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第2話 王太子は諦めない
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翌朝、目が覚めた瞬間から、胸の奥が重かった。
窓の向こうはよく晴れていた。薄い雲が流れ、やわらかな朝の光がカーテン越しに差し込んでいる。春は確かに近づいているのに、リシェルの心だけが昨日のまま冷えきっていた。
あなたは妃になれません。
目を閉じても、その声が蘇る。
優雅で、穏やかで、決して乱れない王妃の声音。怒りではなく、決定として告げられた言葉だったからこそ、なおさら逃げ場がなかった。
ベッドの上で身を起こし、リシェルは膝の上で手を重ねた。細い指先は朝だというのにまだ冷たい。
そして、もう一つ。
誰が、お前を妃にしないと言った。
昨夜のアシュレイの言葉もまた、何度も胸の中で繰り返されていた。
思い出すだけで息が苦しくなる。
あんなふうに真っすぐ言われたことはなかった。いつも静かで、感情を表に出さない人だったからこそ、あの短い言葉の強さが忘れられない。
けれど、彼は優しいからあんな事言ったのだと。
王妃が否定したのだ。
優しい彼が、母に逆らうはずがない。
きっと昨夜は、衝動的にそう言っただけなのだ。傷ついた幼なじみを前にして、放っておけなかっただけ。
そう言い聞かせなければ、期待してしまう。
「お嬢様、お目覚めでございますか」
扉の向こうから、ミラの声がした。
「ええ、起きているわ」
「失礼いたします」
侍女はいつも通り静かに入ってくる。だが、リシェルの顔を見た途端、その表情が少しだけ曇った。
「……あまり、お休みになれませんでしたね」
「顔に出ている?」
「少しだけ」
「困ったわ」
「困ったのはこちらです。今日は誰に見られるかわからないのですから」
そう言いながらも、ミラの手つきは優しかった。カーテンを開け、洗面の支度を整え、朝のドレスを選ぶ。淡い藤色の室内着から、控えめな青灰色のドレスに着替えさせられながら、リシェルは鏡の中の自分を見た。
淡い栗色の髪。白い肌。静かな榛色の瞳。
昨日王妃に言われた通り、やはり華やかではないと思う。
セレフィーナのように、ただ立っているだけで場を明るくする美しさではない。
そう思った瞬間、自分で自分を傷つけているようで、リシェルはそっと目を伏せた。
「お嬢様」
ミラが髪を整えながら、鏡越しにこちらを見る。
「本日のご予定ですが、朝食のあと、王妃殿下付きの女官がいらっしゃるそうです」
「……そう」
やはり来るのだ。
昨日、王妃は今後については、こちらで整えると言った。
その今後が今日から始まる。
「お嬢様」
「なに?」
「何を言われても、どうかお一人で抱え込まれませんよう」
「……できるだけ、そうするわ」
「できるだけではなく、必ずです」
「ミラ」
「はい」
「あなた、最近少し強くなったわね」
「お嬢様が弱っていらっしゃるからです」
思わず、少しだけ笑ってしまった。
笑えるうちは、まだ大丈夫なのかもしれない。
朝食の席にアシュレイはいなかった。
もともと毎朝必ず顔を合わせる間柄ではない。王族と妃候補、同じ王宮に暮らしていても、会う機会は限られている。けれど昨夜のあとでは、彼の姿がないだけで妙に胸がざわついた。
来ないほうがいい、とも思う。
顔を見たら、昨夜の言葉をまた思い出してしまうから。
なのに、どこかで探してしまう自分がいた。
食事を終えて自室へ戻る途中、回廊の先が不自然に騒がしいことに気づいた。女官たちの声。侍従の慌ただしい足音。いつもは静かな午前の王宮には似つかわしくないざわめきだった。
「何かあったのかしら」
「少し様子を見てまいります」
ミラが一歩前へ出ようとした、その時だった。
向こうの角から、鮮やかな笑い声が聞こえた。
「まあ、本当に素敵ですわ、王妃殿下」
その声だけで誰かわかる。
セレフィーナ・ド・ヴァルティエだ。
思わず足が止まった。
磨き上げられた廊下の向こうから、数人の女官を従えて現れた彼女は、朝の光の中でもひどく華やかだった。蜂蜜色の髪はやわらかく波打ち、青緑の瞳は楽しげに輝いている。淡い薔薇色のドレスは上品なのに人目を引き、歩くたび、裾に施された繊細な刺繍がきらりと光った。
隣を歩く王妃もまた美しい。
その横に立っても見劣りせず、むしろ場を明るく見せるのだから、やはりセレフィーナは選ばれる側の娘なのだと思い知らされる。
女官の一人が、声を潜めるつもりもなく囁いた。
「やはりお似合いですわね」
「ええ、まるで最初から決まっていたみたい」
その言葉が耳に刺さる。
リシェルは視線を落とした。
立ち去ろうと思ったのに、一歩が出ない。
するとセレフィーナがこちらに気づき、ぱっと花が開くように微笑んだ。
「リシェル様」
呼ばれ、逃げられなくなる。
「おはようございます」
「……おはようございます、セレフィーナ様」
「昨日はお疲れになったでしょう? 最終試験、大変でしたわね」
柔らかな声。思いやるような響き。
けれどその青緑の瞳の奥に、冷たい光が一瞬だけ揺れたのを、リシェルは見逃さなかった。
「ええ、少し」
「わたくし、王妃殿下から伺ってしまって。お力になれることがあればと思っておりますの」
何を、どこまで聞いたのだろう。
聞かなくてもわかる。
少なくとも、妃になれないという結論は知っているはずだ。
「お気遣い、ありがとうございます」
「うふふ。リシェル様は本当にお優しいのね」
その言葉に、昨日の王妃の声が重なる。
優しいだけでは足りません。
胸がちくりと痛んだ。
王妃はそんな二人をしばらく見比べ、静かに口を開いた。
「リシェル。あとで部屋へ来なさい。話があります」
「……かしこまりました」
「セレフィーナ、あなたはそのままご一緒なさい」
「はい、王妃殿下」
楽しげに微笑むセレフィーナ。
その姿があまりに自然で、まるで最初からそこにいるべき人のようで、リシェルは自分の立っている場所だけが急に曖昧になった気がした。
王妃とセレフィーナが去っていく。
その後ろ姿を見送りながら、リシェルは小さく息を吐いた。
「……露骨ですね」
隣でミラが、珍しく感情をにじませた声で言った。
「ミラ」
「申し訳ありません」
「いいの。……わかっていたことだもの」
本当は、わかってなどいなかったのかもしれない。
目の前で見せつけられると、想像していた以上に堪える。
王妃の私室へ向かう足取りは、昨日よりも重かった。
今日はもう宣告ではなく、整理の話になるのだろう。
妃教育の記録の扱い。今後の立場。社交の場での振る舞い。
静かに身を引くための手順を、一つずつ与えられるのだと思う。
けれど、部屋の前に立った時、予想とは違う声が聞こえた。
「それは認められません」
低く、抑えられているのに鋭い声。
アシュレイだった。
心臓が大きく跳ねる。
扉は閉じている。中の様子は見えない。だが、廊下にまで張りつめた空気が伝わってきた。
「殿下、ここでお待ちくださいとは言われておりませんが」
侍従が困ったように言う。
「……少しだけ、待ちます」
リシェルはそう答えた。
待っている間も、中の声は途切れ途切れに聞こえた。
「母上が決めることではない」
「王太子妃は国の顔です」
「だからといって――」
「感情で国は治まりません、アシュレイ」
王妃の声は冷静で、揺るがない。
対するアシュレイの声には、昨日よりはっきりと怒りが滲んでいた。
まさか、本当に。
昨夜の言葉は、慰めではなかったのだろうか。
彼は本当に王妃に反発しているのだろうか。
期待してはいけない。
そう思うのに、胸の奥で小さな灯が勝手に揺れ始める。
やがて、扉が内側から開いた。
先に出てきたのはアシュレイだった。
銀を溶かしたような淡い金髪が、窓からの光を受けてひやりと光る。整いすぎた顔立ちはいつも以上に険しく、灰青の瞳には隠しようのない苛立ちが宿っていた。
そして彼は、扉の前に立つリシェルを見るなり、足を止めた。
「……来ていたのか」
「はい。お呼びだと伺って」
「そうか」
短く答える声は、まだ怒りの熱を含んでいた。
けれどリシェルに向ける視線だけは、昨日のように強くはなく、むしろ何かを堪えるようだった。
「殿下」
呼びかけると、アシュレイは少しだけ目を細める。
「昨日のことは」
「中へ入れ。母上が待っている」
「……はい」
言いかけた言葉を断ち切られる。
けれどその一瞬、彼の瞳が確かに後で話すと告げていた気がした。
アシュレイはそのまま廊下を去っていく。
長い足取りは速く、迷いがない。
けれど去り際、わずかに振り返りかけて、結局振り返らなかった。
リシェルは小さく息を吸い、王妃の部屋へ入る。
室内には王妃と、そしてセレフィーナがいた。
昨日と同じ白い薔薇の香り。整いすぎた調度。静かな光。
けれど今日は、そこへ蜂蜜色の髪をきらめかせるセレフィーナがいるせいで、部屋そのものの印象がまるで違って見えた。
「来ましたか、リシェル」
「お呼びにより参上いたしました」
「座りなさい」
勧められるまま席に着く。
セレフィーナは王妃の少し後ろに控え、完璧な微笑を浮かべていた。
「昨日の件について、今後の方針を伝えます」
「……はい」
やはりそうだ。
「妃教育は終了します。記録は王家預かりとし、あなたが自ら口外することは禁じます」
「かしこまりました」
「社交の場においても、軽率な振る舞いは慎みなさい。余計な憶測を招きます」
「はい」
一つ一つ、静かに決められていく。
自分の意思とは関係なく、立場が閉じていく。
「そして今後しばらく、セレフィーナに王宮の行事を学ばせます」
「……そう、ですか」
かすかに喉が詰まった。
だが、驚くことではなかった。
王妃は続ける。
「補佐として必要なことがあれば、あなたにも協力してもらいます」
「補佐」
「ええ。これまで学んだことが無駄になるわけではありません」
それは温情なのだろうか。
それとも、次に選ばれた娘のために自分の積み重ねを差し出せということなのか。
リシェルは膝の上でそっと指を握りしめた。
その時、セレフィーナがやわらかく口を開いた。
「王妃殿下、わたくし、リシェル様には本当に感謝しておりますの。長く学ばれてきたご経験があるのですもの、ぜひいろいろ教えていただきたいですわ」
美しい笑顔。柔らかな声。
誰が見ても善意にしか聞こえない言い方だった。
けれど、リシェルの胸には別の痛みとして落ちる。
奪う側の余裕。
それを見せつけられている気がした。
「……わたくしにできることでしたら」
そう答えるしかない。
「ありがとうございます、リシェル様」
セレフィーナはうっとりするほど愛らしく微笑む。
その顔を見ていると、自分がどこまでも色を持たない人形のように思えてしまう。
だが次の瞬間、王妃が少し眉を寄せた。
「もっとも、まだ正式に何かが決まったわけではありませんが」
「王妃殿下?」
セレフィーナがきょとんと首を傾げる。
「アシュレイが強く反対しています」
「……まあ」
その声音は驚いたふうだったが、目の奥は笑っていなかった。
リシェルも思わず顔を上げる。
王妃は淡々と続けた。
「感情に任せた反発です。いずれ理解するでしょう。ですが、それまでは表向きの動きは慎重に進めます」
感情に任せた反発。
そう言われてしまえば、それまでなのかもしれない。
それでも、アシュレイが強く反対しているという事実だけが、胸の奥に静かに落ちた。
昨日の言葉は幻ではなかったのだ。
「話は以上です。下がりなさい、リシェル」
「……はい」
立ち上がり、一礼する。
その時、セレフィーナの青緑の瞳がまっすぐこちらを見た。
にこりと笑う。
「またお話しできますわよね、リシェル様」
断れない形で、彼女はそう言った。
「……ええ」
リシェルは微笑んで返した。
それしかできなかった。
部屋を出ると、回廊の端にノア第二王子が立っていた。
兄とは違い、やわらかな茶色の髪と人好きのする顔立ちをした青年は、リシェルを見ると困ったように笑った。
「やっぱり出てきた」
「ノア殿下」
「兄上を探してるんだけど、今は話しかけないほうがよさそうでね」
「……とても、お怒りでした」
「でしょうね」
ノアは壁にもたれ、肩をすくめる。
「兄上、昔からリシェル嬢のことになるとだめだから」
「え?」
「いや、こっちの話」
さらりと流され、リシェルは戸惑う。
ノアは少しだけ真面目な顔になると、声を落とした。
「兄上は、諦めてないよ」
「ノア殿下」
「母上が何を言っても、たぶん無理だ。あの人、ああ見えて意地になったら動かないから」
「……でも」
「でもじゃない。兄上が今まで動かなかったのは、動けなかっただけだ。そこは本当に、あの人が悪い」
言葉を失う。
ノアは苦笑して、最後にぽつりと言った。
「まあ、遅すぎるけどね」
それだけ言うと、軽く手を振って去っていく。
遅すぎる。
その言葉は、やけに胸に残った。
そうだ。
たとえ今さら諦めていないと言われても、昨日までの自分が傷ついていなかったことにはならない。
期待して、傷ついて、諦めようとして、それでもまだ少しだけ期待してしまう。そんな自分が一番苦しい。
けれど――
王妃が決めた。
セレフィーナが王妃の隣にいる。
アシュレイは反対している。
何一つ、終わっていなかった。
回廊の窓から見える中庭では、春を待つ木々がかすかに揺れている。
嵐の前のような静けさだった。
そしてリシェルはまだ知らない。
自分を静かに退かせようとする流れの中で、王太子が本気で逆らい始めたことを。
それが王宮の空気をどれほど大きく変えてしまうのかを。
窓の向こうはよく晴れていた。薄い雲が流れ、やわらかな朝の光がカーテン越しに差し込んでいる。春は確かに近づいているのに、リシェルの心だけが昨日のまま冷えきっていた。
あなたは妃になれません。
目を閉じても、その声が蘇る。
優雅で、穏やかで、決して乱れない王妃の声音。怒りではなく、決定として告げられた言葉だったからこそ、なおさら逃げ場がなかった。
ベッドの上で身を起こし、リシェルは膝の上で手を重ねた。細い指先は朝だというのにまだ冷たい。
そして、もう一つ。
誰が、お前を妃にしないと言った。
昨夜のアシュレイの言葉もまた、何度も胸の中で繰り返されていた。
思い出すだけで息が苦しくなる。
あんなふうに真っすぐ言われたことはなかった。いつも静かで、感情を表に出さない人だったからこそ、あの短い言葉の強さが忘れられない。
けれど、彼は優しいからあんな事言ったのだと。
王妃が否定したのだ。
優しい彼が、母に逆らうはずがない。
きっと昨夜は、衝動的にそう言っただけなのだ。傷ついた幼なじみを前にして、放っておけなかっただけ。
そう言い聞かせなければ、期待してしまう。
「お嬢様、お目覚めでございますか」
扉の向こうから、ミラの声がした。
「ええ、起きているわ」
「失礼いたします」
侍女はいつも通り静かに入ってくる。だが、リシェルの顔を見た途端、その表情が少しだけ曇った。
「……あまり、お休みになれませんでしたね」
「顔に出ている?」
「少しだけ」
「困ったわ」
「困ったのはこちらです。今日は誰に見られるかわからないのですから」
そう言いながらも、ミラの手つきは優しかった。カーテンを開け、洗面の支度を整え、朝のドレスを選ぶ。淡い藤色の室内着から、控えめな青灰色のドレスに着替えさせられながら、リシェルは鏡の中の自分を見た。
淡い栗色の髪。白い肌。静かな榛色の瞳。
昨日王妃に言われた通り、やはり華やかではないと思う。
セレフィーナのように、ただ立っているだけで場を明るくする美しさではない。
そう思った瞬間、自分で自分を傷つけているようで、リシェルはそっと目を伏せた。
「お嬢様」
ミラが髪を整えながら、鏡越しにこちらを見る。
「本日のご予定ですが、朝食のあと、王妃殿下付きの女官がいらっしゃるそうです」
「……そう」
やはり来るのだ。
昨日、王妃は今後については、こちらで整えると言った。
その今後が今日から始まる。
「お嬢様」
「なに?」
「何を言われても、どうかお一人で抱え込まれませんよう」
「……できるだけ、そうするわ」
「できるだけではなく、必ずです」
「ミラ」
「はい」
「あなた、最近少し強くなったわね」
「お嬢様が弱っていらっしゃるからです」
思わず、少しだけ笑ってしまった。
笑えるうちは、まだ大丈夫なのかもしれない。
朝食の席にアシュレイはいなかった。
もともと毎朝必ず顔を合わせる間柄ではない。王族と妃候補、同じ王宮に暮らしていても、会う機会は限られている。けれど昨夜のあとでは、彼の姿がないだけで妙に胸がざわついた。
来ないほうがいい、とも思う。
顔を見たら、昨夜の言葉をまた思い出してしまうから。
なのに、どこかで探してしまう自分がいた。
食事を終えて自室へ戻る途中、回廊の先が不自然に騒がしいことに気づいた。女官たちの声。侍従の慌ただしい足音。いつもは静かな午前の王宮には似つかわしくないざわめきだった。
「何かあったのかしら」
「少し様子を見てまいります」
ミラが一歩前へ出ようとした、その時だった。
向こうの角から、鮮やかな笑い声が聞こえた。
「まあ、本当に素敵ですわ、王妃殿下」
その声だけで誰かわかる。
セレフィーナ・ド・ヴァルティエだ。
思わず足が止まった。
磨き上げられた廊下の向こうから、数人の女官を従えて現れた彼女は、朝の光の中でもひどく華やかだった。蜂蜜色の髪はやわらかく波打ち、青緑の瞳は楽しげに輝いている。淡い薔薇色のドレスは上品なのに人目を引き、歩くたび、裾に施された繊細な刺繍がきらりと光った。
隣を歩く王妃もまた美しい。
その横に立っても見劣りせず、むしろ場を明るく見せるのだから、やはりセレフィーナは選ばれる側の娘なのだと思い知らされる。
女官の一人が、声を潜めるつもりもなく囁いた。
「やはりお似合いですわね」
「ええ、まるで最初から決まっていたみたい」
その言葉が耳に刺さる。
リシェルは視線を落とした。
立ち去ろうと思ったのに、一歩が出ない。
するとセレフィーナがこちらに気づき、ぱっと花が開くように微笑んだ。
「リシェル様」
呼ばれ、逃げられなくなる。
「おはようございます」
「……おはようございます、セレフィーナ様」
「昨日はお疲れになったでしょう? 最終試験、大変でしたわね」
柔らかな声。思いやるような響き。
けれどその青緑の瞳の奥に、冷たい光が一瞬だけ揺れたのを、リシェルは見逃さなかった。
「ええ、少し」
「わたくし、王妃殿下から伺ってしまって。お力になれることがあればと思っておりますの」
何を、どこまで聞いたのだろう。
聞かなくてもわかる。
少なくとも、妃になれないという結論は知っているはずだ。
「お気遣い、ありがとうございます」
「うふふ。リシェル様は本当にお優しいのね」
その言葉に、昨日の王妃の声が重なる。
優しいだけでは足りません。
胸がちくりと痛んだ。
王妃はそんな二人をしばらく見比べ、静かに口を開いた。
「リシェル。あとで部屋へ来なさい。話があります」
「……かしこまりました」
「セレフィーナ、あなたはそのままご一緒なさい」
「はい、王妃殿下」
楽しげに微笑むセレフィーナ。
その姿があまりに自然で、まるで最初からそこにいるべき人のようで、リシェルは自分の立っている場所だけが急に曖昧になった気がした。
王妃とセレフィーナが去っていく。
その後ろ姿を見送りながら、リシェルは小さく息を吐いた。
「……露骨ですね」
隣でミラが、珍しく感情をにじませた声で言った。
「ミラ」
「申し訳ありません」
「いいの。……わかっていたことだもの」
本当は、わかってなどいなかったのかもしれない。
目の前で見せつけられると、想像していた以上に堪える。
王妃の私室へ向かう足取りは、昨日よりも重かった。
今日はもう宣告ではなく、整理の話になるのだろう。
妃教育の記録の扱い。今後の立場。社交の場での振る舞い。
静かに身を引くための手順を、一つずつ与えられるのだと思う。
けれど、部屋の前に立った時、予想とは違う声が聞こえた。
「それは認められません」
低く、抑えられているのに鋭い声。
アシュレイだった。
心臓が大きく跳ねる。
扉は閉じている。中の様子は見えない。だが、廊下にまで張りつめた空気が伝わってきた。
「殿下、ここでお待ちくださいとは言われておりませんが」
侍従が困ったように言う。
「……少しだけ、待ちます」
リシェルはそう答えた。
待っている間も、中の声は途切れ途切れに聞こえた。
「母上が決めることではない」
「王太子妃は国の顔です」
「だからといって――」
「感情で国は治まりません、アシュレイ」
王妃の声は冷静で、揺るがない。
対するアシュレイの声には、昨日よりはっきりと怒りが滲んでいた。
まさか、本当に。
昨夜の言葉は、慰めではなかったのだろうか。
彼は本当に王妃に反発しているのだろうか。
期待してはいけない。
そう思うのに、胸の奥で小さな灯が勝手に揺れ始める。
やがて、扉が内側から開いた。
先に出てきたのはアシュレイだった。
銀を溶かしたような淡い金髪が、窓からの光を受けてひやりと光る。整いすぎた顔立ちはいつも以上に険しく、灰青の瞳には隠しようのない苛立ちが宿っていた。
そして彼は、扉の前に立つリシェルを見るなり、足を止めた。
「……来ていたのか」
「はい。お呼びだと伺って」
「そうか」
短く答える声は、まだ怒りの熱を含んでいた。
けれどリシェルに向ける視線だけは、昨日のように強くはなく、むしろ何かを堪えるようだった。
「殿下」
呼びかけると、アシュレイは少しだけ目を細める。
「昨日のことは」
「中へ入れ。母上が待っている」
「……はい」
言いかけた言葉を断ち切られる。
けれどその一瞬、彼の瞳が確かに後で話すと告げていた気がした。
アシュレイはそのまま廊下を去っていく。
長い足取りは速く、迷いがない。
けれど去り際、わずかに振り返りかけて、結局振り返らなかった。
リシェルは小さく息を吸い、王妃の部屋へ入る。
室内には王妃と、そしてセレフィーナがいた。
昨日と同じ白い薔薇の香り。整いすぎた調度。静かな光。
けれど今日は、そこへ蜂蜜色の髪をきらめかせるセレフィーナがいるせいで、部屋そのものの印象がまるで違って見えた。
「来ましたか、リシェル」
「お呼びにより参上いたしました」
「座りなさい」
勧められるまま席に着く。
セレフィーナは王妃の少し後ろに控え、完璧な微笑を浮かべていた。
「昨日の件について、今後の方針を伝えます」
「……はい」
やはりそうだ。
「妃教育は終了します。記録は王家預かりとし、あなたが自ら口外することは禁じます」
「かしこまりました」
「社交の場においても、軽率な振る舞いは慎みなさい。余計な憶測を招きます」
「はい」
一つ一つ、静かに決められていく。
自分の意思とは関係なく、立場が閉じていく。
「そして今後しばらく、セレフィーナに王宮の行事を学ばせます」
「……そう、ですか」
かすかに喉が詰まった。
だが、驚くことではなかった。
王妃は続ける。
「補佐として必要なことがあれば、あなたにも協力してもらいます」
「補佐」
「ええ。これまで学んだことが無駄になるわけではありません」
それは温情なのだろうか。
それとも、次に選ばれた娘のために自分の積み重ねを差し出せということなのか。
リシェルは膝の上でそっと指を握りしめた。
その時、セレフィーナがやわらかく口を開いた。
「王妃殿下、わたくし、リシェル様には本当に感謝しておりますの。長く学ばれてきたご経験があるのですもの、ぜひいろいろ教えていただきたいですわ」
美しい笑顔。柔らかな声。
誰が見ても善意にしか聞こえない言い方だった。
けれど、リシェルの胸には別の痛みとして落ちる。
奪う側の余裕。
それを見せつけられている気がした。
「……わたくしにできることでしたら」
そう答えるしかない。
「ありがとうございます、リシェル様」
セレフィーナはうっとりするほど愛らしく微笑む。
その顔を見ていると、自分がどこまでも色を持たない人形のように思えてしまう。
だが次の瞬間、王妃が少し眉を寄せた。
「もっとも、まだ正式に何かが決まったわけではありませんが」
「王妃殿下?」
セレフィーナがきょとんと首を傾げる。
「アシュレイが強く反対しています」
「……まあ」
その声音は驚いたふうだったが、目の奥は笑っていなかった。
リシェルも思わず顔を上げる。
王妃は淡々と続けた。
「感情に任せた反発です。いずれ理解するでしょう。ですが、それまでは表向きの動きは慎重に進めます」
感情に任せた反発。
そう言われてしまえば、それまでなのかもしれない。
それでも、アシュレイが強く反対しているという事実だけが、胸の奥に静かに落ちた。
昨日の言葉は幻ではなかったのだ。
「話は以上です。下がりなさい、リシェル」
「……はい」
立ち上がり、一礼する。
その時、セレフィーナの青緑の瞳がまっすぐこちらを見た。
にこりと笑う。
「またお話しできますわよね、リシェル様」
断れない形で、彼女はそう言った。
「……ええ」
リシェルは微笑んで返した。
それしかできなかった。
部屋を出ると、回廊の端にノア第二王子が立っていた。
兄とは違い、やわらかな茶色の髪と人好きのする顔立ちをした青年は、リシェルを見ると困ったように笑った。
「やっぱり出てきた」
「ノア殿下」
「兄上を探してるんだけど、今は話しかけないほうがよさそうでね」
「……とても、お怒りでした」
「でしょうね」
ノアは壁にもたれ、肩をすくめる。
「兄上、昔からリシェル嬢のことになるとだめだから」
「え?」
「いや、こっちの話」
さらりと流され、リシェルは戸惑う。
ノアは少しだけ真面目な顔になると、声を落とした。
「兄上は、諦めてないよ」
「ノア殿下」
「母上が何を言っても、たぶん無理だ。あの人、ああ見えて意地になったら動かないから」
「……でも」
「でもじゃない。兄上が今まで動かなかったのは、動けなかっただけだ。そこは本当に、あの人が悪い」
言葉を失う。
ノアは苦笑して、最後にぽつりと言った。
「まあ、遅すぎるけどね」
それだけ言うと、軽く手を振って去っていく。
遅すぎる。
その言葉は、やけに胸に残った。
そうだ。
たとえ今さら諦めていないと言われても、昨日までの自分が傷ついていなかったことにはならない。
期待して、傷ついて、諦めようとして、それでもまだ少しだけ期待してしまう。そんな自分が一番苦しい。
けれど――
王妃が決めた。
セレフィーナが王妃の隣にいる。
アシュレイは反対している。
何一つ、終わっていなかった。
回廊の窓から見える中庭では、春を待つ木々がかすかに揺れている。
嵐の前のような静けさだった。
そしてリシェルはまだ知らない。
自分を静かに退かせようとする流れの中で、王太子が本気で逆らい始めたことを。
それが王宮の空気をどれほど大きく変えてしまうのかを。
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