢様、それは――」
「華が、ないのだそうよ」
自分で言って、自分で傷ついた。
ミラは何か言い返そうとして、でも言葉を失った。
侍女の立場で王妃の判断を否定できないことを、彼女自身がよくわかっているからだ。
その沈黙が、ひどく優しかった。
「……少しだけ、一人になりたいわ」
「ですが」
「大丈夫。少しだけだから」
「……では、せめて中庭までお送りいたします」
リシェルは頷いた。
中庭へ続く回廊を歩く間、二人とも黙っていた。
窓の向こうには、春を待つ庭が広がっている。まだ花は少なく、枝先にやわらかな芽が見えるだけだ。
何もかもが、始まる前の静けさの中にある。
けれど自分だけは、もう終わってしまったような気がした。
中庭の白い石のベンチに座ると、ようやく息がつけた。
空は淡く晴れていて、噴水の水音だけが静かに響いている。
「お嬢様、お茶をお持ちします」
「ありがとう、でも今はいいの」
「……承知しました。少し離れたところにおります」
ミラが下がる。
一人になると、急に世界の音が遠くなった。
妃になれない。
その事実は、王太子妃になれないというだけではない。
幼い頃から胸の奥で大事にしてきた想いまで、否定された気がした。
アシュレイ殿下。
その名を心の中で呼ぶだけで、胸が痛む。
幼い日に優しくしてくれた人。
無理に笑わなくていいと言ってくれた人。
冷たく見えるのに、誰よりも静かに気遣ってくれる人。
ずっと、好きだった。
王太子妃候補になれた時、ほんの少しだけ夢を見た。
隣に立てる未来が、あるかもしれないと。
でも、終わったのだ。
王妃が否定した以上、もう何もかも終わりだ。
あの人の隣に立つ資格は、もうない。
そう思った時、不意に脳裏へ浮かんだのは、別の娘の姿だった。
セレフィーナ・ド・ヴァルティエ。
公爵令嬢であり、社交界で花と呼ばれる娘。
陽光を受けて輝く蜂蜜色の髪はゆるやかに波打ち、長い睫毛に縁取られた青緑の瞳は、誰を見ても親しげに微笑む。薔薇の花弁のような唇が開けば、場は自然と明るくなり、彼女が立つだけでそこが中心になる。
華やかで、愛らしく、軽やかで、誰もが目を留める美しさ。
王妃が望む妃とは、きっとああいう娘なのだろう。
自分とは違う。
あまりにも、違いすぎた。
「……何をしている」
低い声がして、リシェルははっと顔を上げた。
中庭の入口に、アシュレイが立っていた。
夕暮れ前の淡い光の中でも、その姿は目を引いた。
銀をひとしずく混ぜたような淡い金髪。冷たく澄んだ灰青の瞳。すらりと高い背に、王族らしい隙のない立ち姿。整いすぎた顔立ちは無表情でいるだけで近寄りがたく、何も言わずそこにいるだけで空気が張りつめる。
けれどリシェルは知っている。その冷ややかな美貌の奥に、ひどく不器用な優しさが隠れていることを。
どうして、ここに。
その問いを口にする前に、アシュレイは数歩こちらへ近づいた。
いつも通り、無駄のない足取り。
けれど、その表情はいつもより少し険しい。
「顔色が悪い」
「……殿下」
「王妃殿下に呼ばれていただろう」
「はい」
「何を言われた」
いつものアシュレイなら、こんなふうに踏み込んで尋ねたりはしない。
だからこそ、胸が苦しくなる。
今さら、優しくしないでほしい。
今さら気にかけないでほしい。
そんなことを思う自分がみじめで、リシェルは膝の上で指を握りしめた。
「大したことではございません」
「リシェル」
「大丈夫です」
顔を上げられなかった。
もし目が合ったら、泣いてしまいそうだったから。
沈黙が落ちる。
やがて、アシュレイの声が低く響いた。
「大丈夫な顔ではない」
その一言で、喉の奥が熱くなった。
どうして。
どうしてそんなふうに言うの。
あなたがそんな声を出すなら、期待してしまう。
もう終わったのに。
リシェルは俯いたまま、かすれる声で言った。
「……妃になれないそうです」
「何?」
「王妃殿下が。わたくしには華がないから、王太子妃には向かないと」
言い切った瞬間、胸の奥がずきりと痛んだ。
けれど不思議と、口にしてしまったほうが少しだけ楽だった。
しばらく返事がない。
怖くなって顔を上げると、アシュレイは今まで見たことがないほど険しい顔をしていた。
「……誰が、そんなことを」
「王妃殿下です」
「母上が」
「はい」
アシュレイの手が、ぎゅっと握られる。
その横顔は冷えているのに、目の奥だけがひどく熱を帯びて見えた。
リシェルは小さく首を振る。
「どうか、殿下はお気になさらないでください」
「気にするなと?」
「わたくしが足りなかっただけです」
「そんなことがあるか」
その声の強さに、リシェルは目を見開いた。
アシュレイが、感情を露わにすることなどほとんどない。
ましてや、こうして誰かの言葉を真っ向から否定するなんて。
胸が、痛いほど鳴る。
でもだめだ、と思った。
ここで期待してはいけない。
王妃が否定したのだ。
王太子である彼が、母に逆らってまで自分を選ぶはずがない。
そう思うのに。
アシュレイはリシェルの前まで来ると、低く、はっきりと言った。
「それは、俺が決めることだ」
息が止まる。
「殿下……?」
「誰が、お前を妃にしないと言った」
風が、止まった気がした。
噴水の音も、遠くの鳥の声も、何もかも消えたように感じる。
ただ、目の前の人の言葉だけが、胸の奥に落ちていく。
誰が、お前を妃にしないと言った。
その意味を、すぐには理解できなかった。
理解したくて、でも怖くて、リシェルはただ彼を見上げることしかできない。
灰青の瞳はまっすぐで、揺らがなかった。冷たく見えるその顔立ちに、今ははっきりとした怒りと意志が宿っている。あまりにも整ったその横顔は、普段なら遠い王族のものにしか見えないのに、この瞬間だけは、ひどく近く感じた。
「……それは、どういう……」
「明日、話す」
短く言い切ると、アシュレイは視線を逸らさなかった。
「今はそれだけ覚えていろ。お前が切り捨てられていいはずがない」
そう言い残して、彼は踵を返す。
止めることも、呼ぶこともできなかった。
ただ呆然と、その背を見送る。
長い脚で迷いなく去っていくその姿は、やはり誰よりも目を引いた。王族の威厳を隠しようもなくまといながら、それでも今は、王太子としてではなく一人の男として怒っていた気がした。
心臓が、さっきよりずっと苦しい。
傷ついたままの胸に、今度は別の痛みが流れ込んできたからだ。
希望に似たもの。
けれど、それはまだあまりにも不確かで、触れれば壊れそうだった。
妃になれません。
そう告げられた直後に、
誰が、お前を妃にしないと言った。
そんな言葉を残していくなんて。
ずるい、とリシェルは思った。
そんな言葉を言われてしまったら。
終わったはずの夢を、もう一度だけ見てしまうではないか。
春の浅い風が、庭を渡る。
まだ花の少ない枝先が、かすかに揺れた。
その時、回廊の向こうで女官たちの小さな声が聞こえた。
――王妃殿下は、やはりヴァルティエ公爵令嬢を。
――ええ、あの方こそ華がありますもの。
――今夜のお茶会にもお呼びになるとか。
胸が、また冷える。
セレフィーナ。
あの娘が王妃の隣に立つ姿は、きっと誰の目にもふさわしく映るのだろう。
そして明日、アシュレイが言う話が、どれほど残酷な現実を突きつけるものなのか、今のリシェルにはまだわからない。
ただ一つだけわかるのは、
明日になれば、もう後戻りはできないということだった。
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